今回の選挙で民主党が大敗するだろうことは誰の目にも明らかであり、今回の結果について特記するようなことないと思われます。筆者も、そのことに深く触れるつもりはありません。その代わり、特に思いを馳せたのは、民主党は民主党でも、民主党の今日までの栄光と陰です。この辺りから今回は触れていきます。
民主党が設立されたのは、平成8年のことだったそうです。新党さきがけを離党した鳩山由紀夫、菅直人らで結党し、最初は57名だったそうです。その後の平成10年、民政党、新党友愛、民主改革連合が合流した頃から、二大政党時代を標榜し、党員拡大路線を推し進めます。平成12年衆議院選挙で127名、平成15年衆議院選挙で177名、小沢自由党との合併後は204名となりました。平成17年の時は小泉劇場の前に113名と足踏みはしたものの、後戻りは許さず、平成19年の参議院議員選挙での与野党逆転を経由し、遂に前回の衆議院選挙で308名の当選者を輩出し、日本新党以来の政権交代を成し遂げました。今となっては絵に描いた餅になってしまいましたが、牽引力となったのが「マニフェスト」です。コンクリートから人へというスローガンの元に、高速道路無償化、子ども手当等々を高らかに謳っていました。だが、その「マニフェスト」が内部抗争を生み出していきます。あくまで「マニフェスト」実現を譲らない小沢グループと、財政再建を図るために見直しを計ろうとする反小沢グループで内部抗争の兆しが出てきます。特に、菅総理成立時に閣僚から小沢グループは一掃され、野田内閣時に小沢グループがマニフェスト違反とする消費税増税路線を推進するに至り、党内抗争が決定的となり、これ以降、離党者が続出し、民主党は衰退の道を辿ります。松木謙公、石川知裕(後に新党大地・真民主結党)、内山昇、渡辺浩一郎(のちに新党きづな結党)ら14名の離党を契機に、その後も離党者が後を絶たず、消費増税関連4法案を含む社会保障・税一体一体改革関連法案採決後に至って、遂に小沢グループら55名が離党します。このような中での衆議院議員選挙の結果、民主党の議員数は57名と、改選前の約4分の1になってしまいました。今だ、海江田党首に代変わりはしてみたものの、復活の兆しは見えていません。
以上を踏まえてみれば、似たような過去を辿ったある組織を思い出させないでしょうか。今回の選挙でも日本維新の会なる政党が躍進を果たしていますが、まさに明治維新の起こる直前の幕末期、京都を中心に世間を轟かせた新選組という組織がありました。今度はこの新選組について振り返ってみます。時は幕末1862年、清川八郎が上洛する将軍警護のための浪士組の隊員を募集していました。この中に、試衛館で武芸に励む近藤勇らの一派も加わります。しかし、浪士組は清川の策略であったことが京都到着後に発覚し、浪士組は江戸に引き返しますが、試衛館一派と芹沢鴨らの水戸派は京都に残留し、京都守護職、松平容保預かりの京都見回り隊として発足します。これが壬生浪士組、後の新選組です。この時はまだ隊士36名余だったようです。八月十八日の政変と、最初の内部抗争、芹沢鴨らを粛正後、近藤局長、土方副長を中心とする新体制となってから歴史に名を残す活躍が始まります。京都市中の尊王攘夷派を容赦なく斬り殺し、尊王攘夷派の志士たちは夜寝る前、今日も生き延びることができたとほっとするほどであったといいます。その最たるものが池田屋事件と禁門の変です。ただ、この活躍が人気を呼び、一次募集、二次募集を得て、200人を超える一大集団へと変貌します。しかし、ここで刮目しておかなければいけない点があります。新撰組を支えた「局中法度」という名の隊規のことです。身分を問わず入隊可能としたため、支えとなる規則が必要とされ、士道不覚悟、金策禁止等を謳ったのです。しかし、先の民主党のマニフェストがそうであったように、この隊規が相互不信と内部抗争を生み、山南敬助、武田観柳斎、河合耆三郎らを初めとする45名の重要な隊士を切腹、暗殺等で粛正する羽目になり、結果、隊の弱体化を招いていきました。遂には戊辰戦争の最終決戦地、函館五稜郭での敗北をもって完全な最期となります。その後の明治政府では、朝敵とされ、新選組の話題は封印されました。
