我逢人記@Boston

我逢人記@Boston

今、当に五感を奨率し、美国のかた習業す。庶わくは、俗念を攘除し、駑鈍を竭して学問を修し、郷国に還さん。

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グローバル化する世界において、日本の国家公務員として、どのような分野・地域で働く場合でも、英語力や業務関連分野の専門性、世界における人的ネットワークが、有用であることは言うまでもありません。さらに、行政実務の基盤となる能力の涵養や、アメリカの実像に対する理解と日本を相対的に分析する視座、グローバルな大局観も、今後の公務に活用できるものです。

まず、行政実務の世界を離れて、アカデミアの世界で、論理的思考や論証方法、着眼点、資料分析の仕方などを習得することができました。社会現象のなぞPuzzleをResearch Paperのテーマに選び、先行研究の吟味、仮説、実証的な仮説分析、結論という枠組みで、学術論文を書くプロセスの中で、「なぜか」というPuzzleをBreakdownしながら、何十の書籍・論文を漁り、データを集め、クラス内外で、教授・級友と議論したことは、高度な知的作業。帰任後の行政実務においても基盤となる能力の涵養になります。とりわけ、Academic writingでは、付加価値が高く、オリジナリティがある分析を行うためには、膨大な先行研究を批判的に読み、徹底的に精査することが最重視されます。このことは、行政実務上における過去例分析や、その分析における工夫の重要性を再認識する契機ともなりました。

また、日本を客観視し、アメリカの実態を知ることができたことの意味は大きいと思います。日本にとって、アメリカの制度がどこまで参考になるのかは、その背景や実態を精査してからでないと結論が出ないにもかかわらず、必ずしもそうした背景や実態への深い理解なしに、米国制度を調査・引用することがあります。地方自治に関しては、地域主権改革や道州制、国の統治機構改革などの言葉がかまびすしい中で、日本では、まだまだ、アメリカの地方自治制度について、それが実際にどのように動いているのか、どのようにアメリカ人自身から評価されているのか、というようなことがきちんと紹介されていないのではないかと感じていました。上述の「地方債」・「住民投票制度」のアメリカにおける実績・評価などを分析できたことをはじめとして、アメリカの実態を直視できたことを、今後、建設的で精度の高い制度の企画立案につなげたいです。
(Columbia Law Schoolの卒業式)


さらに、世界中から金、人材、情報が集まるアメリカで、経済の中心ニューヨーク、学問の中心ボストン、政治の中心ワシントンD.C.に身を置くことができ、グローバールな大局観が磨かれたと感じます。書籍のみならず、接した方々の肉声・言動を通じて、世界各国がどう動いているのか、アメリカの識者は将来をどう見通しているのか、その中における日本の立ち位置はどうなるのか、などについて感じたことは、本質的な目標をどのような点に見定めて制度設計・運用を行っていくかという意味で、行政官としての欠くべからざる感性です。これらの経験を生かし、引き続き、全力で公務に当たりたい、そう思うと同時に、こうした機会をいただいたことに、心から感謝いたします。
(Harvard GSASの卒業式)

RSEAプログラムの修士論文の提出等が済んだ5月から帰国までの2か月弱、ワシントンD.C.のCenter for Strategy and International Studies (CSIS)において、インターンシップを行いました。CSISは、D.C.における6大シンクタンクの一つと言われ、外交安全保障に強く、Dr. Michael Green氏が日本部長を務めています。
(Dr.Green)


(CSISでともにインターンをしたメンバー)


個人としての主な業務は、毎日のニュースクリップの作成、日本の要人と面談のお手伝い、日米文献の米日翻訳などであった。日本部の主たる案件としては、米国議会に提出する報告書(アジア太平洋地域における米軍の配備体制に係る評価書)を作成中であったため、米軍の安全保障に関する世界的な視座と、それに基づく日米同盟の考え方について、様々な情報が入ってきて、勉強になりました。さらに、CSISが開催するセミナーや、D.C.の他のシンクタンク等のセミナーや総会、そして、連邦議会の公聴会の傍聴など、米国政府の要人の発言や言動に直接接することができました。今後、文献や資料等でアメリカ政府について学ぶ際も、「行間」を読むことができるような素地を作れたのではないかと感じています。
(連邦議会上院国防委員会:委員長は、Daniel Inouye上院議員(当時))

