サロメ (ヘロディアの娘)

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サロメ/シュトゥック 「サロメ」

サロメ(Salome または Salomé、ヘブライ語 : שלומית‎ Shlomit)は、1世紀 頃の古代パレスチナ に実在したとされる女性。義理の父は古代パレスチナの領主ヘロデ・アンティパス 、実母はその妃ヘロディア 。古代イスラエルの著述家フラウィウス・ヨセフス が著した『ユダヤ古代誌』や、『新約聖書 』の「福音書 」などに伝わる。イエス洗礼 を授けた洗礼者ヨハネ の首を求めた人物として、キリスト教 世界では古くから名が知られ、その異常性などから多くの芸術作品のモティーフとなってきた。新約聖書では、「サロメ」の名を伝えていないことから、学問上は単にヘロディアの娘と呼ぶことが多い。

伝承 [編集 ]

イエス(中央)と洗礼者ヨハネ(右)/ピエロ・デラ・フランチェスカ 「キリストの洗礼」、1449年
en:Jean Fouquetヘロデ大王エルサレム 占領」、15世紀後半
ヘロデ・アンティパス (右)とイエス(左中央)/アルブレヒト・デューラー 、1509年
洗礼者ヨハネ/en:Geertgen tot Sint Jans 「パプティスマのヨハネ」、15世紀
洗礼者ヨハネ/レオナルド・ダ・ヴィンチ 「洗礼者ヨハネ」、1513-1516年
エリヤ/en:José de Ribera 「エリヤ(Elijah)」、1638年

サロメは、新約聖書に登場する女性。サロメの義理の父は、ユダヤヘロデ大王 の息子である古代パレスチナの領主ヘロデ・アンティパス 。また、サロメの実父はヘロデ・アンティパスの弟であるため、ヘロデ・アンティパスの姪でもある。サロメの実母は、ヘロデ・アンティパスの弟の妻であり、後にヘロデ・アンティパスの妻となったヘロディア 。サロメは、ヘロデ・アンティパスに、祝宴での舞踏の褒美として「好きなものを求めよ」と言われ、母ヘロディアの命により「洗礼者ヨハネ の斬首」を求めた。

新約聖書には、サロメの名は記されていない。しかし、古代イスラエルの著述家であるフラウィウス・ヨセフスが著した『ユダヤ古代誌』には、「サロ メ」という女性の名がある。この「サロメ」は、洗礼者ヨハネとの関係では大きく違うが、父母等の名が聖書の記事と一致する。そのため、同一人物であると考 えられ、「サロメ」の名で呼ぶことが定着している。また、サロメは、新約聖書以外の文献の記述から、西暦14年 頃に生まれ、その死は62年 から71年 の間と考えられるが、その生涯の詳細については定かでない。

以下では、双方の伝承について解説する。

新約聖書における記述 [編集 ]

「ヘロディアの娘」については共観福音書 に記述がある[1] 。これらの記述が歴史的事実に基づくか否かは確定されていない。

『マルコによる福音書』 [編集 ]

マルコによる福音書 』には、以下のような記述がある。[2] [3]

14するとヘロデ王が〔イエスのことを〕聞き及んだ。彼の名前があらわになったからである。そこである人々は言っていた、「洗礼する者ヨハネが死人たちの中から起こされたのだ、だからこそこれらの力が彼の中で働いているのだ」。15またほかの者たちは「彼はエリヤだ」と言い、またほかの者たちは「〔かつての〕預言者の一人のような預言者だ」と言っていた。16また、ヘロデは〔これを〕聞いて言うのであった、「わしが首を斬り落としたあのヨハネ、あいつが起こされたのだ」。

17というのも、ヘロデ自身が、彼の兄弟フィリッポスの妻ヘロディアのゆえに、人を遣わし、ヨハネを逮捕し、彼を獄に縛りつないだのであった。それは、ヘロデが彼女を娶ったからである。18なぜなら、ヨハネはヘロデに言ったためである、「お前が自分の兄弟の妻を得るのは、許されることではない」。19そこでヘロディアは彼を恨み、彼を殺したいと思ったが、できずにいた。20なぜならば、ヘロデの方が、ヨハネを正しい聖なる人であると見なして彼を恐れ、彼を保護したからである。〔ヘロデは、〕彼の言うことを聞いてどのようにしたらいいかまったくわからなくなりながらも、喜んでその言うことを聞いていた。

