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ダウンクリフの私的面白ブログ

日々の生活の中で面白く感じた事の感想や意見を私的な観念からズバッと言いたい放題のブログです。


阪神大震災から28年目の節目にあたる今日、当時を振り返ってみた・・・。
当時小生は尼崎市内のマンションに住んでいて、丁度その日は勤務していた芦屋の店のPOSシステムのプログラム変更が早朝に行われる関係で朝の5時30分に起床していた。
丁度、朝食を食べている最中にそれが起こった、最初はゆったりとした横揺れが続き、1分ほど経過した時は海がしけたときの船に乗っているような大きな横揺れに見舞われ、食卓の前にあった21インチのテレビが宙に浮き上がったと思うと1メートルほど前にぶっ飛んできた。3分ほど揺れが続き何とかおさまったが、こんな激しい揺れの地震は生まれて初めてだ、小生が体感した限りでは最低でも震度6弱(5.5~5.9)は在ったと考えられる。
辺り一面停電し真っ暗闇になったが10分ほどで停電は解消された。
部屋の中は家財道具で箪笥等の大きな家具がなく転倒しているもの全くなく。
食器棚のお皿やコップ類は食器棚の扉を破り落下せずに無傷で整然と並んでいた。
それ故,後片付けの必要も無いので気になってテレビをスイッチを入れると、ニュースで大阪は震度4、京都、豊岡は震度5と近畿地方の地図の上に明記されていた。
 あれだけ揺れて震度4は無いだろう?」と小生は思った・・・・。
少し、間を置いて再度テレビのニュースで神戸と洲本で震度6の表示が出ていた。
「こりゃ大変だ!」と思い脳裏に芦屋の店の事が頭に浮かんだ。
早速、自宅を出て芦屋の店に行くことにしたのだがテレビのニュースでは色々と情報が錯綜していて、交通機関が動いているかどうかの情報は全く流れていなかった。
取りあえず朝の7時頃に最寄りの阪急の園田駅に行ったが、やはり電車は止まっていて復旧の見込みも立っていなかったとのことだったので、ダメ元でJR尼崎駅に向かおうとしてバスを乗ろうとしたが市バスも阪急バスも止まっていたので、仕方ないから徒歩でJR尼崎駅に向かった・・・・・。
40分から50分ぐらいでJR尼崎に到着したがやはりJR線も不通でこれなら阪神も不通だろうし、徒歩で阪神国道(国道2号線)を歩いて芦屋の店に向かったのだが・・・・・・・?
  徒歩で阪神国道沿いを歩いて芦屋に向かった行すがら沿道に立ち並ぶ住宅は地震の被害を全く受けてなく平然と達ち並んでいたのだが、尼崎市内を後にし武庫川に掛かる武庫大橋を渡り西宮市内に入ったとたん、沿道の様相が一変し半壊している家屋が目立ち初め、歩道には毛布をまとって途方に暮れる人々が目に入ってきた。沿道を歩いて西に行ほど被害が増してきて全壊している家屋を目の当たりに見ることも・・・・・。
歩道には病人の方だろうか寝かされている人もちらほら見かけて、沿道の様子は地震の激しさを物語っていた。
なのに阪神国道を通る車は何事も無かったように渋滞することなく平然と通り過ぎて行くのがとても不思議に感じた。
阪急今津南線の阪神国道駅の側の阪神国道沿いにある西宮店にトイレを借りようと思い、中に足を踏み入れたとたん、中は棚の上に商品が全く載っていなく床に散在して落下していた。
テレビなどの大物商品も全て落下していて手の付けられない状況だった。
店長に店の様子や本社からの連絡があったかどうか聞いたが本社とは全く連絡が付かないと嘆いていた・・・・・。
西宮店を後にして、そうこうしている内に西宮市内を通り抜けて芦屋に入り、3時間半ほどかけて尼崎から小生の勤務地で在る芦屋の店に辿り着いたのである・・・・・。
    やっとの事で芦屋の店に辿り着いたのだが店舗は半壊状態でシャッタが破損していて全く開かなかった。近所の商店主に手伝ってもらいやっとのことで店内に入れたのだが中は真っ暗で足の踏み場も無い状態であった。
状況報告を本社に連絡しなければならないのだが携帯で何度もアクセスしたが話し中で繋がらなかった・・・・・。
阪神大震災の時は携帯が余り普及してので固定電話より繋がりやすかったというのは嘘である。
50回ほどアクセスして本社の常務に連絡が取れたのだが「大丈夫か?」と尋ねた専務の声がとてものんびりしていてあまり心配では無いようだった。
現状報告を済ませ、取りあえず店の保全をする事にした。
店の従業員達は誰も来てないので消息も心配で何度も携帯で連絡を試みたが繋がらない・・・・。
