g-Diehardの憲法改悪に反対するブログ

g-Diehardの憲法改悪に反対するブログ

安倍政権の推進する安保政策、急激に進む国家主義と憲法改悪の流れに、断乎反対する。
I am strongly against the security policy that the Shinzo Abe Cabinet promotes and Nationalism.

Amebaでブログを始めよう!
僕なりの参院選への評価
参院選が終わった。きちんと調べてはいないが、おそらく国政選挙では史上最低の投票率ではなかっただろうか。わずか48.8%である。実際の史上最低は、1995年の45%ではあるが、この年に阪神淡路大震災があったことを考えると、その分は割り引かねばならない。
まずこの超低投票率に愕然としたということが、参院選第一の感想である。消費税増税を公言しての選挙で、この低投票率になるということが、僕にはまったく理解できないからだ。
そして参院選最大の焦点は、改憲問題だった。
この点について、多くの報道が「改憲勢力は2/3を割った」としているが、本当にそうだろうか。
今回、確かに自民党は改選議席数を下回り、単独過半数も下回った。しかし歴代参院選での獲得議席数を見てゆくと、自民党の最低は40弱、最高は70弱であり、今回の獲得議席数は、決して少ないわけではない。明らかに「本来の実力」より、やや多い議席を得ている(添付折れ線グラフ参照)。
確かに改選議席数は9議席も下回っているが、これまでの選挙の動態を見ていると、今回改選された議員の選挙時(2013年)が、「出来過ぎ」の選挙だったのである。つまり自民党は負けていない。むしろ消費増税を掲げ、さらには年金問題での批判、北方領土問題での退歩、辺野古問題などを抱えてのこの獲得数は、驚くほど多いというのが僕の評価である。
肝心の「改憲勢力2/3」を検討してみよう。
今回の選挙では、自民+公明の与党で71議席。そして自民以上の極右改憲派の維新が10議席を得ている。これで合計81議席。改選数からみた2/3維持の条件は、85議席であるが、この時点でわずか4議席足りないだけだ。
巷間噂されるように、N国党が極右なら、安倍政権に賛同するだろう。これで差はわずか3議席。
2/3を割り込んでいるからといって、「これで改憲は遠のいた」と楽観はできないというのが、僕の評価である。僕が安倍の立場なら、今回敗北した国民民主を取り込む工作をするだろう。
もちろん、野党連合はある程度頑張ったと評価できる。れいわ新選組の議席獲得は、今後の政治動向を変えるだけの潜在力を感じさせる。山本太郎がたいへんな数の比例票を集めたことを見ても、明らかに、既成政党に不信を募らせる国民、わけても若年層が彼らに期待をかけたことがわかる。
だから野党勢力の全面敗北だとは思わない。
しかしここ3回の参院選での、「野党連合」の議席獲得数を冷静に見てみると、野党連合がまだ成らなかった2013年の26議席から、ぐっと飛躍した2016年の40議席に比べても、今回の獲得議席数はかなり落ち込んでおり、むしろ沈滞傾向と評価せざるを得ないのである(添付棒グラフ参照)。
【この先の改憲への動き(予想)】
おそらく安倍は、臨時国会までに改憲勢力の拡張を狙った工作をおこなうだろう。その準備が整えば、臨時国会での審議、発議という途をたどると予測できる。遅くとも来年の通常国会では、発議を目指すだろう。もう少し具体的に考えれば、安倍にとってベストのタイミングは、来年の五輪の前か直後。五輪の盛り上がりに乗じて、というタイミングだと予測する。
そしてもしも国民投票に至るならば、衆院を解散して「同日投票」に打って出るだろう。今年の衆参同日選を避けたことにより、ここで切り札を使えるということが、安倍を利することは疑いない。
それゆえに、なんとしても発議を止めるだけの言論・行動を盛り上げることに、全力を注がなければならないだろう。発議されてしまえば、安倍は切り札を使える。そして国民投票でのハードルは、投票総数の過半数という、非常に低いものだということを改めて思い出しておきたい。
まとめておこう
(1)今回参院選での自民党の獲得議席数は、本来の自民党の実力程度であり、決して自民党敗北とは言えない。
(2)改憲勢力が2/3を割り込んだのは事実だが、その不足数はわずかであり、決して楽観できない。
(3)野党連合はある程度頑張ったが、獲得議席数からは「勝利」とまでは言えない。
(4)れいわ新選組の議席獲得は、将来への潜在力を示しており、期待するところ大である。
(5)改憲への動きは決して楽観できず、今後、発議を止めるための国民的な言論と行動を盛り上げなければならない。
「安倍は本心では改憲などやる気はない」という見方もある。しかし僕はこの見解を取らない。なぜならば安倍が総理大臣に就任以来、やってきたことは首尾一貫して「軍事優先の国家主義路線」であるからだ。外交で失敗しようが、内政で失敗しようが、安倍にとってはその方がどうでもいいとしか思えない。国民はいつでも騙せる、コントロールできると思っている節がある。
安倍の目標は常に「軍隊を持つ国」、「中央集権的国家主義」であることは明白だ。
そして安倍に残された最後の目標こそが改憲であり、「偉大な総理大臣になること」であるのは、僕から見れば明白である(もし僕が大馬鹿で政治を見誤っていたなら、それに越したことはない)。
消費税10%の対策として、さまざまなバラマキをおこない、国民の不満を外国への対応で誤魔化しながら、事を進める。それが安倍の汚らわしい策だと思う。
【短期的=1年以内】
①年金財政悪化が公表され、消費増税が正当化される
②アメリカとの貿易交渉での大規模な譲歩
③ペルシャ湾有志連合軍への自衛隊参加
④韓国とのさらなる関係悪化
⑤憲法改悪。一部野党を巻き込んで改憲案を審議し、最悪の場合、国民投票に至る
 
