「あー、気持ち悪い」
誰も居ない部屋に敢えて吐き出し、布団の辺りにごろんと横になる。
手探りでその辺にあった筈のペットボトルを探し出し、昨日か一昨日に買ったお茶を飲む。
飲み終えると空になったペットボトルをその辺に転がす。無造作な、汚れて散らかった部屋を演出するように。
「あー」
気持ち悪い、ともう一度声に出して言ってみる。
息を吐く事でほんの少し楽になるような気がするのだが、数秒経つとそれは気のせいだと気付く。
一体どうしてこんなに飲んだのだろう。その後悔はもちろん初めてではない、どころか、数え切れないほど繰り返したけれど、一体どうして俺は一人でここに帰ってこれたのか。こんなに飲んでいるのに、こんなに気持ち悪いのに、帰り道の記憶は定かではないのに、どうして俺は安全な場所にいるのだろう。朝までいたら凍死するようなどこかで酔い潰れていないのだろう。それを忘れたくて飲んだ筈なのにあいつの口から出た言葉の全てを嫌になるくらい覚えているのだろう。大量に摂取したアルコールは、どうしてそれを忘れされてくれないのだろう。
「いやーちょっと急なんだけどさ」
ちっとも薄れない記憶の中の声が蘇り、抵抗する気力が湧かない代わりにははは、と笑い声が漏れる。
それが自分のものだと気付くのにしばらくかかった。
芝居じみている。馬鹿みたいだ。こんなのは情けないし格好悪い。
「まだ誰にも言ってないんだけど」
今度は涙が滲んだ。
泣きたくない、と意識すると嫌がらせみたいにぽろぽろと零れた。
こんな安いドラマ、今時誰も期待していない。1クール持たないよ。
「とりあえずお前らに言っとくよ」
俺が許せなかったのはあいつの笑顔がいつも通りに満面だった事だ。いつも通り、目尻に皺を寄せて平べったい歯を見せてキラキラと笑って言った。
それじゃどんな顔をして報告されれば俺は満足だったというのだろう。どんな風に告げられればこんなに飲まずにいられたのだろう。
結局は同じ事だ。
あいつは俺じゃない誰かのものになる。
そんなこと分かっていたじゃないか、知っていたことじゃないか、と鼻白む。
最初から分かってるつもりでいたのに、何を期待していたのか、夢を見ていたのか。
自分が馬鹿馬鹿しすぎて慰める気にもならない。
「結婚しようと思うんだ」
すればいい。
勝手にすればいい。
どうせ俺には関係ないのだ。
*
豊がメンバーだけ集めた居酒屋で結婚すると報告した夜から2ヶ月後、俺は特に予定も無く部屋でパソコンをいじっていた。
公式発表も結婚式の日取りも、その日の報告以来進展した情報は何も無く、そのため俺はかろうじて生活を保てていた。
不思議なことに二人きりになってもメンバーだけになってもその話題になる事は無く、まさか俺の気持ちが誰かにバレているのかとそわそわしたが、それを確かめる勇気は無く、自分の気持ちを落ち着ける為にも俺からも敢えてその話題には触れず、その内にあれは悪い夢かなんかだったんじゃないかとすら思えてきた。
そうだったらいいな、と思うと同時に、豊の口からあの言葉を聞いた夜のどうしようもない絶望感が思い出され、心臓を毟り取られるような心地がした。
そんな事には耐えられないのでその出来事自体を思い出さないようにし、なんとなくそれが上手くできるようになってきた頃だった。
いきなりインターホンが激しく鳴った。
実際はインターホンの音は誰が鳴らしても、どのように押しても、部屋に聞こえる音は一定のものだったが、その時の音は何故か切迫した空気を震わせ響いた。
出てみると豊だった。
「入れてくれ」
俺が何か言うよりも先に豊はそう言った。その声は先程のインターホンよりは落ち着いたものに聞こえたが、キャップで顔が見えない事に俺は不安を覚えすぐにドアを開けた。
開けるなり、なだれるように豊が入ってきた。一瞬で予想したよりも多くの体重を豊がかけてきたので俺は受け止めきれず、それでもとっさに腕を回し、二人で玄関に倒れ込んだ。
靴やサンダルを背中に敷いた形になり、玄関から続く廊下のフローリングに少し頭を打ち付けた。
「いて…」
思わず声を出しながら起き上がろうとするが、上に被さった豊が完全に脱力していて重くて動かない。
「結婚なくなったから」
どうしたの、と俺が聞くより先に顔も上げずに豊ははっきりとそう言った。
「え?」
「よくある話、ミュージシャンなんて、っつって、向こうの親の反対で一旦破談になって、でもよく聞いたら二股かけてたらしくて、そんで俺じゃない方と結婚するんだって。だから俺はしない」
まだ戸惑いの残る俺に、豊は連絡事項を伝えるかのように全く噛まずに淡々と話した。話す、というよりそれは近頃人気の言葉を話すロボットのような、無機質な言語だった。
「ばっかみてぇ、ここにきて二股かけられるとか、30過ぎてさ、ばっかみてぇ」
口調は豊だったがやっぱりそれはロボットのようだった。
ロボットのまま豊は続ける。
「な、俺もー結婚しない。結婚とか考えない。ていうかしばらく女いらない。お前がいてライブやってればそれでいい。ごめん、結婚するとか言って。ごめん」
混乱しすぎて豊が何に謝っているのか全く分からなかった。