21すると都合の良い日がやって来た。ヘロデが自分の誕生日に宴会を催し、自分の高官たちや、千人隊長たちやガリラヤの名士たちを招いたのである。22そこで彼の〔妻〕ヘロディアの娘が入って来て、舞を舞ったが、それがヘロデとその同席の者たちの気に入った。王は少女に言った、「欲しい物は何でもわしに願い出よ。そうすればお前にやろう」。23そして彼女に誓った、「お前がわしに願い出ることは、たとえそれがわしの王国の半分であっても、お前にやろうぞ」。24そこで彼女は出て行って、その母に言った、「私は何を願い出たらいいの」。すると彼女は言った、「洗礼する者ヨハネの首を」。25そこで彼女はすぐに急いで中に入って王のもとに行き、願い出て言った、「私が欲しいのは、いますぐに、洗礼者ヨハネの首をお盆の上にのせて、私に下さることです」。26そこで王は悲しみにとらわれたが、誓〔ってしまった〕ため、また列席している者たちの手前、彼女〔の願い〕を退けようという気にはなれなかった。27そこで王はすぐに刑吏を遣わして、ヨハネの首を持って来るように言い付けた。そこで刑吏は去って行き、獄でヨハネの首を斬った。28そして、彼の首を盆にのせて運んで来て少女に与え、少女はそれをその母に与えた。29すると、ヨハネの弟子たちはこれを聞いてやって来て、彼の死体を〔引き〕取り、それを墓の中に横たえた。

『マルコによる福音書』第6章

引用部分に関する注記:[4]

  1. (14節)ここで言う「ヘロデ」とは、ヘロデ・アンティパス のことである。
  2. (15節)エリヤ は、旧約聖書 に現れる預言者
  3. (17節)フィリッポス としたのは、福音書記者の誤記。正しくはヘロデ・ボエートス
  4. (18節)洗礼者ヨハネ の非難は、兄弟の妻であった女性との結婚は律法 が「近親相姦」に該当するとして禁じていたことによる。(「レビ記 」(18:16)参照)
  5. (21節)ヘロデ・アンティパスの生年は、紀元前20年かそれ以前と推定されるのみで、誕生日は不明である。

第一と第二段落のつながりにやや不自然さがある。その他の点も考慮すると、

  • 洗礼者ヨハネがヘロデとヘロディアの結婚の不道徳を厳しく批判した。
  • 祝宴の場でヘロディアの娘の舞の褒美として、ヘロディアがヨハネの断首を求め、実行された。

という内容の伝承があり、それをマルコ[5] がこの形に編集したと考えられる。

『マタイによる福音書』 [編集 ]

マタイによる福音書 』では以下のような記述がある。

1その時、四分封領主ヘロデがイエスの噂を聞いて、彼の僕たちに言った、2「あいつは洗礼者ヨハネだ。まさにこいつが死人たち〔の群〕から起こされたのだ。だからこそこれらの力か彼の中で働いているのだ」。

3というのも、ヘロデは、彼の兄弟フィリッボスの妻ヘロディアのゆえに、ヨハネを逮捕して縛り、獄に閉じ込めたのである。4なぜなら、ヨハネは彼に〔くり返し〕言ったためである、「お前が彼女を娶るのは、許されたことではない」。5そこでヘロデは彼を殺したいと思ったが、群集を恐れた。なぜなら、彼らはヨハネを預言者と見なしていたからである。

6さて、ヘロデの誕生日がやって来たので、ヘロディアの娘が〔人々の〕ただ中で舞を舞った。すると彼女はヘロデの気に入った。7そのために彼は、彼女が願い出るものは何でも彼女に与えると、誓いつつ公言した。8すると彼女はその母に唆されて言う、「洗礼者ヨハネの首をこのお盆の上に載せて、わたしにちょうだい」。9そこで王は悲しみながらも、自分と同席している者たちの前で誓った手前、〔彼女に望みのものが〕与えられるように命じ、10人を送って、獄でヨハネの首を斬った。11そして、彼の首が盆に載せて運ばれて来ると、少女に与えられた。そこで彼女は、それをその母のところに運んだ。

12すると、ヨハネの弟子たちが来て、死体を〔引き〕取り、彼を埋葬した。そしてやって来て、イエスに報告した。

『マタイによる福音書』第14章冒頭部分

マタイはマルコのいささか冗長な文章を簡潔にしており、ギリシア語 としても良質な記述である。ヘロデを四分封領主 と訂正しているが、「フィリッボス」の誤りには気づいていない。なお、末尾でヨハネの弟子たちが「イエスに報告した」としているのは、マタイの編集句 とされている。

以上を総合すると、マタイはこの記事では全面的に『マルコによる福音書』に依存しており、追加の伝承・資料を持っていなかったことは明白である。

『ルカによる福音書』 [編集 ]

ルカによる福音書 』では以下のような記述がある。

7すると四分封領主のヘロデは生じたあらゆることを聞き及び、ある人々が言っていることのゆえに〔なすすべが〕まったくわからなくなってしまった。つまり「ヨハネが死人たちの中から起こされた」というのである。8またある人々は〔言った〕、「エリヤが現れた」。またほかの者たちは〔言った〕、「いにしえの預言者が起きあがった」。9しかしヘロデは言った、「ヨハネなら、このわしが首を斬り落とした。だが、こいつは何者だ。こんな〔いろいろな〕ことがわしの耳に入って来るとは」。そこで彼はイエスを見てみたいと願った。

ルカによる福音書 』第9章

ルカも『マルコによる福音書』に全面的に依拠している。

マタイと同様に『マルコ』の文章を大幅に改善しているが、重要なのはヘロディアの娘への言及を含めてヨハネの死に関する具体的記述を完全に削除している点である。これはルカの

