『フランケンシュタイン、あるいは現代のプロメテウス』(1831年)
メアリー・ウルストンクラフト・シェリー作

1.作品の構成
a. 前書き
b. 序(夫の詩人パーシー・ビッシュ・シェリーによる)
c:本文
c1:手紙1~4:海洋冒険家ロバート・ウォルトンの姉への手紙:海で出会った、ヴィクター・フランケンシュタインのことを告げる。

c2:V.フランケンシュタインの物語:
ジュネーヴの名門の出身、父は亡き友人の妻カロリーヌと結婚する。そして、「わたし」が生まれる。イタリアで、エリザベス・ラヴェンツアを養子にする。別邸が、ベルリーヴで、そこで、ヘンリー・クラーヴァルという親友ができる。「わたし」(V.フランケンシュタイン)は、「天地の秘密」を学びたかった(cf.ファウスト衝動)。クラーヴァルは、事物の倫理的関係に取り組んだ。エリザベスは、聖女のような魂の持ち主である。
ある日、温泉に行き、そこで、神秘学者のコルネリウス・アグリッパ、パラケルスス、アルベルトゥス・マグヌスの著作を知る。自然の秘密を知りたいと思っていた「わたし」は、没頭する。賢者の石や生命の霊薬の研究にいそしむ。
17才のとき、父母によって、「わたし」はインゴルシュタットの大学で学ぶこととなった。大学で、化学者のヴァルトマン教授に興味を持つ。彼の言葉によって、自然科学に目覚める。「創造のもっとも深い神秘を世界に解き明かしてみせるのだ。」(創元推理文庫、p.63)
化学に没頭した「わたし」は、生命の根源を解き明かし、無生物に生命を吹き込むことができるようになった。そして、それを実行するため、人間を創造することにした。巨大な身体に創造することにした。解剖室や屠殺場から人体材料を集めた。そして、労苦の完成があった。しかし、希望・期待とは裏腹に、「息も止まる恐怖と嫌悪でこころ」は満たされた。それから、「わたし」は、神経症の熱が始まり、数ヶ月寝たきりとなった。常に、自分の産み出した怪物の姿がしじゅう目の前にあり、うわごとを言った。エリザベスからの手紙が来る。召使いのジュスティーヌのことや、弟ウィリアムのことを知らせる。友人のクラーヴァルは東洋の言語を学ぶ。
父からの手紙で、弟ウィリアムが殺害されたことを知らされる。「わたし」は故郷ジュネーヴへと向かう。帰宅して、殺人者が、ジュスティーヌであると知らされ驚愕する。彼女のポケットからウィリアムのもっていた母の肖像画が見つかったので、彼女が犯人とされたのである。裁判で、エリザエスによるジュスティーヌの弁護にもかかわらず、ジュスティーヌに死刑の判決が下り、翌日処刑される。「わたし」は殺人犯が怪物であると確信し、自分の罪深さに絶望して、孤独に慰めを求める。一家はベルリーヴへと引っ越す。美しいアルプスの湖や山岳の光景にひたりながらも、絶望が募る。シャモニの谷へ行き、モンブランを見る。忘れていた喜びが起こる。アルプスによる崇高な恍惚感に、歓喜をもつ。しかし、その時、怪物と出会う。怪物が自分の無惨な話をする。自分は善意をもっていたのに、人間にやさしく接して欲しいと願っていたのにかかわらず、自分の姿の醜悪さから、人間にむごく扱われたことから、人間に復讐することにした。田舎の家のド・セー一家の脇に住み、彼らの言葉を学んだのであるが、そして、彼らに親切をしたのであるが、結局無視されたのであった。娘のアガサ、息子のフェリックス、そして、アラビア娘のサフィーが、それぞれの事情をもち、住んでいた。家にあった旅行かばんに本が三冊あった。『失楽園』、『プルターク英雄伝』、『若きウェルテルの悩み』であった。それを怪物は読んで教養をつけたのであった。しかし、彼らにはげしく恐れられ、嫌悪されて、怪物は復讐と憎悪の念でいっぱいとなった。彼らはその家を売り、去っていった。怪物は、自分を創った創り主に復讐するために、ジュネーヴに向かった。そして、そのとき、弟のウィリアムを殺害したのであった。怪物は、人間のような愛情を受けることに飢えていたので、V.フランケンシュタインに自分の伴侶を創るように頼む。それを承諾して、フランケンシュタインは、友人のクラーヴァルとともに、イギリスに向かう。友人はオックスフォードが気に入る。「わたし」は一人、怪物の伴侶を創るべく、努力する。そして、ほとんどできあがるが、恐ろしさのため、それを破壊してしまう。その後、友人クラーヴァルの死体が発見される。「わたし」はその嫌疑をかけられ、投獄される。治安判事のカーウィン氏が担当する。父ば呼ばれる。裁判の結果、友人の遺体が発見された時刻に「わたし」はオークニー諸島にいることが立証されて、無罪となる。
「わたし」はジュネーヴにもどり、エリザベスと結婚する。そして、アルプスへの新婚旅行に出る。しかし、宿で、新妻は殺害される。それは怪物の仕業であった。ジュネーヴにもどり、「わたし」は治安判事にすべてを話す。そして、怪物・悪鬼を追うことを決心した「わたし」は追いかける。死者たちのヴィジョンをみて、追跡する。「・・・むしろ天の命ずる仕事、自分には意識されない何かの力の機械的な衝動となりました。」そして、北洋へと向かい、橇(そり)と犬を手に入れ、雪原を旅した。後一歩で捕まえられそうになったとき、海鳴りが聞こえ、氷が割れて、敵と隔てられてしまった。

