岐阜県揖斐川町の
「三輪神社」
三輪神社御朱印帳
三輪神社御朱印
御朱印帳1ページ目に書かれています。
三輪神社御朱印
月替わり御朱印です。
御朱印の説明です。
挟み紙
神武天皇の御代、諏訪大社のご祭神である武御名方富命が当地に来られ、三輪神社を創建されたと伝えられます。
また、三輪神社のご本社は、奈良県桜井市に鎮座する大神神社ですが、古代にこちらからご神体を分霊されたものと考えられています。
この時移り来た三輪族の人々は、農耕に従い美しい農耕地を開拓しました。三輪族は古代の近畿中部地方に大きく勢力を誇った豪族で、美濃の地域には三輪郷、三輪氏、三輪神社など、三輪(美和、大神)という地名や人名などが多く残されています。
当社はこの地を開拓した、三輪族によって祀られたと云われています。現在は揖斐郡揖斐川町三輪ですが、かつては大野郡大神郷と云われ、奈良時代にはミワの名称が確認できます。この地に残る、口分田の跡や、続日本紀に記述される三輪氏の八蹄馬献上の記録からも、三輪の地の歴史を見ることができます。
中世の神仏習合時代に入ると、三輪神社は天台宗の守護神として、広く崇敬を集めました。記録には、天台宗の開祖 伝教大師(最澄)がこの地に参り、三輪の姓の人々に案内され、谷汲横蔵寺を創設されたという記録が残っています。(比叡山が信長によって戦災焼失した後本山復興の為、この寺のご神像が遷されています。)また、谷汲華厳寺(西国三十三番参所)の仏僧も、神仏が分離する明治維新まで、当社の拝殿で大般若経を毎年拝読しました。当社には、このときに奏上された南北朝時代の手書きの大般若経が残されております。
かつては城台山(播隆山)の中腹にあった社殿を、戦国時代、当時領主だった堀池千代寿丸が、現在の山麓の地に移しました。その後は、江戸時代初期には西尾豊後守光教による大規模な改築が行われ、その後の岡田家をはじめとする歴代の領主から厚い崇敬を受け境内は次第に拡充され現在の形になりました。
位置情報
岐阜県揖斐郡揖斐川町三輪1322