【中期的=数年~10年】
①自衛隊から戦死者が出る
②自衛隊での研修が、教育課程で必修化される
③学校教育、特に道徳、社会(歴史)、国語などへの国の介入が強化される
④株式市場に対する公金の投入が限界に達する
*市場が機能麻痺の兆候を示しはじめる
*株式市場の信頼度が低下し、「日本売り」が加速してインフレが激化する
*株式市場に投入した公金が回収不能となり、膨大な赤字が計上される
⑤富裕層と貧困層の分裂がさらに激化する
*一部でスラムが現出する
⑥自己責任論が先鋭化し、社会保障がさらに削減される
⑦差別主義、排除主義が激化する
⑧産業競争力が低下し、国民一人あたりのGDPで韓国その他の新興国に追い越される
*東~東南アジア諸国へ、日本人が「出稼ぎ」に行くことが珍しくなくなる
⑨憲法が改悪された場合は、何かの理由で緊急事態宣言が発令される
 
長期的【10年~】
①米軍と自衛隊が、世界各地で紛争に介入するのが常態となる
*兵員の不足から、事実上の徴兵制が始まる
②少子化・人口減少がますます顕著となり、社会システムに影響が出始める
③超富裕層による資産の海外移転が顕著となる
*中間層と一部富裕層は貧困層へと転落
④教育や基礎学問(科学)の水準低下が顕著となる

 安倍は、どうしても憲法改悪を選挙の争点にしたいらしい。それだけ安倍の妄念・執念がすさまじいという証だろう。確かに日本国憲法といえども、不可触の聖典ではない。もしも変えるべきところがあれば、議論し、変えたってかまわない。僕は、さしあたりそんな必要はないと思うけどね。

 

 しかし安倍や自民党の憲法改悪にだけは、乗ってはいけない。絶対的に応じてはいけない。彼らと、国会の場で議論もしてはいけない。安倍政権によるこれまでの国会運営を見ていればわかる。もしも議論に応じたら、誤魔化し、はぐらかし、恫喝を繰り返してまともな議論をせず、時間が経過したところで「議論は尽くされた」と、強引に多数決にもってゆくに決まっている。

 

 だから今回の参院選で、改憲勢力=自民、公明、維新(たぶん国民民主の一部もそうだろうと僕は疑っている)には、2/3を握らせてはいけないのだ。

 

(写真を見ながら読んでいただければ、よりわかりやすいと思う。)

 安倍私案の9条の2 第1項は下のように記されている。

 

『1 前条の規定は我が国の平和と独立を守り、国および国民の安全を保つために必要な自衛の措置をとることを妨げず、そのための実力組織として、法律の定めるところにより、内閣の首長たる内閣総理大臣を最高の指揮監督者とする自衛隊を保持する。』

 

 そもそも「必要な自衛の措置」とは何なのかが、この条文だと全然わからない。それは、安倍政権がごり押しした「平和安全法制」に書いてある内容と同じだと考えて良いだろう。

 