秋学期、Government and Politics of Chinaという、中国政治の授業を受講しました。なぜ、共産主義革命がおこったのか。共産党政治の本質は何か。中国政治における天安門事件の意味は何か。民主化の可能性も含めた中国政治の将来像はどのようなものになりうるか。中国政治を特殊かつ不透明な政治システムとして認識し、毛沢東時代を出発点に、近代中国の歴史と政治経済について、重要な論点を紐解く授業で、基礎的なものではありましたが、アメリカの目線で中国をどうとらえているのか、大変学びが多かったです。

その中で、Research Paperとしては、「三農問題」を分析しました。これは、「農業」の低生産性、「農村」の荒廃、「農民」の貧困の、「農」が抱える3つの問題のことを言い、伸び悩む農民所得と拡大する都市部と農村部の所得格差が、中国の経済社会の持続的発展を脅かす不安定要因となっているものです。この農業・農民・農村の三重苦が起こったのはなぜかについて、「江沢民の政治的脆弱性」を主たる仮説として設定して論証しました。中国政治に土地勘のなかった私にとっては、今後もあらゆる行政分野に影響を持ちうる日中関係を考える上で、基盤となる視座と事実認識を得ることができました。

(以下、リサーチペーパーの抜粋)
I. Introdcution
    At present, China has the second largest economy in the world and the overall standard of living in China has increased rapidly in the last few decades. While the gains of "reform and opening" are impressive, the neoliberal growth policies of Deng Xiaoping and Jiang Zemin have generated a number of social consequences that Hu Jintao's administration must address, such as growing income inequality, persistent bureaucratic corruption, a bankrupt local-state welfare model, and illegal land seizures. Especially, farmers, rural areas and agriculture in China are still suffering from serious poverty although more than 60% of people in China live in rural areas. The three problems of Chinese agriculture are called the "Sannong Issue", developed in Jiang Zemin's era generally in the 1990s. Subsequently, in Hu's era, the most explicit demonstration of Chinese policy makers' intentions to raise farmers' welfare was the "No. 1 Document", published in 2004 for the first time in the 17 years after 1986, leading to reform the current agriculture in China.
This situation is quite puzzling, considering the facts that the CPC is, so-called, a party of "farmers" and that Deng's first reforms began in agriculture and that issues of agriculture were dealt with in the "No.1 Document" from 1982 to 1986. Why, especially in the 1990s, should a reasonable government adopt public policies that have harmful consequences for the majority of people they govern in China? And why did the government change the policies in 2004? In other words, why did Jiang and Hu, the two leaders of the same "farmers" party take different positions for or against farmers, rural areas, and agriculture?
In order to find answers to these questions in light of the political economy development, this paper will examine the struggles of policy-making and politics in China.
My hypothesis is that, comprehensively speaking, both Jiang's and Hu's administrations took politically reasonable policy making. It would be reasonable that Jiang Zemin's political weakness (compared to Deng Xiaoping) led to economic policies for urban regions in order to support his political foundation such as "Shanghai Clique", having interests in urban areas, although the policy brought about the sannong issue. It would be also reasonable for Hu Jintao to deal with the agricultural issues as a first priority because he could do so thanks to his political strength and because the seriously developed inequality might damage the legitimacy of the CPC and its governing system.
In this study, at first, I will provide a framework of the sannong issue and political institutions in China in Part 2. Subsequently, in Part 3, I will cope with a question why the sannong issue developed in Jiang's era. In Part 4, I will discuss why Hu Jintao initiated the policy changes over the sannong issue in the early 2000s.

