J・R・R・トールキン

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ジョン・ロナルド・ロウエル・トールキン (John Ronald Reuel Tolkien, 1892年 1月3日 - 1973年 9月2日 ) はイギリス作家言語学者 。ファンタジー小説『ホビットの冒険 』、その続編で世界的に有名な『指輪物語 』の著者。

J. R. R. トールキン(1916年)
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J. R. R. トールキン(1916年)

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概要

バーミンガムキング・エドワード校 の出身。オックスフォード大学 において1925年 から1945年 まで古英語 の、1945年 から1959年 まで英語 及び英文学 の教授を務めていた。言語学の権威で、特にアングロ・サクソン語古ノルド語 のエキスパートだった。辞書の編纂に携わったこともある。文学討論グループ「インクリングズ 」の会員であり、また英文学者C・S・ルイス とも親密な関係にあった。

小説『ホビットの冒険』と『指輪物語』は驚異的な人気を獲得し、またこれら作品の舞台となった架空の世界「中つ国 」に関する歴史書や解説書が、生前のみならず死後においても多数出版された。これら一連のシリーズの持続的な人気と影響の大きさによって、トールキンは現代のハイ・ファンタジー ジャンル の父という地位を確立した。「中つ国」シリーズ以外にも、自分の子供たちに宛てた文章をまとめた児童書などで評価されている。また英古文学『ベオウルフ 』と『ガウェイン卿と緑の騎士 』の研究・現代英語訳などで多大な貢献を残した。

生涯

トールキンはオレンジ自由国 (現在は南アフリカ共和国 の一部)のブルームフォンテン で、イギリスの銀行支店長アーサー・トールキンと妻メイベル・トールキン(旧姓サフィールド)の間に生まれた。わかっている範囲ではトールキンの父方は先祖のほとんどが職人という家系だという。トールキン家の故郷は現ドイツザクセン州 で、イギリスに渡ったのは18世紀 ごろ。苗字Tolkienは、Tollkiehn (ドイツ語の tollkühn "無鉄砲")を英語化したものである。『The Notion Club Papers 』に出てくるRashbold教授はこの名前のもじりである。1894年 2月17日 生まれのヒラリー・アーサー・ロウエルという弟が一人いる。

3歳の時、母と共にイングランド に移った。母メイベルはアフリカの気候を好まなかった。最初に滞在したのはBag End農場の親類のところだった。この地は後にトールキンの作品に登場するホビット の家「袋小路屋敷 (Bag End)」の着想を与えたらしい。ところが父アーサーは家族と合流する前に脳溢血で倒れてしまい、南アフリカで亡くなってしまった。家族の収入が無くなってしまったので、母は彼女の両親としばらく住むためにバーミンガム に行くことを決心し、1896年 にはセアホール (当時ウォリックシャーの村で現在はバーミンガム の一部)に移った。トールキンはセアホールの水車小屋やMoseley Bogの探索を楽しんだようで、この地での経験もやはりその後の作品に影響を与えたと思われる。

母は息子たちの教育に熱心で、トールキンも努力してこれに答えた。母は植物学 に多くの時間を割きたかったようだが、トールキンの好きな科目は言語に関するものだったので、母は早いうちからラテン語 の基本を教えた。その結果トールキンはラテン語を4歳までには読めるようになり、やがてすぐにすらすらと書けるようになった。その後かれはバーミンガムキング・エドワード校セント・フィリップス校 、そしてオックスフォードのエクセター学寮に進む。

1900年 、母はバプテスト であった親戚の猛烈な反対を押し切ってローマ・カトリック に改宗。その母が1904年 、トールキンが12歳の時に糖尿病 で亡くなった。トールキンは母が信仰の殉教 者であったと思うようになった。この出来事はトールキン個人のカトリックへの信仰に深い影響をもたらしたようで、トールキンの信仰がいかに敬虔で深かったかということは、C・S・ルイスキリスト教 に改宗させた際にもよく現れている。またかれの作品はキリスト教の価値を表現し、多くのキリスト教の象徴主義を含んでいるとも言われる。

孤児 となったトールキンを育てたのは、バーミンガムのエッジバーストン地区にある、バーミンガムオラトリオ会のフランシス・シャヴィエル・モーガン司祭であった。司祭の庇護の下、トールキンはPerrott's Folly とエッジバーストン水道施設のビクトリア風の塔の影に住むことになった。この頃の住環境は、かれの作品に登場する様々な暗い塔のイメージの源泉となったようである。