 平和安全法制は多くの法律の集合体であるが、それを安倍が改悪したのは、夙に知られているとおり、『集団的自衛権』を発動するためである。もっと具体的に言えば、アメリカ軍が攻撃されたときは、自衛隊もアメリカ軍とともに交戦できるようにした法律制度である。

 この法制では、重要影響事態、存立危機事態、武力攻撃事態などの状況が想定されており、それらの状態の際に、自衛隊は米軍とともに行動したり、米軍への支援や便宜供与ができることになっている。

つまり日本が直接的な侵略にさらされていなくても、アメリカ軍が攻撃を受ける、ないしはアメリカ軍に攻撃が迫っている状況下 で、自衛隊が戦闘行為を開始することが、すでに可能になっているのである。

 またこの法制では、国連が統括しない人道復興支援やいわゆる安全確保等の活動に、自衛隊が参加することができるようになっている。

 

 これが日本国憲法の限界とされてきた「専守防衛の際の武力行使」を逸脱することは自明であろう。

 

 つまり日本はすでに、「米軍とともに自衛隊が戦争できる」状況に、法律上はあるわけだ(この法律が憲法違反かどうかは、別に議論するとして)。

 

 安倍の改憲案の9条の2第1項で『国および国民の安全を保つために必要な自衛の措置をとることを妨げず』と述べられているのは、上記のような集団的自衛権行使が可能という考え方を前提にしていることは明らかである。つまり政府が必要と認めれば、憲法上も武力行使が可能になるというのが、安倍改憲案の本質なのである。「何も変わらない」なんていう安倍のウソに騙されてはいけないのだ。

 

 しかも上記の重要影響事態、存立危機事態、武力攻撃事態そのものが、定義的に明確というわけではない。きわめて恣意的なものなのである。つまりこんな憲法改悪がなされたら、安倍はいつでも、自衛隊を戦闘に投入できると言うことになる。

 

 「平和安全法制」の中には、『存立危機事態における捕虜取扱い法の適用』なんてことまで含まれる。つまり政府が存立危機事態だと言えば、自衛隊は戦闘を始められ、その場合の捕虜の存在まで、すでに念頭に置いていると言うことなのだ。

 

 安倍私案条のの第項は、さらにひどい。

 

 条のの第1項で明記された自衛隊は、「国会の承認その他の統制に服する」とある。「その他」って何だよ。こんないい加減な憲法条文があるものか。国会以外に、誰の統制に服するのか。

 

 言うまでもなく、自衛隊の最高指揮官は、内閣総理大臣である。現在の自衛隊でも、仮に外国からの攻撃があり、それに対処する必要が生じた場合、総理大臣が防衛出動を命じる。ならばなぜ、安倍私案では明確に「総理大臣」と書かずに「その他」と書いているか。

 

 それはやはり集団的自衛権の行使が念頭にあるからだ。そして現在の日本で集団的自衛権を行使すると明確にされているのは、アメリカだけだと言って良い。安倍自公政権がごり押しにごり押しを重ねた、天下の悪法による集団的自衛権を行う場合、自衛隊はおそらくアメリカ軍の統制下に入る。つまり日本の自衛隊でありながら、アメリカ軍の統制を受けることになる。安倍の改憲私案は、明らかにそのことを隠した条文なのだ。

 

 これは自民党の改憲草案でも同じである。

 

 トランプが、先のペルシャ湾タンカー攻撃事件で「アメリカ軍がなぜ他の国のタンカーを守るのか」わめいたが、要するにトランプ(アメリカ)は、日本の自衛隊をアメリカ軍のパシリとして使いたいのだ。

 

 それにしても、アメリカ自身の利益のために、さんざん、中東、ペルシャ湾岸地域に戦争の種をまき、戦争を仕掛けておきながら、「なぜアメリカ軍が他国の船を守らなきゃならんのだ」とわめくトランプの嘘さ加減には、失笑するしかない。それはさておき。

 

 そしてさらに注意すべきは、彼らの改憲案に、日本国憲法には全くない98条、99条の「緊急事態宣言」が含まれることだ。

 

 これまで多くの人が指摘しているように、この緊急事態条項こそ、国民の人権を抑圧し、奪い、国家統制の体制を作るための恐るべき条項なのだ。

 

 自民党草案第98条では、戦争だけでなく「内乱等による社会秩序の混乱」や「自然災害、その他」でも緊急事態宣言ができることになっている。本来、こうした宣言は人権を抑圧する可能性が高いだけに、発動要件を具体性をもって限局しなければならないが、「等」や「その他」を用いて、どうにでも解釈できる曖昧な内容としているのは、総理大臣による恣意的な判断を容易にするためのものだと考えていいだろう。

