月と六ペンス (文庫)
モーム , 行方 昭夫
http://www.amazon.co.jp/%E6%9C%88%E3%81%A8%E5%85%AD%E3%83%9A%E3%83%B3%E3%82%B9-%E3%83%A2%E3%83%BC%E3%83%A0/dp/4003225422/sr=8-2/qid=1168513921/ref=sr_1_2/503-7170974-5841516?ie=UTF8&s=books

★主要な登場人物★

「僕」:語り手、作者のモームと考えられる。名前が出てこないが、作者モームでいいのだろう。

チャールズ・ストリックランド:いわば、主人公である。画家になる以前は、平凡な証券マンであった。画家ポール・ゴーギャンをモデルにしたということである。

ストリックランド夫人
(エイミー・ストリックランド):晩餐会での社交を楽しむ人物で、文学や美術に興味がある。また、同情心のある女性で、家の調度品を優雅にする。

ローズ・ウォータフォード
:女性作家

マカンドルー大佐夫妻:マカンドルー夫人とストリックランド夫人は姉妹である。

ダーク・ストルーヴ:凡庸な画家で、感傷的で世話好きだが、鑑賞眼があり、ストリックランドを評価した。

ブランチ・ストルーヴ:最初は夫ダークに尽くしていたが、ストリックランドの魔力にかかり、夫と別れ、ストリックランドと再婚するが、悲劇の人生となり、自殺する。

ニコルズ船長:マルセイユで、ストリックランドと知り合いになり、タヒチ島に住む。

ティアレ・ジョンソン:タヒチのル・ド・ラ・フルール」の経営者

アタ:タヒチ島の女性で、チャールズ・ストリックランドの妻となる。

ブリュノ船長:フランス人で、ストリックランドの知りあい。島を購入して、椰子の林を創ったことに満足している。

クートラ医師:病気のストリックランドを診療した。


★粗筋と引用★

「わたし」は作家で、売れっ子となり、作家のサロンに出入りして、そこでストリックランド夫 人に出会う。そして、ストリックランド夫人のパーティーに参加することになり、夫のチャールズ・ストリックランドと知り合いになる。そのとき、「わたし」 は次のように夫について記している。「社交性のないのは明白だが、男ならそれがなくとも何とかなる。しかし彼には、並みの人間と違う風変わりなところすら 何ひとつない。お人よしで正直なだけが取り柄の、退屈な、さえない男だった。」(p.49)

しかし、その後、「わたし」は、ローズ・ウォータフォードに、チャールズが妻を捨てて家出したことを聞かされる。「だが、あのときはショックだった。何し ろ、ストリックランドは間違いなく四十歳になっており、こんな年齢の人間が色恋沙汰に関与するなど、とても不快に思えたからだ。」(p.55)

「わたし」は、ストリックランド夫人から、パリに行った夫のチャールズのことの調査を依頼される。チャールズは、パリのクリシ街に住んでいた。彼は、色恋沙汰で、妻を捨てたのではなく、絵を描きたいからであることを、「わたし」に告げる。
『「絵を描かなくてはならんと言っているのが分からんのかね。自分でもどうしようもないのだ。いいかね、人が水に落ちた場合には、泳ぎ方など問題にならんだろうが。水から這い上がらなけりゃ溺れ死ぬのだ」
 彼【チャールズ】の声には真実の情熱がこもっていて、僕は我にもあらず魂をゆさぶられた。彼の内部で何か激しい力が苦闘しているように感じられた。とて も強力な圧倒的な力であり、彼は自分の意志とは無関係にその力に支配されているように感じられた。僕にはしかとは理解できなかった。悪魔的なものに取りつ かれていて、彼が突然ひっくり返され、引き裂かれるとしても、おかしくなかった。それなのに、外見上はごくありふれて見えるのだ。・・・
だぶだぶのズボンをはき、汚れたままの手だ。あごには赤い無精ひげが生え、目は小さく、鼻ばかりが大きく攻撃的で、顔はぶざまで粗野だ。口は大きくて、唇は分厚く好色そうだ。これでは、外部しか見ない者には、まったく見当もつかないだろう。」(pp. 94~95)

「わたし」はロンドンに戻り、チャールズ・ストリックランドがただ一人で、絵の修業をしていることを報告した。結局、マカンドルー夫妻がストリックランド夫妻の子どもを引き取った。ストリックランド夫人は一人新生活を始めた。

