M市の玄関口であるO駅は、古い駅舎をそのままの形で余すことなく現在に溶け込ませ、ロマンあふれる風情に人気のスポットとしての地位を保っていた。
その日のO駅は名物のトロッコ列車の運行もないためか人もかなり少なく、私は桜の見物にN公園へ行った帰りのいつものルーティーンで立ち寄っていた。
今朝方まで続いていた雨の降りそうな空模様が急速に回復し、春を通り越したような陽気の良さに、私もシャツを一枚脱ぎたくなる感じがしたし、往来の車も窓を開けているのが目立っていた。
駅舎を眺めながら、今日もお決まりのアングルで写真を一枚。いや、今日はやめておこう。ポケットに行った手をそっと引っ込めた私はそのまま駅舎に背を向けた。
駅前にある、近所の醤油蔵で実際に使用していた仕込み桶と、市内産の木材を使った四阿。私にとっては地元を自慢するものといったらこれといってもいいのだろうか、その要素はじゅうぶんにあるものだと思っている。
中に入り、日陰が出来たことでホッとひと息ついた私の視界に別要素のものが容赦なく入ってきたのを私は見過ごさなかった。
スマートフォン。それもアイフォーンの8だ。ケースとか何とか何も付いていなくて、飾り気のないむき出しの本体を座面の日陰の中に潜り込ませている。
「あっ」
思わず私は声が出た。そして、次の瞬間にはもっと私を戸惑わせる事態が発生した。
アイフォーンが振動を始めた。画面が呼応してパッとついた。電話だ。上のほうに「実家」と出ている。
これはどうしたらいいものか。親切な人なら駅窓口とかに届けるのだろうが、兎も角も人と関わりを持つのを極端に避ける昨今、私もどちらかといえばそういうのを苦手に感じていた。
10回ほど振動しただろうか。着信は切れ、画面が変わって「不在着信 1件」との表示。私はこのまま立ち去ろうかと思ったが、少し避けながらもそこにとどまりたい気持ちのほうが勝ち、隣に区切られた場所に座った。
「あの」
頭の上で声がした。見上げると、円いつばのすっぽりとかぶる帽子に、薄いパーカーとコットンパンツの若い細身の女性が控えめな感じで立っていた。
「ケータイを……」
「これですか?」
彼女が言い終わるのを遮るように私は横を指し示した。と同時に私たちはお互いの顔を見合わせた。
「あ、あなたは」
と声を出したのは私のほうだけ。彼女はそれに表情だけで答えるように1秒で満面の笑みになった。
「ああ、おひさしぶりです」
アイフォーンを拾い上げた彼女は私に真正面から向き直って、小さくお辞儀をした。
「あれから1年なんですね」
そうか。彼女からシャッターを頼まれ、受け取ったアイフォーン。そうだ。あのときのアイフォーンを私はまた目にしたのだ。そして彼女自身も。あのときのことはよく覚えていた。彼女もそうだったのだろう。
上り列車が入線してきたようだ。警報機の音が聞こえる中を彼女の笑顔が花開いている。桜の時期。花を愛でる心は人にもいい精神作用を及ぼすのだろう。私は駅の隣のコンビニのコーヒーが気になって買いに行こうかと思っていたが、もう少しこの時間を楽しむためにそれはまたの機会にしようと心を静めたのだった。
(了)