 

 つまりこの改憲案が現実のものになったら、総理大臣はどんなことであれ、ごく恣意的な基準で緊急事態宣言を発動することができてしまうのだ。総理大臣が「緊急事態だ」と言えば、そうなってしまうのだ。その上、ひとたび緊急事態宣言が出されたら、いくらでもその期間が延長可能である。おまけに衆議院選挙は凍結されるから、あとは政権与党と内閣の思うがままになってしまうのだ。

 

 こんな恐ろしいことはない。

 

 まったく別件だが、原子力緊急事態宣言を見ればわかる。知らない人も多いが、今もなお原子力緊急事態宣言は出たままだ。だから年20ミリシーベルトも被爆する場所に、帰還しろと強制され、8000ベクレルもの汚染土を、全国で工事用土として使おうなどという蛮行がおこなわれているのだ。

 

 自民党改憲案では、非常事態宣言が発令されている間、国民は内閣が出す指示・命令に「従わなければならない」し、基本的人権も「最大限尊重する」とされてはいるものの、「冒してはならない」とは書かれていない。つまり尊重するけれど、制限、あるいは抑圧しないとは言っていないと、言い訳できてしまう条文になっている。こういう解釈ができるものは、政治権力によって必ず利用される。それは歴史が証明しているではないか。

 

 憲法を議論するなら、まず、嘘のないデータ、嘘のない社会分析をベースに、「変えることありき」ではなく、根底の理念からきちんと議論しなくてはならない。その上で、「現在の憲法ではどうしてもだめだ」ということを確認した上で、改正案の条文が緻密に議論され、国民に、メリット、デメリットも包み隠さず知らせた上で、国民投票に至らねばならない。

 

 祖父から勝手に受け継いだ「妄念」だけで憲法を変えたい安倍と、国家主義勢力の欺瞞に満ちた改憲の動きにだけは、絶対になびいてはならない。

 

先週のことだったか、安倍は「ちゃんと審議する政党を選ぶのか、審議しない政党を選ぶのか」と言い放ったそうだが、ここ数日のネット番組や記者会見、テレビ番組での与野党党首による討論を見ていて、改めて、白日の下にさらされたのが、「安倍は、まともな議論がまったくできない(しない)」ということではなかろうか。
 
問われたことに、きちんと答えない。これは国会審議での態度と全く同じだ。自分の思想をまともにしゃべったら選挙に都合が悪いようなことを問われると、全然関係ないことを言い出して、最後には「印象操作だ」とキレ始める。
あるいは問われたことと関係のない、他者の批判を延々と繰り返す。
 
そういえば公示日の今日、街頭演説でまだ民主党のことを言っていたな。
 
ひどいのは、テレビ番組で、他のすべての党首が発言の時間制限を守り、司会進行に従っているのに、安倍だけはルールを守らず、声を張り上げて「関係のないこと」をしゃべり続け、司会者が注意しても全く聞く耳をもたなかったことだ。
 
話し合いをするとき、その場の発言ルールを守らねばならないことは、小学生だって知っている。
 
また、相手の発言を静聴し、論理と理性をもって反論するのが、討論の基本中の基本だ。
 
都合が悪くなりそうだと、話をすり替え、大声を張り上げ、ルールを無視して発言を続ける安倍の様子を見ていると、まるでわがままな幼稚園児のようで情けなく、恥ずかしい。
 
あの様子を見ているとおそらく安倍はまともに物事を覚え、理解し、自分の中で昇華させて自分自身の思想や論理を構築するということを全くできない、または全くやる気がないのだと思う。おまけに自分自身が最高だというプライドだけは超がつくほど高いのだろう。
 
だから自分の中に入りきらないことを問われ、議論を向けられると、議論そのものを押しとどめて、自分がしゃべりたいことだけを大声でしゃべり続けてしまうのだ。
 
こういう人物が、憲法を変えようとしている。こういう人物に、あとどれだけ日本を委ねるのか。
 
参院選は公示された。
天皇の退位が迫ってきた。4月30日には、テレビやマスコミは「平成最後の日」、「天皇退位」一色に染まるんだろうなと思う。で、5月1日には、「令和最初の日」だと騒ぐんだろう。
 
どうせ芸人や似非文化人や、反知性主義の知識人がテレビに登場して、ワアワアとお祭り騒ぎをしたり、ありもしない「伝統」を吹聴したりするんだろう。個人的にはかなり憂鬱な気がしていて、そんなくだらないテレビを見るなら、ドリフターズかクレイジーキャッツでも見ていた方が、はるかに文化的だと思う。
 