写真は、京都壬生にある新選組最初の屯所跡、八木邸の入り口付近です。右の方の土産物屋辺りが芹沢らの宿屋があったところだそうです。今でも芹沢暗殺時の刀傷が残っています。
冗長となりつつあるので、次で一旦締めくくりです。しかしながら、まだ栄光の部分のただ中にあるようで、ここで触れるのは賛否両論かもしれない、AKB48を含むアイドルグループ郡を取り上げます。まさかご存じない読者はいないとは思いますが、しばらく復習のつもりで読み進めて下さい。 今では国民的アイドルとも称されることもあるAKB48ですが、その生い立ちは平成17年、秋元康が「会いにいけるアイドル」を目的に第1期生を募集したことに始まります。この時のメンバーは前田敦子、板野友美、小島陽菜、高橋みなみ、峰岸みなみら24人でした。第1回公演時の観客も関係者を除くと7名だったそうです。しかし翌年には第2期募集を開始、19人を加え、44名(篠田麻里子は途中加入)になります。大島優子、秋元才加、梅田彩加らです。この頃から次第にメジャーとなり始め、初シングル「会いたかった」が脚光を浴びます。さらに3期生が追加され、チームA、K、Bが揃います。柏木由紀、渡辺麻友らが加わります。その後、結成当初から行っている専用劇場の相当数の公演に加え、CD購入で参加できる握手会、選抜総選挙、選抜じゃんけん大会等の企画も功を奏し、アイドルグループを語る上でAKB48抜きでは考えられないような現状を迎えました。そして遂には平成23年、平成24年と2年連続で日本レコード大賞を受けるまでになっています。
写真は東本願寺内にある太鼓楼と呼ばれる建物です。壬生から屯所を移した際、北集会所と、この太鼓楼を使用していたそうです。北集会所は今はありません。
さらには、新選組も隊士が増えたことで屯所を東本願寺に移したように、AKB48のみならず、SKE48、SDN48(現在は解散)、NMB48、HKT48その他の姉妹ユニットも結成され、そのシステム運営は全国に移っています。何だかんだでメンバー数は正規メンバー201名、研究生176名の計377名(12月1日調べ)までに膨張してきています。しかし、その裏でグループの影が漏れ聞こえてきます。すなわち、実力と関係ないところでの差別ではないかとの疑念を生む、一部の関係者の、一定メンバーへのごり推しと、それ故のそうでないメンバーの脱退です。前者とされたのは例えば、前田敦子、指原莉乃、松井珠理奈、最近では島崎遥香であり、後者とされたのは例えば、大島麻衣、平嶋夏海、佐藤夏希、増田有華です。ちなみに今年のグループ脱退者はNMB48の大量脱退もあり46名だそうです。そして、その差別化の最大の査証とされたのが、先の民主党のマニフェスト、新選組の隊規にも似た、設立当時から設定されたとされる恋愛禁止のルールです。真偽の程は不明ですが、このルールが適応されなければいけないのに適応されないメンバーと、されたメンバーの扱いの差が目に見える形で現れているようです。つい先般、秋元康はそんなこと言ったとか、言わないとか話題になりましたが、もし、運営側の対応が見誤れたままで放置されれば、一気に下火に落ちかねない状況を孕んでいるように、かつて一時期、アイドル全盛期にアイドルに傾倒した筆者には思われます。
それでは、今年最後の更新にしては気分が晴れるような記事ではなかったかもしれませんが、その辺りは水に流してもらい、是非ともいい年をお迎え下さい。

