後書き

 

 私が飼い犬たっちゃん(仮名)を喪ってからちょうど一年が経った。本文でも書いたように、たっちゃんが最後の時に、私に返事をするように目を合わせ口を開けてくれたので、この物語を書こうと思った。今年はコロナ禍で出来ないことが多かったが、その分まとまった時間がとれ、文章を書くことができた。

 動物を飼うことは、話しかけ世話をする相手を持つこと、それは愛情を感じることなんだ、と思った。現実の私は今、自粛が緩み仕事がまた増えてきて、新しい動物を飼う余裕が無い。次は今流行りのAIロボットとペットの違いを物語にしたいと思っている。

 お読みいただきありがとうございました。

  それからしばらくは顔見知りの犬飼いさんたちから、会うたびにたっちゃんのことを尋ねられた。私はその度にたっちゃんの死を説明したが、どの人も優しく労わってくれた。私がたっちゃんと散歩するようになって十一年余り、そのころから知り合った人たちの飼い犬も同じように高齢化していた。どの子もまだ元気だけれど、やはり老化の様子は出ているようだった。

 たっちゃんを見てもらっていた動物病院へも、お世話になったお礼も兼ね、簡単に死亡の報告を手紙に書いて送っておいた。すると、丁寧な弔問の返事が送られてきた。たっちゃんの通院中も死んだ後も、人間と同じように扱ってくれたK獣医師やスタッフの方たちの動物を大切にする態度に、たっちゃんを喪った悲しみが癒されるような気がした。

 動物を飼うことは楽しいことで、犬、猫、小動物を手に入れてその様子を見ていると心が和むものだ。けれども世話をしなければいけないし、怪我や病気をすれば手当てが必要になる。それに動物には感情がある。飼い主が愛しいと思って世話をすれば動物は喜ぶし、面倒だと思ったり、ぞんざいに扱えばすねたり怒ったりする。そういう自分の都合や考え通りにいかない時も、一つの命として大切にできなければいけない。

 そして、たっちゃんを最後まで飼って思ったこと。犬はあまりに人と気持ちが通じ合ってしまうので、その存在が無くなると喪失感も大きい。猫など人に懐く動物はどれも同じかもしれない。そんな気持ちを言ってしまうと、他人には「ペットロス」と言われるだろう。ただ単に可愛がっていた対象を喪って悲しいね、また飼えばいいのでは、と思われるだけだ。私もまた生活に時間などの余裕ができれば、他の犬か猫を飼いたくなるかもしれない。それでも、たっちゃんは他に代えられないかけがえのない存在だったのだ。

 私がたった一匹との十一年余りの生活を物語にしたのは、たっちゃんが最後の時、声も出ないのに口を開けて私に返事をしてくれたからだった。私もこれから年月が経って年を取れば、たっちゃんとの日々の細かいことを忘れてしまうかもしれない。でも、この物語を自分が読めば、また思い出すことができるだろう。     完

 それから数日後に私は一人ぼっちのウオーキングを再開した。たっちゃんがいないとただ歩いているだけで寂しかった。途中Fさんとゴルのロメオ君に出会った。Fさんたちは私に数メートル離れた所で気が付き、立ち止まって待ってくれていた。私は近づいてから挨拶をした。するとFさんが話しかけるより先にロメオ君が私のそばに駆け寄った。ロメオ君は訓練を受けた犬なので、飼い主が立ち止まるとその傍にきちんとお座りし、たっちゃんがいた時は(眉間にしわを寄せて)私に近づかなかった。ところがこの日はFさんのそばを離れて私に駆け寄った。「ロメオ君、どうしたの」と私は声をかけた。Fさんはロメオ君が私に走り寄ったので笑って、「たっちゃんの具合はどうだい?」と聞いてくれた。Fさんには、しばらくたっちゃんを連れずに歩いていた時に調子が悪くて散歩できなくなったとは話していた。

私「数日前に死んでしまいました」

Fさん「そうだったの。それは切ないね。ロメオが励まそうとしているよ」

私の住んでいる地域では、辛いことや悲しいことがあった人には男女とも「切ない」という言い方で慰めの気持ちを表してくれる。そしてロメオ君が私に近寄ったのは偶然ではなく、悲しんでいた私の気持ちに本当に気づいたのだ、と感じた。ロメオ君は近づいて私をじっと見上げていたのだった。私はFさんに許しを得てロメオ君を抱きしめるように撫でさせてもらった。ゴル特有のフワフワの毛と大きな温かい体に触れたことで、寂しさと外の寒さに冷えていた心が溶けるような気持になった。

つづく