まあ、僕個人の好みは別にしても、平成の終わり、令和の始まり、天皇の退位や即位に対する日本人の姿は、あまりにも無邪気すぎて、唖然とする以外にない。
 
天皇の行く所、それこそ黒山の人だかりとなり、バンザイバンザイと叫び、「日の丸の旗の振り方」を指導する者まで現れ(おそらくその方面の団体構成員だと思うが)、幼稚園児に深々とお辞儀をさせ(強要し)、カメラやスマホを構えて写真を撮り、「撮れた、撮れた」とはしゃぎ回り、「この写真は家宝です」と涙ぐみ、「こっちを向いてくれた!」と顔を赤くして興奮する。
 
そんなテレビ画面を見ていると、その無邪気さ、幼児性に言葉も出ない。
 
日本人の3/4が、天皇や皇族に親近感を抱いているという世論調査もある。しかし彼らのほとんどは、「バンザイバンザイ」と叫ぶ自分たち自身が、天皇やその一族の人権を奪い、人として抑圧していることなど、意識の片隅にすらないだろう。
 
そして悪辣な政治屋が、自分たちの利を図るために天皇を最大限に利用している、あるいはしようとしていることも知らず、知ろうともしない。
 
天皇の歴史的経緯も、近現代史における役割も、戦後の位置づけもよくわからないままに幼児のように崇拝するのは、ある種の悪である。子どもの無邪気さは無条件に善であるが、大人の無邪気さは、時に「意識された悪」よりも悪い。「知らないこと」は免罪符ではない(これは僕も、肝に銘じなければと思う)。
 
僕個人は、天皇制というシステムはやめるべきだと考えているが、今すぐ止めろとか、打倒しろなどとは思わない。こういうことは、長い時間をかけてすべての人が考えてゆけば良いと思うし、そうでなくては絶対にうまくゆかない。それに僕は、天皇が私人として、たとえば伊勢神宮の祭祀者として存続することにまで反対はしない。それは支持したい人たちだけが関わることだし、天皇が自らの意思でおこなうことだからだ。
 
僕は、自然科学者としての昭仁氏を尊敬しているし、天皇として現在の憲法を遵守しようとする態度には共感を抱いている。安倍晋三なんぞより、100億倍も信頼できる人物だとも思う。けれどもそのことと、制度としての天皇制への評価は別問題だ。
 
ある意味、天皇の一族は~制度上やむをえず、あるいは必然的にそうなったにせよ~「いい人たち」だと思う。無邪気にバンザイバンザイと叫んでいる人たちは、自分たちが大好きな「いい人たち」を、自分たちが抑圧しているということを、まじめに考えるべきだろう。
 
そしてその「いい人たち」を利用して、国民を国家主義の下に支配しようとする、悪辣な連中がいることを知るべきなのだ。

毎日新聞のWEB版によれば、政府の11の府省で、過去2年分の大臣日程が「不存在」として、開示されなかったという。しかもうち7府省では、「日々廃棄」だという。

 

記事は、「政府は、重要な記録を1年未満にしていた森友学園問題や自衛隊日報問題を受けて1712月に公文書ガイドラインを改定し、1年未満にできる記録を▽日程表▽コピー▽意思決定の途中段階のもの――など7類型に限定。重要情報を含む場合は1年以上にしなければならないが、府省は大臣日程を機械的に1年未満にしている可能性がある。」としているが、この話はきわめてご都合主義、「形式的」な事だと思う。

 

どういうことかというと、たとえば大臣の日程などは、後日振り返らなければならないことが、しばしばあるはずだからだ。

 

「いつ、どこで、だれと、なにを」したのか、全く記録が残っていなければ、実際に仕事をおこなう場合に困ることは多い。そんなことは、民間企業でもどこでも、みんな経験していることのはずだ。ましてや一府省を総覧する大臣が、過去の日程をすべて消し去るなんてことをしたら、あとで非常に困るはずである。

 

それを日々廃棄するということは、つまり「大臣の日程が公式には残らないようにしたい」という意思が働いているということだ。

 

政府が決めた上記の「公文書ガイドライン」は、おそらく、かつては保存されていた日程などの文書を「残さなくていい」ようにするためのものであり、「森友問題などを受けて、(公式には)残さないようにした」というのが真相ではなかろうかと、僕は推測する。「保存期限が1年未満」なら、毎日廃棄しても何の問題もないのである。