5.Conclusion
The sannong issue has been a serious problem against farmers, rural areas, and agriculture in China, developing in Jiang Zemin's era of the 1990s. Farmers are suffering from quite a low income compared to urban people, losing governmental benefits if they worked in urban areas due to the hukou system, heavy rural tax and fee burdens, and late development of infrastructure in rural areas due to low public expenditure there. This issue caused many social instability such as SARS and rural protests. Why did this issue develop? Why did Jiang and Hu, the two leaders of the same "farmers" party take different positions for rural policy? In the examination of this paper, my hypothesis to answer the puzzles seems correct with various pieces of evidence in Part 3 and 4. It is safe to say that the different political foundations of Jiang and Hu led to different policies on agricultural and rural areas. In China, there is a close interaction between the CPC, the State Council and a small numbers of leaders like the General Secretary who can a take strong initiative on rural policy making in China. Given these facts, compared to Deng, Jiang's political weakness brought about the rural problems because Jiang had to keep Deng's economic policy and set the highest priority on industrial development with the sacrifice of rural people. He strengthened his political position by strengthening his urban political foundation, the Shanghai Clique, leading to keeping favorable policies for urban development. By contrast, Hu faced with the above political instability, changing the rural and agricultural policies to solve the sannong issue for the purpose that the CPC's policy making continued to aim its ruling regime. This change was achieved because Hu's political power is relatively stronger than Jiang's one. Considering the Chinese political and economic situations described in this paper, both Jiang's and Hu's policies are likely to be politically reasonable.
Presidential Electionsを受講しました。講師Elaine Kamarckによる、アメリカの大統領選挙の歴史や選挙制度(予備選挙と本選挙)などを概観する授業。1月の冬休みに開講される2週間の集中講義(単位も認定)。ちょうど大統領選挙予備選の最中であったため、Cross-registrationを活かし、ケネディースクールの授業を履修したものです。
(Dr.Elaine Kamarck)


クリントン政権における選挙参謀としての自身の実務家経験を豊富に盛り込んだDr. Kamarckによる解説は、アメリカの大統領選挙の実像を深く理解する助けとなりました。受講生はケネディスクールをはじめ、MITやタフツ大学フレッチャースクールの学生も含み、多様です。

また、課外授業として、Town Meetingの傍聴(New Hampshire州での某候補のタウンミーティングは印象的だった)、州における党大会の傍聴(幸運にも、パーティーに臨席することができ、共和党予備選挙の別の某候補には直接お話を伺うことができた)、さらにまた別の某候補の予備選挙運動のボランティアへの参加など、座学では決して感じることができない、大統領選挙、しいては、アメリカにおける民主主義について、肌感覚で学ぶことができたのは貴重でした。
(同級生たちとポランディアを視察)



(Town Meetingの様子)


なかでも、各候補者が、有権者一人一人を意識したスピーチや質疑応答を行っていたこと、そして、軍と国家の結びつきを強調していたことは印象に残っています(後者は「共和党」であるからと言うこともあろうが)。最終的に、共和党の大統領候補への選挙参謀としての選挙戦術についてPolicy Memo政策提言をレポートとして提出しました。

ジャパン・アズ・ナンバーワンで有名な元ハーバード大学教授のエズラ・ボーゲル先生との勉強に参加し、ハーバードやMIT、タフツ在学生などのボストン在住の日本人同士で、月に1回、日本のあるべき姿やそれを実現するための方策について議論しました。
(ボーゲル先生と)


参加者が80名超と多かったため、4つの分科会に分かれて勉強会を行いましたが、私が所属したリーダーシップ分科会では、首相公選制や、財政再建、震災復興など幅広いテーマについて、活発かつ胸襟を開いた議論が行われました。各省庁、自衛隊、弁護士、マスコミ、投資銀行、その他民間企業と、日本ではそれぞれの分野の第一線で活躍されている方々からの鋭い視点は目からうろこ。また、そうした方々とのつながりを温めることができたことは貴重な財産です。
日本政治研究の権威Susan Pharr教授(ライシャワー日本研究所所長(前))とポーランド出身の政治学者Grzegorz Ekiert教授による、東洋と西洋の市民社会の概念や市民社会と国家の関わりについて考察するゼミ形式の授業。
(ゼミ生たちと)


西洋においては、市民社会をとらえる際に非政府性を重視し、政府vs非政府という対立構造で論じることが主流であるのに対し、Pharr教授は、日本においては、歴史的に政府が市民組織の興隆に大きな役割を果たしていると説く。市民社会の基盤は、voluntary association自発的組織において、市民が意見調整・マネジメントを自ら行うことにありますが、例えば、日本の「自治会」は、政府から自立する一方で依存してもいる二面性を持ちながら、市民社会の涵養に大きな役割を果たしてきたという分析は興味深かったです。民主主義を支える社会的な構造を比較政治学の観点から分析する大きな視座を得ることができ、広い意味での「公」を市民、自治体、国がどう担っていくべきかについて考えさせられました。

