登場人物:

エロド(ヘロデ)・アンティパス
:ユダヤの王
ヨカナーン:預言者(洗礼者ヨハネ)
エロディアス(ヘロディア):エロドの妻、妃
サロメ:エロディアスの実の娘
若きシリア人
その他


粗筋:

エロド(ヘロデ)の宮殿で宴会をしている。月が出ている。様々な人物が話をしている。月や宗教について。サロメが、宴会から出てくる。ヨカナーンは、水槽の檻に閉じ込められている。そして、サロメの母のエロディアス(エロディア)の不倫を糾弾する。そして、救世主のイエスが出現したことを述べ、悔い改めるように説く。サロメは、ヨカナーンの美しさに愛欲を感じて、言い寄るが、断られる。
 エロドとエロディアスも出てくる。エロドは、義理の娘サロメに、欲望をいだき、サロメに踊るように切望する。踊れば、好きなものを与えると約束する。サロメは、7枚のベールをつけて踊る。そして、その褒美として、サロメは、ヨカナーンの首を所望する。王エロドは、初め、拒否するが、しかし、最後は認めて、ヨカナーンを殺害する。サロメは、首をつかみ、くちづけする。王エロドは、サロメを殺害する。


作品世界:異教とキリスト教のコントラストが鮮烈である。洗礼者ヨハネを具象化することで、イエス・キリストの活動していた時代であることがわかるし、また、同時に、退廃した宮廷、そして、耽美的なサロメを表現することで、作品に奥行きが形成されている。立体的な世界になっている。また、ここには、象徴主義的作風が随所にある。月とサロメを結びつけることで、サロメを神話的な人物、女神に結びつける。また、死の天使に言及することで、超自然的な次元をかき立てている。死の天使とは、シンボルというよりは、アレゴリーに近いように思う。つまり、象徴とアレゴリーの連結したような表現方法があるように思う。 
 ビアズリーの挿絵は、もともと、独立していたものである。挿絵の美学は、一般に本文との調和美学であるが、この作品では、文学と挿絵が、別々のようで、並立している感じである。つまり、ビアズリーの作品として独立性が強く、補完するという挿絵の役割からは逸脱していると思う。サロメの倒錯的な一途さ、純粋さと挿絵のまがまがしさが、平行しているのである。挿絵がない方が、作品世界を生き生きと心象化できるように思う。しかし、これは、ビアズリーを批判しているのではなくて、ビアズリーの妖気のある毒々しい世界は、ワイルドの多面的世界とは別個の独立したものと言うべきである。二人は、もともと、仲が悪かったのである。
 ところで、福田恆存の日本語はここでも、達意である。生き生きと言葉が息吹いているのである。日本語の達人である。