アメリカ合衆国の歴史 (1865-1918)

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本稿では1865年から1918年に掛けてのアメリカ合衆国の歴史を扱う。この期間は南北戦争 の後のレコンストラクション に始まり、工業化 が進展した時代だった。社会と労働力の急激な変化が多くの労働組合 を生み、ストライキ が何度も行われた。

南北戦争が終わったとき、アメリカ合衆国は分裂したままだった。レコンストラクションとその失敗により、南部の白人は黒人達に対する支配関係を続け、その公民権 を否定し、経済、社会、および政治の分野では第2の階級にしておいた。

ヨーロッパ を中心とする他の大陸からは1840年から1920年までに3,700万人という前例の無いような移民 の波が訪れ、安い工場労働力を提供し、カリフォルニア州 のようなまだ開発が進んでいなかった地域に多様な地域社会を形成した。工業の発展と人口の拡大は少なからぬ犠牲も発生させた。大抵のインディアン 部族は小さな居留地に押し込められ、白人の農園主や牧場主がその土地を手に入れた。工場における労働者の虐待が暴力を伴う労働運動を生むようになった。工業における虐待慣習によって労働運動 は暴力的な様相を示すようになった。

この期間、国内では人口増加と工業の成長、海外では多くの帝国主義 的事業により、アメリカ合衆国は国際社会における力を高め始めた。19世紀が終わる頃までにアメリカ合衆国は、新しい技術(電信 や製鉄のベッセマー法 など)に基づいて世界でも先進的な工業国になり、鉄道 網を国中に張り巡らし、豊富な天然資源 を使って第二次産業革命 の先駆者となった。

19世紀末、アメリカ合衆国はキューバ を征服して、スペイン の支配から事実上アメリカの支配下に置き、ハワイプエルトリコ を併合した。米西戦争 の終わりにはフィリピン を獲得し、人民数十万人を殺害してその独立運動 を抑圧し、フィリピン諸島の近代化を進めて、特に数十万人を殺した伝染病の流行を止めるために公衆衛生を改善した。

第一次世界大戦 では、アメリカ合衆国はかなり遅く1917年に連合国 側で参戦し、戦争の行き詰まりを打開したことで、アメリカは軍事大国かつ経済大国になった、


レコンストラクション [編集 ]

詳細は「レコンストラクション 」を参照

レコンストラクションは南北戦争の後の時代を指し、敗れたアメリカ連合国 に所属していた南部 諸州が再度アメリカ合衆国の中に統合された。解放奴隷 に公民権を確立しようという試みが、南部白人の間に連邦政府に向けた長びく敵意を生じさせた。

エイブラハム・リンカーン 大統領は暗殺 される前に中庸的なレコンストラクション計画を認めていた。しかし、戦争期間の莫大な人的犠牲とそれによる社会的変動によって、アメリカ合衆国議会 は解放奴隷の保護を含めまず必須条件を課すこと無くしては反逆を起こした州の再加盟に抵抗することになった。リンカーンのその後長続きした遺産には、反逆州における奴隷を解放する1863年の奴隷解放宣言 と、元奴隷を教育し、健康管理と雇用を促す1865年3月設立の解放奴隷局があった。アメリカ合衆国憲法修正第13条 が1865年12月に批准され、アメリカ合衆国全てで年季を定めた隷属が違法とされた。リンカーンの後継者であるアンドリュー・ジョンソン が 議会で多数派である共和党の意志に対して頑迷に抵抗したことは、「議会のレコンストラクション」あるいは「急進派レコンストラクション」と呼ばれるものに 繋がった。1866年から1868年、議会は一連のレコンストラクション法を成立させて南部州が再加盟する条件と手続を定め、1866年の公民権法ではあ らゆる人々に白人と同じ市民権を与えた。