五年ほど立ち、「わたし」はパリに行き、チャールズ・ストリックランドに会った。また、前からの友人ダーク・ストルーヴを訪問した。「・・・彼は生まれつ いての道化者だった。職業は画家だったが、三流の画家に過ぎなかった。ローマで知り合いになった・・・。綺麗だが平凡きわまりない絵葉書のような絵を描く ことに、真実の情熱を抱いていた。」p.123

妻のブランチとは、ストーヴは仲がよかった。彼は、ストリックランドが大芸術家と考えている。「美というものは、芸術家が自らの魂を痛めながら、世の混沌 の中から創造する。不思議な素晴らしいものだ。そして、芸術家が創造してからも、誰にでも作品の本質が理解できるわけじゃない。本質が分かるためには、芸 術家と同じ魂の痛み、創造の苦悩を体験しなければならない。作品とは、言うなれば芸術家が歌って聞かせるメロディーであり、それを自分の心で正しく聴くた めには、知恵と感性と想像力がなくてはならない。」p.137

ダーク・ストルーヴが「わたし」をチャールズ・ストリックランドの行きつけのカフェに連れていった。彼は、チェスをやっていた。彼は極端に痩せていた。頬骨は目立つし、目もぎょろりと大きく見えた。こめかみには深い皺(しわ)がある。身体は幽霊であった。
「この六ヶ月は、日に一個のパンと一瓶のミルクで食いつないでいたと聞いた。」

ストリックランドは、絵の修業を絶え間なく行なっていた。「彼を突き動かした情熱を画面に注ぎ込んでしまえばということであろうがーー作品にはいっさいの関心を失う。」「俺は気にしない。自分に見えているものを描きたいだけだ。」p.146,p.147

ストリックランドが病気になり、ダーク・ストルーヴは、彼を自分の家に連れてきて、自分のアトリエを使わせた。妻のブランチは最初激しく反対したが、スト リックランドの看病をまめまめしくした。その後、ストリックランドは起き上がれるようになった。「矛盾した言い方だが、彼【ストリックランド】の官能性は 奇妙に霊的であるように思えたのである。彼にはどこか原始的なところがあった。古代ギリシア人の林野の神サテュロスやファウヌスのような半人半獣神のよう なところがあった。・・・彼に取りついた魔神は善悪以前に存在した原始的な力なのだから。」p.183

その後、ダークに会ったが、妻ブランチがストリックランドに恋して、夫を離婚することを告げた。そして、ブランチとストリックランドは結婚したが、その 後、ブランチが自殺したということを知らされる。また、アトリエには、ストリックランドの描いた妻をモデルにした絵があった。その絵にダークは畏敬の念に 打たれたのである。ストルーヴはその絵の説明をした。「ストリックランドは、束縛の絆を全部はじき飛ばしてしまったのだ。・・・思いもよらぬ力を持った新 しい魂を発見したのだ。新しい作風には、とても豊かで独特な描線の大胆な単純化、肉体を奇跡的とも言える熱烈な官能性をこめて描く絵の具の使い方、肉体の 重量感を異常なまでに感じさせる立体感があった。しかもそれだけではなく、新しい、心を不安にさせるような霊的なものが加えられていた。この霊的なものは 想像力を誰も足を踏み入れていない道へと誘い、永遠の星の光しかない虚空の空間の存在を暗示した。この空間において、赤裸々(せきらら)な魂は新しい神秘 の発見に向かって、おずおずと乗り出して行くのだった。」p.245

その後、「わたし」はストリックランドに会った。ストリックランドはブランチを死に対して冷酷な態度を示した。ニヒリズムを述べた。そして、ストリックラ ンドの絵を見せてもらった。「これらの絵には、自らを表現しようと試みている真の強い迫力があることだけは、実感せざるを得なかった。・・・おそらく、ス トリックランドの物質的なものの中に、漠然とではあるが、何か精神的な意味を発見したのであろう。」pp.268~269

「ストリックランドの生涯で、性欲はごく些細な地位しか占めていなかった。・・・理性を奪うような性本能を憎んだ。・・・ストリックランドが通常の性の解放を嫌ったのは、芸術的な創造とから得られる満足と比べて、それが野卑と感じたからかもしれない。」p.280