 

おそらく、大臣日程などは個々の職員の手元や、大臣自身の手元に「私的記録」として残っているに違いない。しかしそれは公文書ではないから、開示請求があっても、開示する必要はないわけだ。

 

こうしたことを受けて、市民団体は毎日開示請求を上げるそうだが、果たしてどうなるか。僕たちはよく考えねばならない。公僕として選ばれた政治家が、自己の公的記録を一切残さず、開示しないということが許されるかどうか。彼らの活動は、国民の税金を基礎にしており、彼らは国民への奉仕者なのだが、今やそうした基本原則もまったく意識されることなく、政治屋どもは支配者のようにふるまっている。

 

これまでに何度も言ってきたが、今一度、声を大にして言おう。国は国民のためのものだ。隠蔽はすなわち国民全体への背信行為だ。

政治のブラックボックス化を断乎許さない

 

ある新聞社が、過去一年の官邸と官僚の面会記録の開示を求めたところ、「記録が存在しない」という回答だったという。つまり官邸と官僚の面会記録は、年経過しないうちに完全廃棄されたか、そもそも作成されていなかったようなのだ。少し前のことになるが、官邸が官僚に対して「メモを取るな」、「記録を残すな」と指示をしたというニュースがあったが、まさにその通りに実行されているということだろう。

 

真に怒りがわき上がってくる。

 

以前、特定秘密保護法が成立する前後にも、何度も同じ主旨の文をSNS上に出したことがあるが、今一度、繰り返しておこう。

 

そもそも国の三権にかかる事柄は、すべて国民に属するものなのだ。三権を担当する国会・内閣・裁判所は、国民の代理執行者であり、彼らは、あらゆることを憲法と法律に基づいて執行する義務を負っている。

 

行政にせよ立法にせよ、その意思決定プロセスから執行プロセス、その結果に至るまで、すべてが国民の所有物なのだ。今回の話は、その所有物を、内閣が勝手に消し去った、あるいは残さなかったということであり、国民に対する明らかな背任行為である。

 

それは「国権の執行にあたっては、ただちに公開できないことがある」というようなレベルの話ではなく、あらゆるプロセスの記録を残さないという、職務上の義務違反であり、権限の逸脱である。何がどのような過程を経て決定され、執行されたのかがわからないものに、国民の税金が投入されているのである。これは政治のブラックボックス化そのものだ。

 

三権の長であっても、彼らは国民から執行の代理を仮託された者に過ぎない。決して支配者ではないのだ。にもかかわらず、まるで支配者であるかのように振る舞い、国民から見えない形であらゆる意思決定をするなどということは、断乎許せない。

 

この問題は、絶対に看過してはいけないものだ。 

 

また安倍政権の年間で、56億円もの官房機密費が使われ、そのほとんどは領収書すら存在しないという。これは去年3月の「赤旗」が伝えたニュースである。年11億円余り。毎週2100万円、一日当たり300万円が支出された計算だが、これはすべて国民の税金である。

 

たった一日で、非正規雇用労働者の年間手取りより多い額が、二日で正規雇用労働者の平均的年間所得より多い額が、どこかへ消えていったわけだ。

 

政治をおこなう上で、どうしても支払先を明示できない金が必要な場合もあるという可能性は、認めてもいい。しかしたとえそうした支出であっても、誠実に記録を残し、たとえば50年後には必ず公開して、政治プロセスの検証に供されるべきなのだ。もちろんそれは金の使い道に限ったことではない。

 

安倍や麻生や菅はどうやら勘違いしているようだが、内閣総理大臣といえども、支配者ではないし、全権を白紙委任されているわけでもない。彼らは国民のために行政権を預かる、管理者であり執行者に過ぎないのだ。それが支配者面して、税金をつかみ取りのように使うなどということが許されるはずがない。

 

この国の行政は、どんどんブラックボックス化している。それを防げるのは国民だけだが、その国民に正しい情報を与えないという方針は徹底して守られ、ほとんどのマスコミが事実すら伝えようとしない。このまま進んだら、安倍自公政権は何から何まで見えなくし、好きなだけ税をむしり取れるようになってしまう。

 

これは税の使途のブラックボックス化だ。

 

こんなままで、いいのか!

