・機械とは非人格性の事を指す。
あらゆる社会形態で見られる利益を目的とした人間関係の共通点として人の払えるコスト、損益の許容限界は有限だが、それと対象的に利益や期待できる獲得物は無限である。
・資本すなわち貨幣蓄積が全ての価値を決定する社会では質的差異は考慮されない。対立あるいは不可侵の構造物の諸要素の計算不可な内容は完全に消去されるか交換可能なものに改変される。前者が資本主義ユートピアであり、後者は時代を超えて見出すことができる名声である。ある称号や功績間の価値は通約不可能であり、暫定的な数値で表すことができない。
・名声は権威によってその文化圏に実行力を持つことになる。
・[我々が]他者の視点[と呼ぶもの]を包含する集団的精神と精神的地平は外在していない。他者の間を媒介するものは意味伝達が不完全なランガージュである。
・無意味な文(トートロジー/矛盾)や不完全な文(ランダムに生成された文字の羅列、代名詞や指示語の多様による定義不充分な文章、過剰な省略)のような意味伝達されていない文から人は意味を生成する。
・必要価値と効用よってもたらされる個人的価値(消費するための消費)は極々限られた場合で相関関係があるものの単一的には扱うことができない。
・各カテゴリーは形態としても捉えることが可能である。ある形態は別の形態に転化し、言語の範疇では修辞的に別の形態を同一かのように表現することも可能である。
・言語の存在や論理拘束性を超越しているかのような振る舞いにより、内在する精神が外在しているかのように扱うことができる。これによってコミュニケーションが存在しなかった場合本来生成され得ないはずの個人の個人による干渉が生じる。
・この世界は人の認識そのものである。神の認識=クオリアであり、その存在の証明は認識を介しない証拠を用意することができないため不可能である。そしてその認識方法は主体的にコントロールすることが不可能なのだが、伝達の限界によって隠される。
・美的社会…価値の一般化とそれによって構成された社会。
あるものが社会的に美しい(好ましい)としても美や醜=不快感を根拠にその存在価値の一方の側面(使用価値)を否定することはできない。審美的価値判断の対象は真理や真実などではなく、無内容の空虚な形式つまりはフィクションである。美を絶対的な判断基準にする時、素朴なニヒリズムに陥っている。なぜなら審美には理屈も分析も必要なく、冗長性を否定する故にそれらを拒絶するからである。
・審美的社会主義は欺瞞である。必要悪の存在が歪なものであるのにも関わらず、許容し続けるからだ。美を至上とするなら使用価値よりも支配的なはずであり、必要性はそれを存続させる根拠にならず従って否定するしかないのにも関わらずそのようなことは一切行わない。現在の天皇には美的価値も使用価値もないが、創られた虚構の需要によってまるで必要悪の面をしながら、人権のない人間(神聖のない表徴)として存在し続ける。
・ある事物を表す語句や相(アスペクト)は個別化されたものではない。それら個体は結合形成されることによって別の個体として言い表すことになる。ある装置(カメラ)を考えた時それを構成する部品(レンズやシャッター…)は同一のものとして扱われないが両者の関係性のみ取り出して分析すればそれぞれ双方が等価物に還元される。
・固有名と意味は一対一で対応していない。確定記述とは言語の到達不可能な領域の問題であり、冠詞を与えようと固有名化しようと産み出すことはできない。イデアのような超越論的存在である。
・我々は例外状態以外では他者を必要としない。仮にチーズから蛆がわくように人による出産ではなくそれ以外から発生したとしても(例えばクローンや人工授精)生活が維持可能であれば気にはならない。生活の障壁がないからである。
よって社会を利用可能な個人は再現のない欲求(達成することのできない幸福)を充足させるために《法》や《道徳》を持ってして被抑圧的人民に人工的な障壁を課す。
・我々は認識のみを完全に写し取り表現するものを客観的事実という、その認識の伝達物は受け手が直接知覚することを前提条件にしない。絶対的完全性を保証しない限り日常会話で用いられる『客観』は相対的客観であり、すなわちよりフィクションに見えない、フィクションとして扱われていないフィクションである。