「わたし」はたまたまタヒチに旅行して、そこで、ストリックランドと再会した。「わたし」はタヒチでスコルズ船長に出会った。彼は、マルセイユでストリッ クランドと知りあった。彼らは、四ヶ月くらいマルセイユで一緒に暮らした。二人はマルセイユの下層生活をしたのであった。最初、無料宿泊所に居たが、その 後、タフ・ビルの世話になった。白黒混血児(ムラート)で、船乗り宿のあるじでった。ストリックランドとタフ・ビルは喧嘩をした。

ホテルの経営者ティアレ・ジョンソンと話をする。ティアレは、ストリックランドのことをよく覚えていた。ストリックランドは、タヒチにデジャヴュ(既視 感)をもったことを告げた。そして、「わたし」はエイブラハムという、医局の正式スタッフになるのを辞退して、アレクサンドリアに住み着いた男のことを告 げた。

ティアレは、ストリックランドの女房を世話したと言った。アタという土地の娘であった。そして、ストリックランドはアタをモデルにして絵を描いた。「その 後の三年間は、ストリックランドの一生でもっとも幸福な時期であったと思う。アタの家は島をめぐる道路からおよそ八キロの所にあった。」p.334

ティアレから中年のフランス人のブリュノ船長を紹介された。ブリュノ船長はストリックランドに共感をもった。『「・・・彼【ストリックランド】も私【ブリュノ船長】も気づかなかったけれど、二人とも同じものを目ざしていましたからね。」
「あなたとストリックランドのように、およそかけ離れた二人が目ざす共通のものって、いったい何ですか」微笑を浮かべながら僕は聞いた。
「美ですよ。」』p.345

「彼に取りついた情熱は、美を創造しようという情熱でした。その情熱のせいで、心の安まるときがありませんでした。あちらこちらと移動を繰り返すことにも なりました。神聖な憧憬に取りつかれた永遠の巡礼で、内部の悪魔は暴君でした。世間には真実を追求するあまり生活の基盤さえ台無しにする人がいますが、ス トリックランドも同様です。彼の場合は美が真実にとって代わっただけなのです。私【ブリュノ船長】は彼に深い同情を覚えるだけです」p.346

ブリュノ船長は、一つの島を購入して、妻と開墾して、椰子の木を植えて、林を作ったことに満足感をもっている。『労働の尊さ」を実感できると言った。また、強い意志と強い性格以外に、神への信仰があったから成功したと言った。

二人はクートラ医師のところに着いた。クートラ医師はフランス人で、病気のストリックランドの診療に出かけた。しかし、ストリックランドは、ハンセン病に 罹っていた。そして、二三年後、ストリックランドの危篤の知らせが、クートラ医師のところに来て、クートラ医師は、密林の中、アタの家に向かった。

クートラ医師はアタの家に入り、壁面の絵を見た。
『目がしだいに暗さに慣れて、絵の描かれた壁面を見つめていると、全身から心を揺さぶられるような感じに襲われた。クートラ医師は絵画については無知で あったが、ここに見る絵には、強烈な感銘を与えるものがあった。床から天井まで、壁面すべてが奇妙で丹念な構図で覆われていた。筆舌に尽くし難い不思議な 構図であった。彼は息を飲んだ。とても理解できぬし、分析もできぬ、ある感動で心が満たされた。天地創造を目撃した者が感じたであろうと想像される、畏怖 (いふ)と歓喜を覚えた。とてつもない、官能的な、情熱的な絵だった。しかしまた、人を慄然(りつぜん)とさせる何かがあり、彼は恐怖感にとらわれた。こ れは、自然の隠れたる深淵にまで侵入し、美しくもあり、かつ恐ろしくもある秘密を発見した男の作品だ。人間が知るには罪深過ぎる秘密を知った男の作品だ。 どこか原始的で慄然(りつぜん)たるものがあった。人間の描いたものとは思えなかった。彼は以前うわさに聞いた黒魔術を思い出していた。美しく、かつ淫ら であった。
「やれやれ、まさに天才だ!」』pp. 365~366

アタは夫の約束通り、偉大な絵を燃やしてしまった。クートラ医師は、「僕」に果物の絵を見せた。「果物には異常なほど生き生きとしたところがあった。事物 がまだ一定の決まった形をとる前の、地球の歴史の混沌(こんとん)たる初期に創造されたかのように思われた。」p.374

「僕」はタヒチを去って、ロンドンに帰った。ストリックランド夫人に会った。彼女は夫の絵を飾ってあった。「モデルはタラバオの奥地の彼自身の家族で、女はアタで赤ん坊は長男であろう。」
「僕」は夫人と子どものロバートに、アタやその子どもついての話を除いて、ストリックランドの話をした。