徴兵制の嘘に騙されるな

 

徴兵制については、かねてから国家権力側にある政治屋が、「最近の武器兵器はハイテクに基づいており、頭数だけ揃えればいいというもんじゃない」という主旨の発言をしている。それとは裏腹に、安倍の腹心の政治屋や、政権べったりの「学者」によって、徴兵制が言われることも多く、最近では三浦とかいう似非学者が、「平和のためには(防衛についての)国民の当事者意識が必要である。そのためには徴兵制が必要である」(( )内は筆者補足)という、なんとも珍妙な理屈が、大新聞にデカデカと紹介されていた。

 

はっきり言おう。今、徴兵制を称揚したり推奨したりする連中の言を信用してはいけない。彼らの目的は、国民を「徴兵制」によって従わせることであり、決して、国民の幸福や平和を望んでいるわけではないからだ。

 

そもそも軍隊とは、徹底した階級社会である。そうでなければ成り立たないからだ。かつて石破が、「徴兵拒否したり、命令に従わなかったりした場合の刑罰が必要」で、「他国では最高、死刑というのもある」という主旨の発言をしたことをみても明らかなように、兵個人とその家族の生き方や、信条や意見などを、徹底して抑圧するのが軍隊の本質である。

 

三浦の言う「当事者意識」がどんなものかは知らないが、そうした徹底的な個人の否定でしか成り立ち得ない軍隊の中で、そのような「意識」が形成されるなんてことが、嘘っぱちなのは明らかではないか。

 

三浦が言うように、徴兵制こそが国民の当事者意識を生み、社会に平和をもたらすなら、徴兵制のない多くの国の国民は、政治や防衛について、当事者意識を持っていないのかねと揶揄したくなる。実際、徴兵制のある国の方が、圧倒的に少ないのだ。

 

むしろまともな当事者意識を醸成したいなら、基礎教育から基本的人権と歴史について深く学習させることが第一だろう。それをすっ飛ばして、徴兵を称揚するのは、学者として「あかん」レベルというだけでなく、権力者とつながる、何かウラがあるとしか考えられない。

 

一部の連中が言う、「今の軍隊はハイテクだから、頭数だけ揃えても意味が無い」という言いなしも、実はウソである。まあ、戦闘機を操縦するような兵は、それなりに高度な教育、あるいは教育を受けるに足る能力が必要かもしれない。しかし一方で、現代の武器はきわめて使用しやすくなっており、イラク戦争の例を引くまでもなく、モニターを見ながら銃を発射したらOK的な部分も多い。つまりはゲーム感覚で人を殺せるのだ。

 

事実、募兵制であるアメリカ軍は、さまざまな経済的メリットを設けて、貧困層の青年を多く採用している。

 

最近では、中学生や高校生に、自衛隊を体験してもらうなんていうイベントが、しばしばおこなわれている。政治屋の中には、「自衛隊に体験入隊すれば、就職や進学に有利になるような制度を作ろう」などと言い出す者も出てきた。予備自衛官を採用したら、その会社を経済的に優遇するなどという仕組みもあるようだ。

 

じわじわと進む「国民を軍隊に従わせるための策略」を、冷静に、論理的に監視し、押しとどめなくてはならない。さもなくば、子どもや孫たちの世代が酷い目に遭い、あるいは(他国民を)酷い目に遭わせるかもしれないのだ。そして軍隊を称揚しているような奴らは、何一つ責任などとらないだろうことは、今の政府とこの国の歴史が証明している。

沖縄県で、高江の米軍ヘリパッド建設に反対している人たちが設けたテントなどが、米軍によって撤去されたというニュースがあった。もちろんテレビなどの大メディアは、これをほとんど伝えていない。それにしても何という非道だろう。アメリカに対しては日本が主権国家ですらないという事実を、これほどはっきり示した事件はない。

 

米軍はこの事件の後、『日米地位協定に基づいた、アメリカの権利を行使した』と発表したようだ。つまり日米地位協定に基づけば、アメリカは日本国内で、日本の法律などガン無視してやりたい放題ができるということなのだ。

 

もしこのテントを僕が撤去して持ち去ったら、僕は窃盗などの疑いで、日本の官憲に逮捕されただろう。しかし米軍はお咎めなしどころか、『これは俺たちの権利だ』と高飛車に構えているわけだ。そしてこの権利は、沖縄県だけに適用されるわけではない。日本国内のどこででも、あたりまえに適用される『権利』なのだ。

 

つまり日本は、アメリカとアメリカ軍の奴隷なのだ。

 