壊れた店のシャッターの前にずっと立ち空くしていると、何人ものお客さんが やってきて、「乾電池を売ってくれ」と頼まれたの店の中は真っ暗であったが乾電池類は店舗の手前にワゴン済みしていたので直ぐに見つかり、数人のお客さんに売ったのだが釣り銭が金庫に入ったままで金庫の前には棚類が倒れていてとてもじゃないけど釣り銭を渡せる状況では無かったため,住所と電話番号と名前と購入品目を手帳にメモして販売したのだ・・・・・・。
店を開いてないのに次々と電池や懐中電灯を買いに来るお客さんが多く、切りが無いし乾電池や懐中電灯の在庫が無くなり「乾電池類売り切れ」のポップをシャッターに張って事態は収まった。
それから30分ほどして、店の前にボルボの真っ赤なスポーツカーが止まり、年の頃なら25歳ぐらいの風貌からしてどこかのお嬢さん風のお客様が下りてきて、シャッターの前で小生に尋ねた。
何でも六麓荘に住んでいて、自宅のテレビアンテナが転倒してテレビが映らなくなって困っているので大至急来てアンテナを元通りにして欲しいと懇願されたのだが、この状況でそんなことが出来る訳もなく事情を説明してお帰り頂いた。全くこの非常時に何を考えているのかと小生が呆れかえった一幕も。。
そうこうして、時間はお昼の2時を回り、町内会の会長さんという人が店に来て「倒壊した建物に閉じ込められた人がいるので手伝って欲しい」と頼まれ近くだし現場に手伝いに行くことにした。
      町内会の会長さんに案内されて、現場に到着すると其処は古い文化住宅で瓦屋根を残し崩壊していた。
文化住宅の殆どの住人が地震発生時避難したのだが何でも足の不自由なおじいさんが瓦礫の下に生き埋めになって取り残されていた。
上空では報道関係のヘリが飛び回り、おじいさんの声は聞きずらかったがか弱い声で「助けて下さい!」と叫んでいるのが聞き取れた。
男5人で瓦礫を払いどけ、30分ほどかけておじいさんを助け出した。
瓦礫の粉塵にまみれたおじいさんの顔には助かったのだと言う安堵の表情がとても印象深く今でも鮮明に記憶に残っている。
現場から店に戻ると本社の部長がミニバイクで被災した店を巡回しシャッターの前に立って小生を出迎えてくれた。
「大変だったなあ~」と労い言葉を頂戴し、緊張の糸が切れほっとした小生であった。
今後の対策を部長と話し合い、30分ほどで部長はミニバイクで次の店に向かった。
部長が帰った頃には既に午後の3時を回っていた。
時より揺れる余震が地震の大きさを物語っていて、これからいったいどうなるのか不安が先立って、何をやって良いのか全く手に付かなかった。
近所の商店主らと話しながら今後店をどう保全して行くかが一番の課題だった。シャッターが壊れているのでこのままほっといて店を離れる訳にはいかない。
以前、海外のニュースで地震が起きたら略奪行為が発生するのが通例だと言うことを覚えていたのでこのままでは家に帰れない。
取りあえず、今夜は商店主らと一緒にワゴン車に便乗させて戴き店を不審者から守るため徹夜で警備に当たることを決めた。
夕方になってようやく店の従業員達と連絡が取れて、全員家族共々無事で家が壊れて避難所に世話になっている者もいなかったのでひとまず安心した。
神戸、芦屋、西宮の各店舗の店長連中とも連絡を取っているのだが従業員の安否は半数しか取れていなく、家が壊れて避難所に避難した者もいるとの事で某店長は嘆いていた。
本社に従業員全員無事の連絡をし、自宅の近所で購入したサンドイッチで遅い
昼食をとった頃には既に夕方の5時を回っていた・・・・・。
    夜間の警備にはまだ時間があるので、店の中に入り床に散在している商品をランタンの明かりを頼りに片付け始めたのだが何せ暗すぎて、下手をすれば転んで怪我をしたらいけないので2時間ぐらいで切り上げ店の外に出た。
外はすっかり夜の帳が下りいて、店から100メートル離れた国道四三号線では緊急自動車が引っ切り無しに通りサイレンの音が途絶えることは全くない状態だった。
まだ、其の時点ではラジオ等で全く情報を入手していなかったのでこの地震がどの程度の被害が出ているのは全く予想だに出来なかった。
ただ、何時までも収まらない余震になれることなく恐怖におびえている自分があった。
夜の11時を回り、近くの商店主の方3名と一緒になってワゴン車に乗り込み店の前近くで警備を始めた。
カーラジオからは地震の被害状況のニュースや亡くなられた方の氏名などが夜通し放送されていて、この地震の被害の凄さに今更ながら驚くのであった。
ワゴン車の中では交代で仮眠をとりながら警備を続けた。夜空には満月に近い上弦の月が何事も無かったかのように光っていた
ヒーターを入れっぱなしにしないと寒いのでワゴン車のエンジンは常にアイドリングの状態にあった。
午前の2時を過ぎた頃であったが、荷物を積載していない不審な軽トラが何度も店の前を通り過ぎた。
おそらく同じ路を何度も周回しているのであろうか・・・?