レコンストラクションの下で、解放奴隷、スキャラワグ およびカーペットバッガー共和党 が連衡して南部州政府を支配し、アフリカ系アメリカ人 に市民権を与えるアメリカ合衆国憲法修正第14条 を批准した。これらの政府は鉄道や公立学校を建設するために重い借金を抱え、税率を上げたので次第に激しい抵抗に合うようになり、その結果スキャラワグの大半が民主党に移った。ユリシーズ・グラント 大統領はサウスカロライナ州ミシシッピ州 およびルイジアナ州 でアフリカ系アメリカ人に対する公民権保護を強制した。1870年にアメリカ合衆国憲法修正第15条 が批准されてアフリカ系アメリカ人に選挙権 を与えた。1875年公民権法が成立して、人種や以前の隷属関係に関係なく、人々が公的施設を利用する権利を保障した。

レコンストラクションは州によって異なる期間続いた。最後は1876年アメリカ合衆国大統領選挙 で共和党のラザフォード・ヘイズ が接戦の末に対抗馬民主党のサミュエル・ティルデン を 破った時だった。選挙人投票結果について異論が続出し、議会は選挙管理委員会を設けてその収拾を図った。委員会の裁定は論争のあった票を全てヘイズに与え ることになったが、この決着の影にいわゆる「1877年妥協」があり、南部白人は当時共和党が支配しておりレコンストラクションの終わっていない南部3州 での軍事支配をヘイズが終わらせる提案をしたことを知って委員会裁定を黙認した。レコンストラクションそのものは、北部白人が南北戦争の終結と南部白人か ら国家に対する脅威が無くなったことを認めたことで終結した。

レコンストラクションの終わりは、まだ南部での人口が多かったアフリカ系アメリカ人にとって公民権と市民としての自由というものが信じられた短い期間の終わりでもあった。しかし、人種差別 はレコンストラクションの行われた南部のみならず、国中至る所で見出された。白人至上主義 者がジム・クロウ法 を通じて差別された社会を創りだし、南部の白人特権階級(リディーマー 、ブルボン民主党の南部会派)が「ソリッド・サウス」と呼ばれる圧倒的な民主党 支配下 で確固たる政治と経済の支配力を確保した。田園地帯では地方の法律執行力が弱く、激怒した暴徒が黒人の犯罪容疑者をリンチ することを許した。

インディアン戦争 [編集 ]

詳細は「インディアン戦争 」を参照

アメリカ合衆国西部 の平原や山岳地に鉱山師、牧場主および農場開拓者などが進出していったことで、そこに先住していたインディアンとの紛争が拡大した。連邦政府はインディアン達に割り当てられた居留地 に留まらせることを主張し、そこに留めておくために力を用いた。1880年代に暴力沙汰は減っていき、事実上1890年で止んだ。1880年までに狩猟経済の基盤だったバッファロー の群れは消失していた。白人の社会改革者達は迅速にインディアンをアメリカ社会の中に同化することを望み、ペンシルベニア州 カーライルのカーライル・インディアン工業学校のような訓練計画や学校を設定した。この中から多くの著名な指導者が育った。しかし同化に反対する勢力は抵抗した。

1876年 、ダコタ・ゴールドラッシュ がブラック・ヒルズを通り過ぎた時に最後の重大なスー族戦争 が起こった。アメリカ軍はスー族(ラコタ 派)の狩猟場に鉱山師が入らないように手配することを怠った。この地域で狩りをしているスー族に対し行動を取るよう命令が出たとき、条約の取り決めに従って軍隊は活発に動いた。幾つかの決着の着かない遭遇の後で、ジョージ・アームストロング・カスター 将軍はラコタとその同盟の主要宿営地を発見した。1876年6月25日リトルビッグホーンの戦い で、本隊とは離れて行動していたカスター将軍の部隊が、戦術的な利点があり数的にも上回ったインディアンに全滅させられた。インディアンはクレイジー・ホース に率いられ、シッティング・ブル の勝利の予言によって鼓舞されていた。