・生存の必要性に基づく本質的根源的人間の状態━自然状態は無際限の人間の欲求によって打ち破られる。
(飢餓の時に人は金を求めるだろうか?━ミダス王の寓話)
・旧来の過剰な権威、権力でなされる社会でも認知させそれに従わせるための準備段階として小文字の他者を必要としない。寧ろ存在しない方が大文字の他者が阻害されずに権力機能を行使することが可能である。
・トップダウンの国家装置。ボトムの同一平面上で操作を行うAIE(国家のイデオロギー諸装置)。
・ゲームの価値は参加母体の大きさによって決まるとある人が考えたとする。彼は国家装置を利用しそのゲームに参加することを他人に強制できる。
・ある個人の信念や価値体系に対する無関心(である事をアピールする振る舞い)により自由の余地が生まれる。よって階級的文化から特権的利益を得ている集団は自らは彼らを蔑み無知や品のないとされる言動を逐一捕らえ攻撃する。社会的には不利益や罰則が生じるような制度を制定する。
これらは搾取をより安定なものにしているがそれを可能にしているのは階級間の情報非対称性である。
・だからこそ啓蒙は権力に対する手段として歴史的に用いられてきたのである。
・ある発言を社会通念や道義的責任の名の元に非難するが内容それ自体と行為者の関係や認知状況、非難している人間がそれを知っているかどうかは一切無視されることが多い。分析は判断保留と二律背反を産み発話行為の批判能力と即時性を低下させる。これは(自分自身が)正義(だと考えるもの)に基づく断罪が快楽を産み出すからである。
・逸脱の快楽と従属の快楽。
・法とは彼らにとって社会通念を明文化したものではないのか?法的にはセーフだがマナーとしてアウトというのは法とマナーをお互いに否定し効力を打ち消し合う相反する概念として扱っている。「マナーを逸脱している人間に対しては法を犯してでも制裁してもいい。」
・マジョリティを神格化した宗教。多数派は常に正しく、少数派は常に誤りであると彼らは言う。意見の支持者は単なる数字以上の何者でもなくサンプル数/サンプルサイズや場/意思表明を行う人間の意思決定の機序に左右される。専門的知識の担い手は常に少数の人間であり、それらから多数の人間は利益を享受しているが、自説に都合の悪いその関係を不問にすることによって理論的綻びをなきものにし反証主義や可謬主義から自分たちの宗教を救う。
・行動の傾向を統計的に示す以外では数の大小は意味がない。統計的事実はある人の行動選択の正しさを裏付けるものではない。無関係である。経済成長や技術革新は統計的には人間の幸福度に寄与しないが、それは経済成長によって幸福を感じる人間がいないとか感じる事自体が誤りであることを意味していない。単に社会が最優先すべき目的でありそれに従って人々は社会、国家の進歩に無償(同然の)奉仕するべきだというイデオロギーに沿って制度構築をした時誤りになるのである。
仮定的作用因子の最小単位の特定はあくまで仮定であり、参考にはなっても決定要因にはならない。
・自己否定故に論駁不可能なドグマ、自己反駁的概念故に存在不可能な事象。
・ある教義を選択する人間の意志はそれら教義と同じパースペクティブに存していないため例えその人間が相反する教義を選択したとしても一つの理論プロブレマティークで扱っていない限りは矛盾しているとは言えない。
・言葉狩り、思想狩り帰謬法や反問によってその妥当性を確かめることを目的としてても非難され自己批判を自ら行うように強制される。
・ハードな科学を使用しなくとも認知的不協和、ダブルバインド、学習性無気力、ガスライティング、ブーメラン論法、レッテル貼り等ソフトな科学技術によってコスパ良く達成できる。
ハードな科学によるテクノロジー犯罪の可能性の盲信は願望の投影である。これらの嫌がらせは物的証拠が残りやすく、その存在を確証を持って主張しやすい。(その証拠が一切なくとも)
心理的圧力は主観的に決まるため物的証拠として扱われることはほとんどない。(事例:マヤコフスキーの自殺。自殺したという物的証拠はあるが、スターリンの弾圧冷遇によって自殺したという物的証拠は存在しない。)