「日本の国防のために駐留しているアメリカ軍だから、日本が金を出すのは当たり前だし、米軍に権限を与えるのは当たり前だ」と訳知り顔に言う輩がいる。ヨーロッパでは、これほどアメリカやアメリカ軍が優遇されていないし、北朝鮮と戦争状態にあった韓国でさえ、これほどの優遇を米軍に与えているわけではない。中国と事を構えていたフィリピンも、米軍は要らないと撤退させたことがある。

 

日本は、敗戦以来、何も変わっていないのだ。米軍の占領下に置かれ、アメリカの言いなりなのだ。

 

そして戦争を起こした大日本帝国を動かしていた連中は、何食わぬ顔で戦後も高い社会的地位にとどまってアメリカに媚びを売り、一方で自分たちのどす黒い欲望~国家主義的な支配と軍事優先的な体制~を満たすために、国民を抑圧しようとしている。その象徴が、辺野古であり、高江であり、沖縄なのだ。

 

沖縄のことを、沖縄県だけの事案だと思っていてはいけない。「本土」とやらに住む人々よ。明日はそれがあなたたちの頭上に降りかかるのだ。

 産経新聞が、WEB版でつまらない記事を出している。見出しが「変わる元号、使い続ける意義」とあり、続く小見出しが「新元号、日本人のアイデンティティー見つめ直す機会に」とある。

 

「おいおい、そこまで日本と日本人にこだわるのに、アイデンティティーって何だよ」と突っ込みたくなるが、それはとりあえず措くとしよう。

 

 この記事の筆者は、年号が中国の皇帝支配に由来するものであることに触れた後、こう言っている。

「元号制定は単に権威に絡んだものだけではなく、平和や人々の幸福を願うという意味合いもある。」

ハイそうですか。でも、その年号は民衆が自分たちで話し合って決めたものでも、皇帝が人々の願いを広く聞いて作ったものでもない。あくまでも支配者が決めて「これを使え」と命じたものだ。どう考えても、権威に絡まない部分はない。

 

 そもそも古代中国においては、皇帝=国家であり、天災地変が続いたら「皇帝の政治が悪いからだ」と、反乱の理由になりかねなかった。そうなれば皇帝といえども倒されるべき存在だったのだ。だから何とか平穏無事に過ぎるように、さまざまな願いを込めて年号を変えたわけだ。それは自らの権力、権威のためであり、民衆の平穏はあくまでも皇帝の支配にとって具合が良いという意味合いであったのだ。だからこの部分の書きようは、はっきり言ってインチキである。

 

 次に筆者は、こう述べる。

 

 「文永・弘安の役」「建武の新政」「明治維新」などの歴史の転換点や重大な出来事を元号に絡めた名称で表現している。元号は日本人の足跡そのものでもある。

 

 これはどう考えても、後付けの理由に過ぎない。重大な出来事でも、年号を絡めないものはいくらでもあるからだ。しかも年号を絡めたできごとだって、「明治維新」の半ば以上は、明治期におこなわれたものではない。どう考えても「明治維新」は、後の時代の人間による命名であろう。それは歴史叙述に一定の利便性を与えはするものの、その年号が事件に対して直接的な影響を与えているわけではない。

 

 ましてや一世一元なんていう制度は、明治以降の創作ではないか。

 

 だいいち、これまでに日本人が利便性を理由に放擲してきた「伝統」や「歴史」や「アイデンティティー」がどれほどあるか。それを措いて、支配権に関わることばかり「伝統」だの「アイデンティティー」だのと大声を出すのには、何か別の目的があるからに相違ない。

 

 この筆者は、さらにこう言う。

 

 「新元号に(平成より良い時代になるように)希望を託すのはいつの時代も変わりはないはずだ。」

 

 平成は悪い時代だったのかね。こんな言いぶりは実に不敬だと、生粋の国粋主義者なら言うだろう。僕は国家主義、国粋主義には断乎反対する立場だし、天皇制廃止論者だが、しかし自分たちのご都合で文化や伝統を言いはやし、天皇(制)を自分たちの都合通りに動かしたいなんていう悪辣な連中よりも、生粋の国粋主義者、天皇主義者の方がはるかにマシだと思う。

 

 世の中は、新年号に浮かれている。何日かは、新年号にまつわるテレビ番組などが放送されるだろう。バカバカしい。

その隙を突いて、4月以降はさまざまな社会保障が、どんと切り下げられる。それをどこも報道しない。気が付けば、「あれ、こんなに負担が増えてる」、「こんなに給付が減ってる」となるだろう。年号なんて、金輪際使うものか。