私は彼の隣にいる。

  「あんな所に自転車を置いておいたら雨にぬれちゃうじゃないの」

  窓から外を見下ろしている2人のうち私が言った。

  「ぬれても平気なんじゃない?」

  彼は私の視線の先を見ながら答えた。私は気がついた。その黒い自転車は後ろの泥よけに本来付いているはずの反射器が付いていなかった。


  ある午後のことだった。時期は晩春というより初夏といったほうがいいくらいだ。空は青く晴れ渡り、厚めの雲がところどころに固まっていた。その日だけは内気な私にしては珍しく、黒塗りの児童用の自転車に乗って遊びに行った。1人ではなく、ほかに数人といっしょだった。

  私はどうしても自分の心の浮わつきを抑えることができなかった。いつも1人でいた私は大勢でもないが、10人足らずといっしょに自転車でどこかへ行く機会をその日初めて与えられた。ふだんなら受け身の立場に座らされていることを悲しく思っていた。それが、この時間だけは全く気にならなかった。1人だけ一団の会話から外れていたが、それでもよかった。それまでになかった経験を私は知らない間に少しずつペダルに込めていた。

  一団は大きな坂に出た。この辺り一帯はブレーキのあまい乗り物で下りるのには少し危険な箇所が多い。

  私の先を行く仲間たちは彼も含めて勇ましく坂を下りていった。私は坂の上で少し待ってから、ジェットコースターのように走っていく彼らに準じた。景色が線状になり、矢のように飛んでいった。線状の世界の真ん中にあるのは私の自転車で、私はその世界の指揮者になった気分に浸った。

  坂も終わりが近い所に来た。下りてきた私の目に、自転車に乗った彼の後ろ姿が入った。私はブレーキを握り、きいっと音をたてて私の自転車は減速を始めた。ブレーキがあまかったのか握ったのが遅かったのか、私の自転車は止まっている彼の自転車に追突した。がしゃんという音に合わせて両方の自転車に衝撃が伝わった。私の自転車は弾みで少し後ろへ下がって止まった。

  「あああっ!」

  彼は振り向いた。私はどこを見ているのかわからない顔をして笑っていた。

  「おめえ、何しやがるんだ!  取れちゃったじゃねえか!」

  私の自転車は前の泥よけがそこの所だけへこみ、彼の自転車は後ろの泥よけに付いていた赤い反射器が取れた。

  次の日の休み時間、教室で彼と私は行き合った。

  「あの取れちゃった光るやつ、昨日帰ったらすげえ怒られたんだからな!  後でお金払ってもらうから!」

  彼は「お金払ってもらう」のところで、ものを受け取る手の形をした。私はまた笑っていた。


  「あそこいつも水たまりになるんなあ」

  彼は前の日の雨で出来た水たまりを指差した。

  「えっ?  ああ、そうだねえ」

  私は慌てて彼のほうを見た。
(了)