自殺の一類型である社会による心理的殺人は自発的自殺の可能性が存在している状況でも遺書等によって明言されていない場合自動的に自殺として処理される。
・多幸感を得るのに他者を必要としない。他者との関係によって多幸感が生じるというのは神経伝達物質の分泌が他者を媒介して条件付けされているというだけなのである。
・個人的利益の追求と組織としての利益追求の混同。
・主観的心理作用は記述可能だが直接観察不可能である。
・制服…虚栄の表現物の統合。この第二の皮膚こそ限りなく透明に近い亡霊である。支配的機構が用意した無個性の亡霊のペルソナに自発的選択の建前を付加させる(注:対立の運動性を基本とする弁証法では決してない)ことによって契約の形骸化と強化を行う。実体がないため亡霊を除去することは困難である。(反証可能性の不在)
要求されるゾルレンの観念は我々の獲得物でも生得的所有物でもない。観念があまりにも曖昧で不安定なため、キャラ(特徴)付がスーツや軍服のようなペルソナの具現化やエンブレムによって固定化される。
・子供を産むことは集団自殺に無理やり参加させるような非道徳的行為に他ならない。人々は死に向かって堕落させられそれを避けることはできない。バックミラーを見ながら死という壁へとアクセルを踏み込むチキンレースに強制参加させられブレーキを踏み込んでいないかお互いの足元を監視しあいどれだけ速く少しでも前ヘ出ることができるように競い合う。死は嘲笑されると同時に憧れの対象であり、高度資本主義化される以前からシャーロンフロイデとして知られていた。こういった自殺は罪には(責任を)問えないが、それは別の機会に話すとして
快楽を得られないことよりも苦痛を感じる方が深刻で存在しないのなら快楽も苦痛も感じることが無いのだから存在することよりもしないことの方が望ましいという快苦の非対称の論理を許容するなら非人称的存在である生まれることのなかった人間を存在させたことに対する責任を問うことはできないが、ほとんどの親子関係の場合出産して終わりではない。そして親のいない恵まれた子供も社会的スティグマを課せられて疎外される。彼らは存在者の生に共時的に与えられる圧力や苦痛の発生原因でありそれを自己のポトラッチや実利を目的として行うために責任がある。(責任を撹乱するために被害者のためにもなる、被害者のためにそれをしたという論法はこの問題に限らず新興宗教や政治の領域でもよく使われる。)
産まれた時点ではなんの責任関係も生じていない人間を傀儡にし隷属させ、勝手に投資し(借金を与え)見返りという高利を期待しそれが得られないとなじる。利子とは時間に対する効用によって決められた対価(つまり時間を与えている)だが、親子関係(血縁関係がなくともいい)では逆に時間を奪いとっておきながら見返りや対価を要求する。子供を所有したからこそ子供に対して親は成果を残したかどうかに関係なく貸しがある。
出生の不遡及
一度生まれれば取り返しの効かない人間の生は現実性を主張する苦痛、人の利己的伸張のために関係の大半を占める非協力性、宗教的(しかも自我が残されることを全く認めることがない所謂「カルト」)
ストゼロを飲めば弱まり、痛覚で強まる現実性。観察と現在知られたデータに左右される仮説演繹法によって権威的影響力を持つ通常科学として提示される世界観が完全な別物に置き換わっても(そしてクリティカルな事実を見つけた少数の人々以外の大抵の人間にとって気づかない内に)我々の生活に関連するナマの事実であるまだ知られていない物理的あり方には全く干渉しない。天文学の学説が天動説、地動説、渦動説、ティコ・ブラーエの折衷的天動説のどれが支配的だろうと我々の生活は全く変わることがない。人間は生まれたその瞬間から強制的に進歩させられ、意識をそれと一致させるよう象徴秩序から求められる。知覚の閾値未満で周囲の現実が最適化され置き換わり、自己と他者の言語的表現と実際のあり方が捻じくれて交換される。意味を失った記号の骸殻が押し売りされ、その骸殻はコストの最小化のために主体性を簒奪する誰のコントロール化でもないコングロマリットによって奨励され、その絶対者に反対や無視、承認を行わない者は絶対者が場を提供する(恋愛/経済/地位/名誉の)闘争領域から(物資を絶たれることによって)疎外される。