  • 洗礼者ヨハネの活動への言及を極力避ける傾向[6]
  • この記述が、彼の福音書には不可欠とは考えなかった
  • 温厚で調和を好む性格から血なまぐさい記述を嫌った

等の結果である。

ヨセフスによる記述 [編集 ]

フラウィウス・ヨセフスがその著書『ユダヤ古代誌 』(93年 - 94年頃完成)において、以下のような記述を行っている。[7] ここでも、〔 〕は原文にない訳者による補足。

第18巻5章2節 [編集 ]

ここでは、洗礼者ヨハネの処刑が記述されている。途中を一部省略したが、節の始めと末尾部分を引用する。

さて、ユダヤ人の中にはヘロデ〔・アンティパス〕の軍隊の壊滅は、洗礼者と呼ばれたヨハネに対して彼が行ったことへの神による罰であり、全く義にか なった事だと考える者たちがいた。というのも、ヘロデは彼を殺害したのである。が、ヨハネは、正しい人であり、ユダヤ人たちに互いに義なるを行い、また神 への敬虔を尽くせと命じ、その証に洗礼を受けに来るように言っていたのである。〔中略〕さて、人々が群れをなしてヨハネの許に押し寄せ、彼の言葉に大きな 感銘を受けていた。ヘロデは、ヨハネの民衆への大きな影響力が、彼の権力に及び、叛乱へと繋がることを恐れた。彼は、ヨハネがもたらすかもしれない一切の 悪影響を防止し、一人の人間の命を惜しんだが故に、ことが起きてから手遅れだったと後悔する様な困難に自らを陥らせぬためには、殺してしまうのが最善だと 考えた。そこでヘロデは、その猜疑心を払拭すべく、囚人を、既に私が言及した城である、マカイロスに送り、そこでヨハネを殺害した。で、ユダヤ人の間に、 彼の軍隊の壊滅はヘロデへの罰であり、神が彼を不快に感じている証だとの説が生じたのである。

『ユダヤ古代誌』第18巻5章2節

すなわち、ヨセフスによればヨハネの処刑はあくまでヘロデ・アンティパスの政治的決断である。従って、ヘロディアや、その娘は処刑にかかわっていないことになる。また、ヨハネの処刑はマカイロス 要塞で行われており、この点もマルコが利用した伝承とは異なっている。

第18巻5章4節 [編集 ]

ここではヘロデ大王家関連の人物関係が記述されている。その途中部分のみを引用する。[8]

(前略)しかし、彼らの姉妹のヘロディアは、ヘロデ大王の息子で、高位の祭司シモンの娘のマリアムネが生んだヘロデ〔・ボエートス〕と結婚し、サロ メという娘ひとりをもうけた。娘が生まれた後、これはわが国の律法の相容れぬことであるが、娘を連れて、夫が存命であるにもかかわらず離婚して、ヘロデ 〔・アンティパス〕と結婚した。彼は前夫の異母兄弟であり、ガリラヤの四分封領主であった。さて、その娘サロメはヘロデ〔大王〕の子でトラコニティスの分 封領主であるフィリッポと結婚したが、子が出来ないうちに彼は死んだ。ヘロデ〔大王〕の子で、アンティパスの兄弟であるアリストブラスが彼女と結婚した。 二人には、ヘロデ、アグリッパ、アリストブラスの三人の息子がうまれた。これらは、ファサエラスとサランピシオの子孫である(後略)

『ユダヤ古代誌』第18巻5章4節

ここに記述されているサロメが

  • ヘロディアの娘である
  • 母の再婚で、叔父に当たるヘロデ・アンティパスの子となった

ことが福音書の記事と一致することから、洗礼者ヨハネの首を求めた娘であるとされた。

芸術作品の素材としてのサロメ [編集 ]

その特異性もあって、古くから多くの芸術作品の素材となってきた。ただし、特に取り上げられることの多かった時期が鮮明である。以下、その点を考慮して時代順に列挙する。[9]

近代以前 [編集 ]

ティツィアーノ 「洗礼者ヨハネの首を持つサロメ」、1515年頃。ドリア・パンフィリ美術館(ローマ )所蔵。
アロンソ・ベルゲーテ 「サロメ」、1512年-16年。
ルーカス・クラナッハ 「サロメ」、1531年。
カラヴァッジオ 「洗礼者の首を持つサロメ」、1605年。
カルロ・ドルチ「ヨハネの首を持つサロメ」、17世紀。

洗礼者ヨハネの刑死はイエスの生涯の物語で重要な場面であるため、西洋絵画では古くからそれに関する絵画が描かれてきた。特にルネサンス 期からバロック 期にかけて、イタリアオランダ などの画家たちによって、きわめて多くの作品のモティーフとされた。

なお男性の首をもつ女性のモティーフにはユディト があるが、ユディトがしばしば剣をさげかつ首はそのまま持たれるのに対して、サロメは剣を持たずヨハネの首は皿に載せられて描かれるので注意が必要である。