歴史再現映像NOTORIOUS iPhone一つで作る映画制作奮闘記! -2ページ目

歴史再現映像NOTORIOUS iPhone一つで作る映画制作奮闘記!

話を作るのも台本として脚本化するのも殺陣を考えるのも演出を考えるのも撮影するのも編集するのもクラファンするのも何もかもが未経験からスタートした私が俳優さん達、素人の出演者を集めて映画監督に?
そんな私の奮闘記?

天文18年、備前国の戦国大名、宇喜多氏の家臣・花房職勝の子として誕生。花房氏は清和源氏足利氏の末裔で職秀は武勇に優れた剛直の士であったと伝わっており、永禄10年に宇喜多氏に従って足軽大将として出陣して以来、各戦に従軍した名将です。永禄12年には、備中国を巡って毛利元就の四男・穂井田元清と交戦し元亀元年には美作国に荒神山城を築いて国の経営を任され天正5年からは赤松、浦上と交戦、天正7年に主君・宇喜多直家の命令で美作の後藤勝基の三星城を攻め、これを滅ぼした。その後の宇喜多氏は織田信長、豊臣秀吉に従属。

職秀は誰にも憚ることなく諫言を行っていたことから、天正18年の豊臣秀吉による小田原征伐に職秀も従軍した際においても、石垣山城で能や演芸などを行って一向に攻城戦を仕掛けない秀吉に不満を持ち、能が催されている秀吉の本陣の前を通り過ぎる際に下馬するよう咎められると、「戦場で能をして遊ぶような愚かで腰抜けの大将に下馬する必要はない」と言い放ち、そのまま通り過ぎた。これに激怒した秀吉は職秀の主君・宇喜多秀家に対して職秀の処刑を命じたが、秀家が命を了承して秀吉のもとから退出したところで考え直し、秀家を呼び戻して処刑ではなく切腹に変更するよう命じた。秀家が再び秀吉のもとを退出したところを再び考え直して秀家を呼び戻し、秀吉に対しても物怖じしない剛毅な物言いをする武将を殺すには惜しいとまで言わしめた猛将でもありました。


慶長5年の関ヶ原の戦いでは徳川家康に与して活躍し、慶長19年から翌年にかけての大坂の陣にも子らと参加し、老骨に鞭打って輿に乗りながら采配を執ったほど戦に人生をかけた名将でした。


そんな花房若狭守職秀になれる??パーカーがコレです!

令和ではメジャーでない武将になって友人、知人共に驚かせてやりましょう🤣🤣🤣