Research Paperとしては、阪神大震災における市民社会と政府の役割を比較考察し、市民社会による災害対応が制度化していく過程を分析しました。教授の指導が大変丁寧であり、リーディングの手法、論証のポイント、文章の展開方法などについて、一つずつスキルを向上させていくことができ、アカデミアにおける分析手法を身に着けることができたように思います。最終的には、Pharr教授に指導教官になっていただき、このPaperを発展させて修士論文としました。
(修士論文の執筆にあたっての指導風景)

ハーバード大学はボストン市の北西にあるケンブリッジ市に位置しており、在学したRegional Studies East Asia (RSEA)プログラムは、ハーバード大学の核となる大学院であるGraduate School of Arts and Sciences (GSAS)の中の一つの修士プログラムです。GSASはアカデミツクな研究を重視している総合学術大学院であり、理系の物理や生物学専攻から、文系の政治学や歴史学専攻まで50以上の専攻(プログラム)を擁しています。例えば、政治学部では、NHK白熱授業で有名なMichael J. Sandel教授も教鞭をとる。他のプロフェッショナルスクール(ビジネススクールやケネディースクール等)と異なり、学生の大半は博士プログラムに在学。授業は、博士課程の学生も参加するような5-10人程度のゼミが多く、教授とも個人的なつながりを持つことができます。
(いわゆる学生会館(食堂など))


2011年のRSEAプログラムは1学年30人程度、うち留学生は半数程度で、専門分野については、7割が中国、2割が日本、1割が韓国等でした。留学生のうち半数は中国人であり、政府関係者はシンガポールからの4名だけです。日本人はここ数年1名程度。学生の多くはアカデミア志向であり、社会人経験が無い人が多く、プログラムの過半数を占めるアメリカ人はアジアでの生活経験があり、アジア言語をある程度話すことができます。
(同級生たちと)


このRSEAプログラムの卒業要件については、学生は、中国、日本、韓国など東アジアの地域のうちいずれか1つの専門分野を選択する必要があります。修士号取得のためには、①計8コマの授業を履修(うち6コマは東アジアに関する授業でなければならない)、②専門分野の言語の授業でThird Year Levelを達成(その言語のネイティブ学生については、この言語要件は免除)、③専門分野の言語で書かれた資料を引用した修士論文(英文60ページ以上)を執筆、の要件を満たす必要があります。ゼミ形式・講義形式の科目共に、期末試験ではなく、英文25ページ前後のResearch Paperの提出を課す科目が多いため、学期末は複数のペーパーに追われて苦心します。このプログラムの期間は基本的に2年であるが、卒業要件を満たせば1年で卒業することができます。私は日本専攻として卒業要件の②は免除されたが、1年で卒業することは修士論文の執筆を含めて負担が大きかったです。このプログラムの最大の魅力はカリキュラムがフレキシブルな点。事実上、必修は語学のみであり、後は自分の好きな科目を自由に選択できます。Cross-registration(単位交換)により、ハーバード大学の他大学院、MIT、そしてタフツ大学フレッチャースクールの授業も履修できます。

2年目の修学先は、Harvard University Graduate School of Arts and Sciences(GSAS)になりました。私が所属するのは、この大学院修士課程であり、国際関係(東アジア)を専攻します。












このスクールGSASは、日本語で言うとすれば、「人文科学・自然科学大学院」といったところでしょうか。物理学・生物学専攻などの理系から、経済学・哲学専攻などの文系まで、数十の専攻を抱え、ほとんどが博士課程進学予定です。










ハーバード大学は、正確にはボストン市ではなく、その北西部にあるケンブリッジ市にありますが、わかりにくいことでもあるので、表題も「Boston」を使わせていただきます。NYからこちらに移って1月ほどたちましたが、まだ慣れないことが多いですが、楽しみつつ、頑張りたいと思います。










また、落ち着いた頃にご報告をさせていただければと思います。

「アメリカ観」と言えるほど、一般化はできないと思いますが、アメリカにはこんな一面があった、という意味で、暮らしの中や旅先で私が見聞きして印象に残った発見を書きとめたいと思います。