ラジオで東灘区で数件のコンビニが略奪されたとのニュースを耳にしていたので、これはやばいと思い、一人仮眠していたので残りの3人でワゴン車から降り、店の前に立って威嚇することに・・・・・・。
店の前に我々が立ってから同じ軽トラが一度通り過ぎた後はもう2度と来ることが無かったが、やはり,あれは略奪が目的で軽トラには男が二人乗っていたので間違いは無いと確信したので翌日不審車のナンバーをメモっていたので一応警察に届けた。。後になって聞いた話だが二人組の軽トラは地震から三日目の深夜に阪神芦屋駅近くで警察に検挙されたとの事だった。
その後不審な車が現れる事無く、東の空が白み始め1日目の警備が終わったのだった。
地震から二日目の朝が訪れ、昨日中途半端に終わった店の後片付けをしていたところ、店の従業員達数人が出勤して来た、お互いの無事を確認して喜び合った。
地震の前日は閉店してから残業があって終わったのが九時半を過ぎていて、残業を労うため、デリバリーピザを取って雑談していた・・・・・。
テレビのニュースで前年の10月から12月にかけて発生した北海道東方沖地震と三陸はるか沖地震に触れていて雑談の話題も自然と地震の話になった。
「最近地震が多いけど、関西は大丈夫やろか?」「大丈夫なんと違う、もう何十年も起こっていないし・・・」「仮に明日大地震が起きたら店はどないなっているのかしら?」「おそらくの棚からテレビが全部落ちて木っ端みじんになってんのと違うかな?」と言う具合に冗談交じりのたわいの無い会話を交わしたのを覚えているがそれがまさか本当になるとは夢にも思わなかったのだ。「一昨日冗談で離していたのが当たってしまいましたね」と一番若い従業員の男の子が言うと「あれは予言なったのかな?」「いや、虫の知らせと言うか・・・?」従業員達の会話は地震にもめげず意外と明るかった。
折角、出勤してもらったのだが店の後片付け以外する事もなく、本日は自宅待機と言うことで帰って頂いた。
昨夜の徹夜警備が身体に応えたのかかなりの疲労困憊だった。店のシャッターは壊れたままだったが簡単には侵入出来ないように細工を施し、他の商店主のすすめも有り、今晩の警備は別の商店主の方が代ってやって頂ける事も在って、帰宅することに決め、豆腐屋の大将が拾った古い自転車を貸してくれるとの事で、「乗り捨ててもかめへんから」「乗って帰り!」と言ってくれたのでお言葉に甘えて自転車に乗って昼過ぎに店を後にした。
国道43号線を超えて国道2号線を東へと向かった、国道の車の流れは普段と変わらなく行き来していたが普段人の行き来が少ない歩道には大勢の人たちが肩にリュックサックを背負い東に向かって歩いていた。
神戸や芦屋の被災地では食料品が不足していて、食料品を求めて大阪方面に向かう人なのか?それとも被災した人が避難場所に向かっているかは定かでないが歩行者の顔は疲れが溜まっているのか暗く険しい表情をした人たちが多かった・・・・・。
見たことはないが終戦直後の食料品の買い出しもこんな風だったのだろう。
西宮市内に入り国道2号線から北に札場筋に入ると路肩にまあ新しい新聞が山積みされていた。
自転車を止めてよく見ると「ご自由にお取り下さい」の張り紙が在ったので
早速一部戴くとそれは1月18日付の朝日新聞の朝刊であった。
「死者1648人」と印刷された大きな見出しが目に飛び込んできた。
「こんなに亡くなられたのか!」今更ながら驚く小生であった。
自転車は札場筋を後にして西宮球場方面に東に転がした。
西北までは阪急が開通しているという情報があったので、高松町のイオンスーパーの駐輪場に自転車を止めて降りた。
そのまま電車に乗って帰ろうと思ったが西宮北口は小生が生まれて小5まで住んでいた街なので、小生の生家がどないなっているか心配なので見に行くことに・・・・・。
     阪急西宮北口駅の東側にあるガード下をくぐり、新北口市場の中へ入ると中は半壊状態で真っ暗であった、

其処を通り抜けて北へ進むと狭い路地の両側に点在する家屋は殆ど半壊状態で,小生の生家あたりには自衛隊の一個中隊が派遣されていて救出活動を展開していた。
木造の小生は生家は全壊していて瓦礫の山と化していた・・・・。
もし、遡ること30年前に今回のような地震が起きていたら小生は建物の下敷きになり瓦礫で埋もれていたかと思うと背筋がぞっとした。
生家の近所は皆避難所に避難しているのか自衛隊員以外全く人影がなくゴーストタウンの様だった。
町内を一周した後,西宮北口駅に着いてプラットホームで電車を待っていてふと神戸方面に目を向けると線路が飴のように蛇行し折れ曲がっているのが目視できた。
梅田から来た折り返しの普通電車が入線してきた、マルーンレッドの車体に夕映えの西日が反射してとても綺麗に輝いていた・・・・・。