今年は観察処分更新の手続きがまた行われる。来年の初めに決定が下されるはずである。この観察処分を外すことが、我々にとってアーレフ時代からの悲願である。観察処分があるからこそ、教団は拡大することがままならず、経済的にも困窮するのだという考えである。アーレフM派時代のプログ真実を見るで観察処分で生じる不利益として以下の項目をあげている。①危険団体のレッテルによる悪いイメージ②名簿報告による圧迫③立ち入り検査による圧迫④警察の監視も弱まらない⑤再発防止処分に進むおそれがある⑥破産特例法が適用される⑦結果として財政危機へそして、まとめとして観察処分除去のために社会融和が必要として以下の記述がある。以上のことから、このまま観察処分が続くと、教団の活動はがんじがらめに束縛され、救済活動は進まず、社会にも不安を与えるばかりで、誰にとっても多大な不利益しか生じません。この観察処分を除去するためには、裁判所で上記で示したような努力や、社会融和のための努力が不可欠です。現実的な見通しとして、次回の更新2006年2月は不可避だと思われますが、教団の社会融和努力や、尊師の裁判判決の確定等という社会状況の変化によって、次々回の更新2009年2月を阻止することは必ずしも不可狽ナはないと思われます。ここで注目しなければならないのは、観察処分除去のために社会融和が必要ということである。観察処分を外すのが目的であり、社会融和はそのための手段だということである。もし、観察処分が外れてしまえば、社会融和も必要ではない、ということだ。私はかねてより上祐代浮ェ麻原にとって代わるだけなら意味はない。と訴え続けてきた。麻原であれ代浮ナあれ、人間などそう大差ない。権力と権威を手中にすれば人間などたやすく変わってしまう。それが人間だからだ。だからこそ、教義を変えるだけでなく、組織の変革が必要だと訴え続けてきた。しかしながら、団体は一向に変革の意思を示さない。何故か。観察処分を外すのに、組織の変革は必要ないと考えているからだろうと思う。公安当局はひかりの輪が現在も麻原の影響下にあるのかどうかを監視している。麻原が危険なのだから、その支配下にある限り危険な状態は続く、と考えているからだ。その考えを逆手にとると、麻原の影響下でなければ危険ではない、ということになる。まり、上祐代浮ェ麻原に変わって信者の崇拝の対象になれば、危険ではない、ということになるはずだし、観察処分も外れるはずというのが団体の考え方であろう。その考え方には事件を起こさないし、起こさせないというひかりの輪設立の精神は微塵も感じられない。観察処分さえ外してしまえば、事件のことなどどうでもいいのだろう。では、本当に麻原の影響下から脱却できれば観察処分は外れるのだろうか。当局は、我々がまだ麻原の影響下にあるという証拠は今回提示できないだろうと思う。法的には、観察処分が外れても問題はないと思われる。しかし、私の考えでは、今回の更新処分においても団体の努力は徒労に帰するだろう。それは、上記において団体の本音を示したように、社会融和は手段であるということだ。観察処分を外しても、その後我々がどう変化していくのかわからない、という不安があるからである。もし外して、何か問題が生じた時には誰がその責任をとるのかということになる。公安審査委員会もそんな責任は負いたくない。だから法的にはどうであれ、外せないのである。日本は二度と戦争を起こさない国家を創るために戦力の放棄を宣言した。国体を護持するために天皇制と武力を引き換えにした。その結果として世界にも比類ない憲法9条が出来あがった。ここまでして初めて世界を納得させることができたのである。では、人々の我々に対する不安感を解決するためにはどうすればいいのか。もし仮に、再び麻原のような人物が教祖になったとしても二度と桝魔キることのない組織を創りあげたらいいのである。心が変わらねば、環境を変えたとて意味は無いと代浮ネら言うだろう。確かにそうだろう。しかし、心が変わるには時間がかかる。だからこそ環境を整えておく必要があるのである。事実、M派の頃からひかりの輪になっても数々の道義的問題があった。最近の奄ナも、脱会した元幹部が使いこみしていたらしい。この点においても組織をきちんとしていたら、このような事態は避けれたのではなかろうか。心が変わらずとも、環境を変えることで防げる悲劇はいくらでもある。だからこそ変えるのである。周りから束縛されるのではなく、観察処分があろうとなかろうと自分たちの手によってがんじがらめにしていくのである。もし、観察処分が外れたとしても、我々は観察処分に準ずる措置をとることを宣言し、実際に国公安調査庁や地方自治体警察、被害者の会や地元住民と、今まで以上の人物金に関する報告と立ち入り検査の権限を認めた契約を新たにしなおす。まり、団体規制法の枠組みではなく、民法上の枠組みで、今までの義務を自らの意思によって、事件を起こした我々の責務として、自らに課して行くのである。名簿に関してはプライバシー保護の観点からも、また宗教活動していく観点からも問題があるのであれば、その点だけは名簿ではなく実数だけの報告でご容赦いただき、その代わりに監査役を招き入れ、報告の虚偽がないかをチェックする体制を整備する。義務が果たせない場合の罰則規定まできちんと契約に盛り込む。監査役の成り手がないなどと言い訳を以前していたが、成り手がないなら公募しろ。事情を説明し、我々が生まれ変わるための協力を願い出れば、正義感溢れる弁護士さんも出てくるだろうと思う。ここまでしたら観察処分は外すことができるだろうと思う。逆に言えば、ここまでしなければ観察処分は外れないし、外すべきではない。小手先の綺麗事はもういい。詭弁や言い訳も聞きあきた。自分たちの血肉を削って、本気の反省を社会に示せ。