まずは、アメリカの「いいな!」と思うところから。

<子育てにやさしい>

これは、私がもっとも印象に残ったことであり、素晴らしいことだと思ったことです。例えば、トイレのオムツ交換台も、いたるところのトイレに備えられています。

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バリアフリーが進んでいるため、段差のないスロープも至るところにあり、ベビーカーが使いやすいのではないかと感じます(もちろん車いすを使われる方にもやさしい!)。また、託児所もよく見かけます。下の写真は、大学の寮@ボストンですが、託児所が併設され、日中、子供を預かっています。これなら、小さな子供を持つ学生や研究者は安心して学問に打ち込めます。

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さらに、IMF(国際通貨基金)@ワシントンDCのビルにも託児所が設置されていたことには、驚きましたし、素晴らしいと思いました(下)。

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<情報化が進んでいる>

アメリカでは不便だと感じることも多かったですが、「情報化」という観点からは進んでいることも多いように思います。まず、インターネット環境が素晴らしいです。こちらでは、無線LANのことを「Wi-Fi」と呼びますが、多くの場所でWi-Fiが使えて、インターネットを利用できとても便利です。大学校舎内はもちろん、芝生などの庭のスペースでも、Wi-Fiが使えますし、スターバックスなどの喫茶店や、駅や電車内でも使えます。

また、セルフチェックアウト@ワシントンDC・ボストンを見た時は、買い物がスピーディにできて便利だと思いました。
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これは、店員のいるレジではなく、自分でバーコード処理して会計をする仕組みです。

さらには、一例ではありますが、スタンフォード大学のビジネススクールにお邪魔した際に、会議室ごとに電子予定表(緑ランプ)が備え付けられていて、会議室の予約から利用まで、一括して効率的に行える仕組みに感動しました。


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<除雪が速やかで、かつ、徹底している>

NYマンハッタン島では、雪で移動に困るという思いをそれほどしませんでした。NYの冬はとても寒く、氷点下になることは珍しいことではありませんでした。雪も時折積り、大雪になった(50cm以上積もった)こともありましたが、除雪が素晴らしいです。なんでも、商店においては、お店の前で雪が原因でスリップしてケガをした人に対して賠償責任が生じる可能性があるとかで、除雪に余念がないため、大通りの雪はあっという間にきれいに除雪されます。大学構内でも、除雪が徹底されているため、歩道は長靴なしで歩けることがほとんどでした。写真は、大学構内の除雪の様子です。

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<公園が充実している>

マンハッタン島では、何よりセントラルパークを挙げずにはいられません。土地代が高いにも関わらず、山手線の内側と同じぐらいしかない狭いマンハッタン島の中にあって、南北4Km東西0.8Kmの長方形のこの都市公園は、市民に憩いの場を提供しています。ジョギング・サイクリングルートや、湖、野球場などのスポーツエリアなどを備え、時にはコンサートなども開催されています。

これに加えて、各地に小規模の公園が整備されています。東京の公園よりも広く、自然を生かした作りになっている気がします。私が住んでいた寮は、ハーレム(黒人が多く住むマンハッタン島の北部のエリア)に近かったのですが、Morning side Parkなど、近所にいくつも公園があったため、ジョギングをする際によく通っていましたし、時には、公園で子供たちとキャッチボールをしたりもしていました。

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<自転車にやさしい!?>

地下鉄への自転車の持ち込みが許されています@NY、ワシントンDC。迷惑かもしれませんが汗。

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また、バスの先頭に自転車を結び付けて走るサービスも行われているようで@ワシントン
DC、便利な気がします。

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自転車愛好者の私にはうれしいです。

といっても、今だ自転車を地下鉄に持ち込んだことはありません。

また、例えば、ワシントンDCでは、自転車レンタルステーションが各地に設置され、そのステーション間では、自転車をどこで借りても、また、返却してもよい仕組みになっています。乗り捨てができて、とても便利です。


さらには、シリコンバレーのグーグル本社では、ステーションすらなく、自社製の自転車を、どこでも自由に乗ったり乗り捨てたりできます(写真がグーグル社の自転車。)。グーグル本社は、おそらく東京ドーム10個分は越えるであろう広大な敷地に、10以上のビルが点在していました。

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(グーグル本社地図)

また、留学前後でアメリカに対する認識が変わったことがあります。

(1)アメリカの大学は「入るは易き、出づるは難き」か?