★小説の地誌空間★

この小説は、
第一部として、ロンドン
第二部として、パリ
第三部として、タヒチ
に分けることができるだろう。

第一部は、没個性的な生活、証券マンの生活、ストリックランド夫人との生活がある。
第二部は、画家たちの生活がある。パリ(おそらく、モンパルナス)の生活である。
第三部は、タヒチでの、文明から離れた、個性を実現する生活が描かれている。ティアレ、ブリュノ船長、クートラ医師、アテ、そして、ストリックランドと、個性豊かな人間たちが描かれている。

ポール・ゴーギャン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

自画像(1893年)
自画像(1893年)

ポール・ゴーギャンEugène Henri Paul Gauguin, 1848年 6月7日 - 1903年 5月9日 )は、フランスポスト印象派 の最も重要かつ独創的な画家 の一人。「ゴーガン」とも表記・発音される。

1848年、二月革命 の年にパリに生まれた。父は共和系のジャーナリストであった。ポールが生まれてまもなく、一家は革命後の新政府による弾圧を恐れて南米ペルーリマ に亡命した。しかし父はポールが1歳になる前に急死。残された妻子はペルーにて数年を過ごした後、1855年、フランスに帰国した。こうした生い立ちは、後のゴーギャンの人生に少なからぬ影響を与えたものと想像される。

フランスに帰国後、ゴーギャンはオルレアン の神学学校に通った後、1865年、17歳の時には航海士となり、南米やインドを訪れている。1868年から1871年までは海軍に在籍し、普仏戦争 にも参加した。その後ゴーギャンは株式仲買人となり、デンマーク 出身の女性メットと結婚。ごく普通の勤め人として、趣味で絵を描いていた。印象派展には1880年の第5回展から出品しているものの、この頃のゴーギャンはまだ一介の日曜画家にすぎなかった。勤めを辞め、画業に専心するのは1883年のことである。

1886年以来、ブルターニュ地方のポン=タヴェンを拠点として制作した。この頃ポン=タヴェンで制作していたベルナールドニラヴァル らの画家のグループをポン=タヴェン派 というが、ゴーギャンはその中心人物と見なされている。ポン=タヴェン派の特徴的な様式はクロワソニズム(フランス語で「区切る」という意味)と呼ばれ、単純な輪郭線で区切られた色面によって画面を構成するのが特色である。

1888年には南仏アルルでゴッホ と共同生活を試みる。が、2人の強烈な個性は衝突を繰り返し、ゴッホの「耳切り事件」をもって共同生活は完全に破綻した。

タヒチの女(浜辺にて)(1891年)オルセー美術館 蔵
タヒチの女(浜辺にて)(1891年)オルセー美術館

西洋文明に絶望したゴーギャンが楽園を求め、南太平洋(ポリネシア )にあるフランス領の島・タヒチ に 渡ったのは1891年4月のことであった。しかし、タヒチさえも彼が夢に見ていた楽園ではすでになかった。タヒチで貧困や病気に悩まされたゴーギャンは帰 国を決意し、1893年フランスに戻る。叔父の遺産を受け継いだゴーギャンは、パリにアトリエを構えるが、絵は売れなかった。(この時期にはマラルメ のもとに出入りしたこともある。) 一度捨てた妻子にふたたび受け入れられるはずもなく、同棲していた女性にも逃げられ、パリに居場所を失ったゴーギャンは、1895年にはふたたびタヒチに渡航した。

『われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこへ行くのか』1897-1898年(ボストン美術館)
『われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこへ行くのか』1897-1898年(ボストン美術館 )
3人のタヒチ人(1899年)
3人のタヒチ人(1899年)

タヒチに戻っては来たものの、相変わらずの貧困と病苦に加え、妻との文通も途絶えたゴーギャンは希望を失い、死を決意した。こうして1897年、貧 困と絶望のなかで、遺書代わりに畢生の大作『われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこへ行くのか』を仕上げた。しかし自殺は未遂に 終わる。最晩年の1901年にはさらに辺鄙なマルキーズ諸島 に渡り、地域の政治論争に関わったりもしていたが、1903年に死去した。

ポール・セザンヌ に「支那の切り絵」と批評されるなど、当時の画家たちからの受けは悪かったが、死後、西洋と西洋絵画に深い問いを投げかける彼の孤高の作品群は、次第に名声と尊敬を獲得するようになる。