その後の1890年サウスダコタ州 ウンデット・ニーの北部ラコタ居留地でゴーストダンスの儀式の際に、アメリカ軍はラコタの武装解除を試みた。このときに銃撃が起こり、兵士達はおよそ100名のインディアンを殺した(ウンデット・ニーの虐殺 )。死亡した約25名の兵士は友軍の銃撃で死んだ可能性がある。これが表だったインディアンとの紛争の最後のものになった。

社会改革者達は居留地に居るインディアンが個人として土地を所有できるようにするという解決策をとることにした。1887年、ドーズ法 に よってインディアンの土地を分割し、1家族の一人あたり160エーカー (0.65 km2) の土地を与える提案を行った。このような割り当て土地はその後25年間連邦政府から委託され、その後は所有者が全的な権利(売却や抵当入れも可能)を得 て、完全な市民権も獲得した。しかしこのようにして手に入れた土地は開拓者に売りに出された。この政策は、インディアンが部族固有の土地のほぼ半分を売却 したことになり、インディアンにとっては損失になった。また部族間の社会的組織の大半も破壊され、生き残った先住民としての伝統的な文化も混乱した。ドー ズ法はインディアンをアメリカの本流と一体化させることを目指したものであり、大半は同化してアメリカ社会の中に吸収され、数多いアメリカ人の家庭の中に インディアンの血を残した。同化を拒んだ者達は居留地で貧困に喘ぎ、連邦政府から食料、薬および教育などの支援を受けた。

1934年のインディアン再組織化法によってアメリカ合衆国の政策が逆転し、居留地の部族とその生活様式を保護するようになった。

工業化 [編集 ]

詳細は「アメリカ合衆国の技術と産業の歴史 」を参照

1865年から1913年頃までの間に、アメリカ合衆国は世界でも先進的な工業国に成長した。土地と労働力が豊富にあり、気候が多様で、運河 、川および海岸水域など航行可能な水域があることで勃興する工業経済の交通 需要を満たし、さらに天然資源が豊富なことにより、安価なエネルギー、迅速な輸送を可能にし、また資本 が潤沢に使えたことで、第二次産業革命を強力に推進できた。

「鉄のある所に石炭有り。」物の生産は手工業から工場生産に移り、生産のための組織、協調関係および規模が拡大して、さらには技術の進歩や輸送機関の発展が拍車を掛けた。鉄道が西部を開き、誰もいなかった所に農場、町や市場ができた。最初の大陸横断鉄道 は国家のことを優先する事業家達によって、イギリスの金を使い、アイルランド人中国人 の労働力で建設され、以前は僻遠の地だった所への旅を可能にした。鉄道の建設で、資本、貸付および農夫になろうという者に大きな機会が生まれた。

製鉄や製鋼においてはベッセマー法や平炉 のような新技術が化学 など他の科学分野での類似した革新と組合せされ生産性を著しく上げた。電報や電話など新しい通信手段は管理者達が遠距離を隔てても協調できるようにした。ヘンリー・フォード が始めた移動する組み立てラインやフレデリック・ウィンスロー・テイラー科学的管理法 など、労働とその組織の編成にも大きな革新が起こった。

この時代に要求された大企業の財務を裏付けるために、持株会社 が現れ、事業組織の支配的形態になった。法人はトラスト を結んで拡大し、競合する会社を一つにしてモノポリ と呼ばれる形態も出現した。高関税が外国との競合からアメリカの工場と労働者を守り、連邦政府による鉄道への助成金 が投資家、農夫および鉄道労働者を富ませ、数多い町や都市を創った。政府のあらゆる部局は概して労働者が組合を作ったり、ストライキをやることを止めるように動いた。

集合的に「泥棒男爵 」と呼ばれたアンドリュー・カーネギージョン・ロックフェラー およびジェイ・グールド の ような大工業資本家が大きな富と力を蓄えた。富を蓄積するための冷酷非情な競争の中で、古いスタイルの職人達の熟練労働は、給料の良い熟練労働者や技師に 道を譲り、国全体が技術の基盤に凭りかかった。一方、着実な移民の流入により、特に鉱業や製造業で安い労働力の有用性が高まった。