必ずしも当てはまらないように感じました。「アメリカの大学は、学生を多く入学させ、履修課程で厳しい課題を課し、ついていけないものは容赦なく放校する」という話を耳にしたことがありましたが、この見方は的を得ていないように思います。

については、入試における競争は極めて激しいです。CLSの場合、JD生は、9000人を超える出願者の中から最終的に350人程度が入学します。LLM生は、2000人を超える出願者の中から250人程度の入学です。

については、卒業できない者が多いかといえば、決して多くはないです。私の代のLLM生も全員卒業しました。事務局側も、カウンセリング体制をしっかり採っています。卒業の要件として、全科目の成績の平均が、B-にならなければならず、Cを取ってしまうと厳しい状況になります。また、Pass/Fail(可・不可)の二段階判定の科目でも、試験の結果がPass可の基準点を下回る学生は少数いるようです。こうした場合には、追加試験や追加のレポートを提出させて、カウンセラーと十分なやり取りをした上での救済措置が認められています。これは決して公の措置ではないですが、最低限、卒業はできるようにサポート体制は取られているということでしょうか。

ただし、については、当たっていると思います。別稿で触れたように、授業での課題の多さと成績競争の激しさは、論を待たないと考えます。

これは、CLSの話であって、ロースクールの経験に基づくものなので一般化はできないかもしれませんが、最も学業が厳しいと言われているロースクールの状況は、他のスクールの状況を推認する上でとても参考にはなると思います。


(2)アメリカは「個人主義」の国か?

私が思っていたよりも、「家族」や「国」が尊重されている印象を受けました。

例えば、名字Family Nameの扱いです。確かに、アメリカでは友人や同僚の間では、「名前First Name」で呼び合う習慣があります。これは、単に親しい人に限らず、例えば、大学事務局の職員と学生といったSemi-formalな間柄でもFirst Nameで呼び合います。これをもって、「家」ではなく「個」を尊重している、という見方もできるかもしれません。しかし、名字Family Nameは大切に扱われています。身近な例では、教授に対してはFirst NameではなくFamily Nameで呼びます。また、Formalな場や文献などではFamily Nameが先に表記され、さらには学生の名簿の管理(日本でいうところのあいうえお順)ではFamily Nameに基づいて管理されることが通常です。これは、渡米前のイメージと異なり、私には意外だと感じたことです。例えば、鈴木一郎さんの場合、全てIchiro Suzukiと表記されるかと思っていましが、Suzuki, Ichiroという形で、カンマを挟んでFamily Nameを先に表記することが多いです。さらには、Middle Nameの扱いです。アメリカでは、Middle Nameを持つことはまれではありませんが、その使い方の一つとして、旧姓がMiddle Nameがあります。例えば、田中花子さんが鈴木一郎さんと結婚した場合、花子さんは、Hanako Tanaka Suzuki、または、Hanako T. Suzukiという名前が使われ、旧姓を残す配慮がなされます。こうした例から、「家」を大事に扱っているのではないか、との印象を持ちました。

また、「国」に対する意識、統合に対する意識が強いと感じました。例えば、街中いたるところでアメリカ国旗を見ます。日本のように祝日に限られず、年中、国旗が掲げられています。それも、公共の場所だけではなく、ホテルやオフィスビルはもちろん、一般の民家においても、国旗の恒常的な掲揚はまれではありません。

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さらには、アーリントン国立墓地@ワシントンDCを訪れたとき、国に対して貢献した人を大切に扱っていると感じました。

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この墓地は、アメリカ建国以来、数々の戦争(第2次世界大戦や最近のイラク戦争も含む)で戦死した兵士やアメリカの国民的英雄など
30万人以上が埋葬されている国立の墓地です。年間6000人以上の人が葬られ、埋葬費用は国の負担であり、年間約2000の式典も行われています。そして、この墓地を、年間400万人以上もの人が訪れているということにも注目しなければなりません。こうした「統合に対する意識の徹底」は、その徹底なしには、人種や所得、地域で国がバラバラになってしまうかもしれないという脆弱性の裏返しであるかもしれませんが。

この私の感慨は、「アメリカの家族観や国家観を拡大解釈している」とご批判をいただくかもしれませんし、上記の例以外の観点からは、確かに「個人主義」が日本よりも徹底しているという面もあります。ただ、上記の例は小さなものであってもその「家族観」や「国家観」の発露に思えます。日本で、「国」という主語が語られるとき、「右」や「左」といった単純な議論になってしまうことがあります。しかし、アメリカにおける「国家観」の一端に触れたことで、そうしたイデオロギーを超えて、「国」というものを考え直したいなと思いました。


(3)アメリカは「平等」の国か?