c3:ウォルトンの手紙の続き:フランケンシュタインは船で死ぬが、そのとき、怪物は、氷塊にのって、地球の最北の果てへ行くと述べる。そして、闇へと消えていった。

2. 文学史:ゴシック小説と呼ばれるロマン主義小説の系譜である。ゴシック小説とは、簡単に言えば、恐怖小説であり、今日のホラー小説の先駆である。また、ピクチャレスクと呼ばれる要素をもつ。これもロマン主義の特徴である。

参照:ピクチャレスク
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%94%E3%82%AF%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%AC%E3%82%B9%E3%82%AF

3. 思想内容の形態:
a. プロメテウス神話:神話的には、正に副題にあるように「現代のプロメテウス」神話である。ギリシア神話で、プロメテウスは、土から人間を創造する。参照:デミウルゴス(創造神)
b. ファウスト衝動:自然の秘密、自然の知を究明したいという情熱・衝動のこと。主人公V.フランケンシュタインの精神。比較:黙示録(アポカリプス)
4. 時代:ロマン主義、フランス革命、啓蒙思想:理性と形而上的情動(自然的情動)
5. 手法:光と闇、美と醜、生と死、善と悪のコントラスト、皮肉が、鮮烈である。哲学的に言えば、「差異」(ずれ)の表現である。たとえば、アルプスの崇高な美を叙情的に表現している間も、主人公の脳裏には、おぞましい怪物のことが離れない。これは、実に見事である。美が相対化される。
6. 表現・思想内容(コメント):ここには、単なる通俗的なロマン主義とは異なる「力」、「強度」が表現されていると感じられる。通俗的なロマン主義とは、崇高な美に感動する心情・精神である。しかし、この作品には、自然科学の問題が入っている。人間の知の問題があるのである。それが、自然を超えたものを創ってしまい、取り返しのつかない悪を産んでしまったという事態と恐怖感がある。また、科学とは別に、復讐心の問題もここにはある。すなわち、自然科学の「悪」と人間の「悪」である。だから、ここでも、ニーチェの用語であるディオニュソス的なものを指摘できるだろう。通常の秩序を超えた恐ろしい力がここでは表現されている。いわば無意識の力が表現されていると言えよう。(不連続的差異論から言うと、イデア界/メディア界/現象界の三層構成において、メディア界のもつ力が表現されていると言えるだろう。ここから、破壊的な力が発出するのである。)V.フランケンシュタインの自然科学への衝動も、怪物の復讐心も、この通常の世界を超えた次元からの力であると言えるだろう。(このように見ると、啓蒙思想もロマン主義も向かう方向は違うように見えるが、基盤は、共通の深層次元であると言えるのではないだろうか。前者は理性へと向かい、後者は情動性、神秘性へと向かう。そして、この接点が、後のフランスのサンボリスム・象徴主義ではないだろうか。)
ならば、この物語は、ウィリアム・ブレイクとほぼ同時代で、近代文化の問題を鋭く表現した先駆的作品の一つと言えるだろう。近代合理主義(自然科学・技術)は、単に明るい知ではなくて、暗い衝動を秘めていると言えるのではないだろうか。ディオニュソス衝動である。そう、結局、ピクチャレスクの美学も結局、深層では、ディオニュソス衝動があると言えるのではないだろうか。光と闇、美と醜等のコントラストも結局、根源は同一ではないだろうか。アルプスの崇高美も怪物の醜悪さも同一のディオニュソス衝動から生起しているのではないだろうか。前者とは、ディオニュソスから発するアポロであり、後者はディオニュソスから発した知と技術の衝動の結果であると考えられる。

比較:ゴーレム
ゴーレム Golem

もとヘブライ語で〈形なきもの〉の意。 ユダヤ教経典〈タルムード〉では,神が大地からアダムを生み出す前の胎児を指した。 後に伝説化され,胎児のままの泥人形がカバラ の呪文によって動き出すが, 額の emeth (真理) という護符の一字を取りさると meth (彼ハ死セリ) となって崩壊し, 土に戻ったという。 ゴーレム伝説の翻案は多いが,その近代版としては G.マイリンクの小説《ゴーレム》 (1915), P.ウェゲナーの映画《巨人ゴーレム》 (1914) などがあり, フランケンシュタインもの〉と並ぶテーマとなっている。

種村 季弘
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