ジョゼフ・コンラッド

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ジョゼフ・コンラッドJoseph Conrad, 1857年 12月3日 - 1924年 8月3日 )はイギリス小説家ジョウゼフ・コンラッドとも表記。海洋文学 で知られる。作品には、『闇の奥』、『ロード・ジム』、『ナーシサス号の黒人』、『文化果つるところ』などがある。

生涯

本名ユゼフ・コンラド・テオドル・コジェニョフスキ(Józef Teodor Konrad Korzeniowski)としてベルディチフ (当時ポーランド 、現ウクライナ の一部)に生まれる。父親は没落貴族地主 階級だった。ロシア占領下のポーランド において独立運動を指導していたが摘発。捕らえられシベリアでの強制労働に処された。この時コンラッドは5歳。一家は北ロシアに移動。その直後、流刑 の 地にて、コンラッドの母親は結核で死亡した。やがてポーランドへの帰国が許されたにも関わらず、4年後には父親も死亡した。その後、コンラッドは叔父に引 き取られた。 父親は、文学研究者でもあった。幼少期のコンラッドは、父親所有の本を耽読していた。海洋文学に出会い感化されたのも父親の影響だった。

16歳の年、コンラッドは船乗りになることを目指しポーランドを脱出。フランス商船の船員となった。船はマルセイユ港を起った。回顧録によれば、こ の船員時代、コンラッドの乗る船は武器密輸や国家間の政治的陰謀にも関わっていた。コンラッドが自殺未遂をしたのもこの時期となる。ただし、このフランス 商船時代の出来事は、コンラッドの創作ではないかとする説もある。

1878年以降、コンラッドは英国船に移り勤務した。以降、英語を学びつつ、世界各地を航海した。この時に得た見聞が、後のコンラッドの小説に大きな影響を及ぼした。

1884年、コンラッドはイギリスに帰化した。

1895年、処女小説『オールメイヤーの愚行(Almayer's Folly)』を発表。マレーシア を 舞台とした物語で、英語によって書かれた。幼少期から青年期に至るまで、ロシア語、ポーランド語、フランス語を使用し、最後に学んだ英語によって小説を書 き上げたことは特筆に値する。この小説は好評を持って当時の社会に受け入れられた。これにより、同時代の他の文学者たちとの交流も始まっていった。

1900年、小説『ロード・ジム(Lord Jim)』を発表。この小説は、コンラッドの代表作の一つとされる。1925年(米、監督ヴィクター・フレミング )と1965年(米、監督リチャード・ブルックス )に映画化されている。

1902年、小説『闇の奥(Heart Of Darkness)』を発表。西洋文化の暗い側面を描写したこの小説は、英国船時代にコンゴ川で得た経験を元に書かれた。この小説はオーソン・ウェルズ が映画化の構想を持ったが実現せず、1979年に映画監督フランシス・フォード・コッポラ によって翻案され『地獄の黙示録 』として映画化された。

コンラッドの文学作品は、古典文学と、チャールズ・ディケンズフョードル・ドストエフスキー に代表される近代文学との中間的存在として位置づけられる。ただしコンラッド本人は、イワン・ツルゲーネフ を除き、ロシア文学に対してあまり良い印象を持っていなかった。

1924年、コンラッドは心臓発作でこの世を去った。遺体はカンタベリー の墓地に埋葬された。

作品

  • 『オルメイヤーの阿房宮』"Almayer's Folly"(1895年)
  • 『文化果つるところ』"An Outcast of the Islands"(1896年)
  • 『ナーシサス号の黒人』"Narcissus"(1897年)
  • 闇の奥"Heart of Darkness"(1899年)
  • ロード・ジム"Lord Jim"(1900年)
  • 『颱風』"Typhoon"(1902年)
  • ノストローモ"Nostromo"(1904年)
  • 密偵"The Secret Agent"(1907年)
  • 『西欧人の眼に』"Under Western Eyes"(1911年)
  • 『コンラッド自伝』"A Personal Record"(1912年)
  • 『チャンス』"Chance"(1913年)
  • 『勝利』"Victory"(1915年)
  • 『シャドウ・ライン』"The Shadow Line"(1917年)

外部リンク

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