「平等」といっても様々な切り口がありますが、一つ取り上げるとすれば、人種の壁は今だ低くはないと感じました。オバマ大統領が、アメリカ史上、初の黒人大統領になったことは、人種差別解消の達成ではなく、その達成に向けた道のりの一里塚です。おそらく、1964年制定の公民権法以前と現在を比べれば、差別解消の上で格段の進歩があったのではないかと推測しますが、それから約50年を経た今でもなお、人種の壁が低くはないことを意識する場面に時折遭遇します。

目にする職業が、人種によって相場が決まっているように感じられました。心苦しくもその言葉を使わせていただくとすれば、「物乞い」の方々はほとんど黒人です。いわゆる3Kと呼ばれるような職業に着かれている方々の多くが、黒人かヒスパニックなどです。他方で、大学教授の大半は白人であり、ウォールストリートを闊歩するビジネスマンの多くも白人でした。では、国民の代表たる代議士はどうか。例えば、全米50州の上院議員については、現在に至る長い歴史の中で、有色人種と言われる方々が選出された例は、数えることができる程度の少数しかいません。

(米国上院Website参照)

http://www.senate.gov/artandhistory/history/common/briefing/minority_senators.htm

また、街でも、異なる人種の方々が仲良く並んで歩いていたり、同じテーブルに座って食事をしていたりすることは、見かけることはありますが、多いかと問われると、その答えはNOです。ただ、私の在住経験からは、不合理な、または、不愉快な扱いを私が受けたことは、全くありません。


「人種の壁」を考えた時に、皆、理念と理想は共有しています。ただ、理想を実現し、現実を変えるには、時間がかかるということなのかなと思います。決して、現実の壁を悲観的にとらえることなく、一歩ずつではあっても、理想に向かって、意識と行動を積み重ねているみなさんの姿を見ますし、私はそれらを肯定的に捉えたいです。

最後に触れたいのは、アメリカの不思議な調和です。

先進国病とも言われる、「少子高齢化」とそれに伴う経済成長の鈍化が、この国には必ずしも当てはまらないことです。一つには、世界中から優秀な頭脳を引き寄せ、それを自国の研究開発・発展に活かしていく「牽引力」が、この国にはあります。また、もう一つには、所得や人種に基づく階層が残る中、高所得者層においては、他の先進国と同じ「少子高齢化」の波が押し寄せているにもかかわらず、国全体としては、ヒスパニックなどの移民が安価な労働力を提供し、いわゆる3Kと呼ばれるような業務に着き、社会全体の経済活動の「下支え」をしています。この「牽引力」と「下支え力」の両面を備えていることが、強い印象として私の目に映りました。

アメリカという国は、様々な理想と矛盾を抱えながらも、不思議な調和を保ちながら動いています。

アメリカ法全体に対する理解を醸成するため、ニューヨーク州司法試験を受験し、合格しました。LL.M.プログラムは、母国の大学で法学を既に学んできた各国のlawyer達に、一年間、各専門分野について、その分野のアメリカ法を勉強させる機会を提供することを主眼としているため、アメリカ法全般を学ぶようにはできていません。

私の研究テーマは米国の地方財政法制度であり、1年間のLL.M.プログラムではアメリカ法の理解はどうしても不足してしまいます。この点、この試験は、憲法から契約法、不法行為法、刑法、民事訴訟法、刑事訴訟法、不動産法、さらには家族法、相続法に至るまで、ニューヨーク州の主要な法律を全て勉強することになるので、アメリカ法を全般的に勉強する良い機会となりました。また、短時間に集中的に英語の問題を読み、一気に英語のエッセイを書き上げるよい訓練になりました。
(認証式の様子)