「私の傘、壊したわね」

  このひと言が私にとって大きかった。

  私には雨のたびに世話になっている赤い傘がある。出勤・帰宅の途中にも目立つのを覚悟で活躍してもらっている。ちょうど今日は朝から雨が降っている。

  「私の傘、壊したわね」

  彼女がこの言葉を私に発したのは互いに中学生のときだった。

  私は好きというほどまではいかなかったが、このときには少しだけ彼女に好意を寄せていた。

  そんな私が彼女の赤い傘を壊したのは同じく小学生だったころ。

  「私の傘、壊したわね」

  私には全く記憶になく悪気もなかったと思うが、彼女の記憶は鮮明らしく、彼女の訴えかけるような言いざまに私は罪悪感を覚えたものだった。

  「ごめんなさい。傘、返します」

  私はない記憶をたどりながら、たぶんそれにいちばん近いだろうと思われる赤い傘を少ないお小遣いで手に入れた。

  彼女の反応はよくわからなかったが、もらってくれないことだけは間違いなかった。

  クラスではこのことがちょっとした話題になり、後になって思うと彼女も私のとった行動に戸惑っていたのかもしれない。

  彼女も愛称で呼ばれていたものの、決してそう注目の存在でもなく、友達もけっこういたが男子たちには折に触れてその容姿を取り上げられたりしているようなタイプの子だった。

  「思い出の傘なんですね。赤いのもいいと思いますよ」

  中学卒業から30年ほどの時が流れた現在まで彼女を見かけたことはない。

  今でも同じ町にいるかどうかもわからない。

  職場の女性上司は一見表面的な反応のようだったが、すぐに理解してくれたらしく、温かい言葉をかけてくれた。

  私は女性上司が彼女の立場だったらということよりも、私の思い出について何かを指し示してくれるんじゃないかとの期待をなんとなく持っているのかどうか、自分でもわからないままほぼ一方的にしゃべってしまった。

  いつもの帰り道。

  今日は雨が降っている。

  赤い傘に雨粒の当たる音が心なしか当時のことを呼んでいるようで、私はしぜんと緩やかな足取りになっていた。
(了)