フォークナー夫人の家に下宿していたころ、後に作品内のヒロインとして登場したルーシエン のモデルとなるエディス・ブラット と出会い恋に落ちた。二人は多くの反対に会いながらも愛を育み、やがて1916年 3月22日 に結婚することとなる。

幼いころからその風景に憧れていたというイギリス南西部のコーンウォール 地方がある。かの地を1914年 に訪れたかれに、その独特な海岸線や海の様子は深い感銘を与えたという。1915年 に優秀な成績で英語の学位を取りオックスフォード大学 を卒業した後、トールキンは第一次世界大戦イギリス陸軍 士官として従軍した。ランカシャー・フュージリア連隊 の第11大隊に少尉として所属した。かれの大隊は1916年 にフランスに移動し、ソンムの戦い の間通信士官として、10月27日 塹壕熱 を患うまで勤め、11月8日 イギリスに戻った。多くの親友も同然だった人たちも含め自軍兵士たちがなどの激戦で次々と命を落した。スタッフォードシャー Great Haywoodで療養していた間に、後に『失われた物語の書 』と呼ばれるものについての着想が芽生え始めたとされる。

トールキンの戦後最初の民間の仕事は、オックスフォード英語辞典 の編纂作業だった(中でも「スズメバチ(wasp)」と「セイウチ(walrus)」の項はかれが担当)。1920年リーズ大学 で英語学の講師 となり、1925年 にアングロサクソン語の教授 としてオックスフォード大学へ戻った。1945年 にはオックスフォードのマートン学寮に英語学および英文学の教授として移り、1959年 に引退するまで教鞭を務めた。

トールキンは妻エディスとの間に4人の子供を儲けた。ジョン・フランシス(1917年 11月16日 )、マイケル・ヒラリー・ロウエル(1920年 10月 )、クリストファ・ロウエル1924年 11月21日 )、そしてプリシラ・アン・ロウエル(1929年 )である。

オクスフォードのWolvercote墓地にはトールキン夫妻の墓があり、中つ国の最も有名な恋物語の一つから、「ベレン 」そして「ルーシエン 」の名が刻まれている。

著作

トールキンの最初の文学野心は詩人であることだったが、若い頃の第一の創作欲は架空言語の創造だった。それらは後でクウェンヤシンダール語 に 発展するエルフ語の初期の形態を含んでいた。 言語がそれを話す民族を指し示し、民族が言語の様式と視点を反映する物語を明らかにする信じて、(この名前が紛らわしいと考えるようになったのでいくらか 後悔することになるが)後にエルフと呼ぶようになった伝説の妖精についての神話と物語を書き始めた(英語で書いたが、かれの創造した言語の多くの名前や用 語を含んでいた)。 第一次世界大戦の間、療養中に書きはじめた『失われた物語の書』にはベレンとルーシエンの恋物語が含まれ、これらは後に長い物語詩The Lays of Beleriand と してまとめられ、自身が完成できなかった『シルマリルの物語』にも発展して含まれることになる。トールキンが繰り返し構想を変えていったことについては、 死後に刊行された『中つ国の歴史』 The History of Middle-earthシリーズにしめされている。

トールキンはヨーロッパの神話から多くの影響を受けた。『ベーオウルフ 』『エッダ 』といったアングロサクソンや北欧神話といったゲルマン民族や、ケルト神話やフィンランドの『カレワラ 』などの他の同様の源がある。

このまじめな大人向けの作品に加えて、トールキンは自分の子供たちを喜ばせるために話を作ることを楽しみにしていた。毎年毎年、「サンタクロース からのクリスマスレター」をしたため、一続きのお話を添えた。これらの小話はのちに一冊の本にまとめられ、『クリスマスレター付き サンタ・クロースからの手紙 』として出版された。

トールキンは自分の空想物語が一般に受け入れられるとは夢想だにしなかった。かつての学生のとりなしで1937年 に『ホビットの冒険 』と題された本を出版。子供向けを意図したにも関わらず大人にも読まれ、出版社 (Allen & Unwin) が続編の執筆を要請するほどの人気を呼んだ。この事実はトールキンを刺激し、1954年 から1955年 にかけて、かれの最も有名な作品となった6部3巻の叙事詩的小説『指輪物語 』が上梓された。『指輪物語』はしばしば「三部作」と呼ばれ、3巻構成で販売されているが、一つの物語として書いたもので3巻に分かれているのは編集上の都合によるものであることを注意すること。このサガを書き上げるまでにほぼ10年かかったが、その間インクリングズ の仲間たち、中でも『ナルニア国ものがたり 』の作者で親友のC・S・ルイス は絶えず支援を続けた。『ホビットの冒険』も『指輪物語』も『シルマリルの物語』の神話に続く物語で、トールキンが書くときにはっきりいっていたように、ずっと後の物語である(それでさえわたしたちの時代からずっと昔のことである)。