どう言葉をかけていいのかも全く分からなかった。
抱き締めていいのかも、喜んでいいのかも、泣いていいのかも、なにもかも全く分からなかった。
「本気だったんだよ…」
豊の声が震えた。
「お前のこと傷付けても仕方ないって思うほど好きだったんだ…」
その時にはもう豊の声はロボットではなくなっていた。
*
二人で並んでコーヒーを飲んでいる。
玄関で重なって倒れ込んだまま、どれくらいそうしていたのか分からなくなるくらい時間が経って、どちらから動いたのだったか、同時だったのか、ともかく立ち上がろうとした時には背中も腕も痺れてしまっていた。
その後ふらふらとリビングに移動し、ほぼ無意識的にコーヒーを淹れ、なんとなく並んで座った。
座る時にチラリと豊の横顔を盗み見るとその眼が少し赤く腫れていた。
びっくりした。
俺の気持ちがバレバレだった事も。
豊がそんな風に思っていた事も。
彼女に本気だった事も。
それを俺に言った事も。
何もかもに俺は驚愕した。
驚愕しすぎて現実味がなかった。
事実隣にいる豊は存在感がなかったし、吹けば飛んでいきそうに思えた。
触れたら砂になるんじゃないかとも思えたし、それどころかすり抜けて触れる事すらかなわないんじゃないかとも思った。
「いきなりごめん」
永遠に続きそうな沈黙を破り、豊が口を開いた。
豊の声もまたどこか頼りなげで、ふわふわと彷徨い思い出したように意地悪に消えるシャボン玉みたいだった。
「いや…」
そう言うのが精一杯だった。
「まぁ、でもそういう事だから。あの後けっこうすぐゴタついて。だからメンバーにしか言ってないし。二人にもその内に言うから」
「うん…」
幸せそうな笑顔を思い出した。
あの夜の、俺が直視出来なかった顔。
不自然だったな、と今になって思う。
ぶっきらぼうに、少し照れて、なんでもない事のように言う方が豊らしかった。なのに満面の笑顔だった。
ああ、そうだったんだ。
あれは俺に気を配ったのだ。
気に入らない、と思えればきっとその方が楽だろうから。
それでも狂いそうなほど傷付くのは分かっていても。
「なんか…コーヒー不味いね…」
「お前のだろ…」
「いつも買ってる銘柄が無くてさ…」
お互い話す事がなく、なんとなくそんな事を言って場を持たせた。
その後もなんとなく「帰る」と言われるのが怖くて俺はぼそぼそと話し続けた。最近買ったマッサージ機の事、ファンレターに書いてあった話、TV局で会った人の事、今書いている曲、所さんが話してた定食屋、そんななんでもないことを、つらつらと話し続けた。
「俺さ…」
それでも話の間の空白に豊がすかさず何か言いかけた時には、しかたない、と俺は思った。
仕方ない、他の誰かと結婚しなくたって、豊は俺のものではないのだ。
「今日泊まってっていい?」
俺は無意識に頷いていた、が、意味を理解したのは大分後だった。
全く予想しなかった事を聞かれたので、しばらく思考がついていかなかった。
しかし、その後さらに予想もしなかった事を豊は口にした。
「お前俺とやりたい?」
今度は俺は無意識には頷かなかった。
たっぷりと間を取って、でも脳みそはは全く正常に働かず、それでもはっきりと意思を持って、
「うん」
と答えた。
すると豊は目を逸らして少し自嘲気味にこんな事を言う。
「俺はさ、今振られて落ち込んでるだけだしさ、ちょっとヤケにもなってるしさ、こんな事お前に聞く時点で頭おかしーんだけど、や、男同士がどうとかじゃなくてさ、ずっと知らないフリしてたのにズルいの分かってるしさ…」
ああ、と思った。
ああ、そうなのか、と。
「そんなんでも、お前寝たい?俺はこんな俺 嫌だけど」
「俺は豊が好きだから」
素直に言葉が口をついて出た。
振られた腹いせに、もしくは気分転換に、慰めに、自分をずっと好きでいた男と寝ようとしている自分を豊は嫌悪している。
普段なら抑制する衝動を敢えて持って来たのは、今でなければこれを逃せば俺と寝る事は一生ないだろうからだ。
それは好奇心なのか同情なのか俺には分からない。
いや、本当は分かっている。
それは優しさだ。
本人は否定するかもしれないが、それは紛れもなく優しさだ。
そんなお前は嫌だと断れ、罵れ、蔑めと、暗に豊は求めている。
だけどお前も分かってるんだろう。そんな事、俺が出来るわけないじゃないか。俺に豊が拒めるわけないじゃないか。
「ずっとずっと好きだから。どんな豊でも」
「…お前あの日…大丈夫だった?」
豊が本気で申し訳なさそうな顔をするので、切なさで泣きたくなる。
「もう忘れたよ」
そう言って俺は豊の手を取った。
触れられないと思っていたそれは確かにそこにあり、豊も確かにそこに居た。
ふわりとしていた存在感は、触れる毎に重みを取り戻していくようだった。
豊もそれを確かめるように俺の背中に腕を回した。
抱いている間、耳元でごめん、と豊は言い続けた。俺はその度に豊を強く抱き締めた。俺も豊も先の事を考える余裕がなかった。
明日からの事なんて何一つ抱えていなかった。
ただ、目の前のお互いの身体だけを抱えて、豊は罪悪感と後ろめたさを、俺は寂寥感と物悲しさを抱え、今この瞬間だけは一つになれる事に狂気じみた喜びを感じていた。