1960年代 、『指輪物語』はアメリカ の多くの学生たちの間で好評を博し、ちょっとした社会現象となった。現在でも世界中で高い人気を保っている『指輪物語』は、売上の点からも読者の評価という点からも、20世紀 における最も人気の高い小説の一つとなった。英国のBBCとWaterstone's bookstore chainが行った読者の世論調査で『指輪物語』は20世紀の最も偉大な本と認められた。amazon.comの1999年 の顧客の投票では、『指輪物語』は千年紀で最も偉大な本となった。2002年 には、BBCの行った「最も偉大な英国人」の投票でトールキンが92位に、2004年 に南アフリカで行われた投票では「最も偉大な南アフリカ人」の35位になった。英国人および南アフリカ人のトップ100の両方に現われるのはトールキンだけだった。彼の人気は英語圏の人々だけに制限されてはいない。2004年 には100万人を越えるドイツの人々が、『指輪物語(ドイツ題:Der Herr Der Ringe)』が広範囲の文学のうち最も好きな作品として投票した。

トールキンは当初、『指輪物語』を『ホビットの冒険』のような児童書にしようと考えていた。ところが書き進めるにつれ次第に難解で重々しい物語となっていった。『ホビットの冒険』と直に繋がる物語にも関らず、より充分に成熟した読者を対象とするようになり、また後に『シルマリルの物語 』やその他の死後出版された書籍に見られるような膨大な中つ国の歴史を構築し、それを背景にして書き上げた。この手法と出来上がった作品群の緻密で壮大な世界観は、『指輪物語』の成功に続いて出来上がったファンタジー文学 というジャンルに多大な影響を残した。

トールキンは言語学 のエキスパートであり、研究した言語や神話学は彼の創作にはっきりと影響を残している。『ホビットの冒険』のドワーフの名前は『エッダ 』の『巫女の予言 』から取られた。また、例えば「龍の蓄えからカップを盗む泥棒」などという一節は『ベオウルフ 』から取られている。トールキンはベオウルフについての認められた権威で、詩についていくつかの重要な作品を出版した。かつては出版されなかったトールキンの『ベオウルフ』の翻訳はMichael Droutが編集した。

トールキンは中つ国の歴史を死の直前まで書き続けた。息子のクリストファ・トールキン は、ファンタジー作家ガイ・ゲイブリエル・ケイ の助力を得て素材の幾つかを一冊の本にまとめ、1977年 に『シルマリルの物語 (The Silmarillion)』として出版した。クリストファはその後も中つ国創造の背景資料の刊行を意欲的に続けた(ただしその多くは未邦訳)。『中つ国の歴史 』シリーズや『終わらざりし物語 』 のような死後に発表された作品については、トールキンが数十年もの間彼の神話学を考察し続け、絶えず書き直し、再編集し、そうして物語を拡張し続けていた 結果、未完成だったり、放棄されたり、どちらかを選ばなければならない内容や、明らかに矛盾する内容の草稿を含んでいることに注意すべきである。『シルマ リルの物語』だけは『指輪物語』との一貫性を維持するべくクリストファは編集にかなりの労力を費やした。しかしクリストファ自身も『シルマリルの物語』に は多くの矛盾が残っていると認めている。1951年 の第二版で一つの章が抜本的に改訂された『ホビットの冒険』でさえ、『指輪物語』と完全に辻褄があっているわけではない。

アメリカウィスコンシン州 ミルウォーキー にあるマーケット大学 の図書館は、トールキンの手書き原稿や覚書き、及び手紙の多くを保存している。一方オックスフォード のBodleian 図書館には、『シルマリルの物語』関係の書類とトールキンの学術的な資料などが残されている。その他『指輪物語』と『ホビットの冒険』の手書き原稿および 校正刷り、『農夫ジャイルズの冒険』といった多くの「マイナーな」作品の手書き原稿、ファンの作った編集作品といったものまでが貴重な資料として巷に出 回っている。