3章
こんな気苦労を康夫がするのは、亮子との出会いが仲人を通じての見合いでもなく
まして恋愛からの結婚でもないからである。
亮子との出会いは、最終電車を待つ駅のホームの待合室だった。
康夫は仕事の後、飲み友達と居酒屋で飲んでいて、慌てて最終電車に間に合ったときのことだ。
ホームで電車が入るのを待つあいだ、ホームの中央にあるガラス張りの待合室に入ったのだが、人影がガラス越しにあるのに気がついていたのだが、ガラス戸を開けて待合室に入って驚いた。
女性なのである。
最終12時の電車に女性が乗るなど信じられなかったからである。
ときたま居酒屋で飲んで最終になることもあるが、女性が乗るのを見たのは初めてだった。
それだけではなかった。
女性が待合室に入ってきた康夫を顔を上げて見返したとき、そのあまりの美人に康夫は驚いたのだ。
どうしてこんな美人が、最終電車に乗るのか?思ったものの瞬間浮かんだのは<お水の女性?>だった。
それならわかる。バーやスナックの勤めなら夜半までの勤めだから。
思いながら女性の向かいのベンチに腰を下ろし、その美人の女性に憑りつかれたようにまじまじ見つめて、女性を観察していた。
真っ赤なドレス、赤い唇、目にクマラインが走り大きい目が訝し気な表情で康夫を見返しじっと見つめられたとき、ぞくりとしたものが康夫の背筋を走ったのだ。
これが康夫が亮子に魅入られた最初だった。
最終電車がホームに滑り込んだ轟音にわれにかえり立ち上がった康夫だったが、気になるままに女性を見たのは、どの駅まで行くのだろうか?と思ったからである。
不審に思ったのはその時だった。
電車は終点の駅だからすぐに発車することはない。それにしても女性がうつむいたまま身動きしないで座ったままでいるのに、康夫はなにかおかしいと感じたのだ。
最終電車である。
立ち上がって当然電車に乗り込んで座席に座るのが普通なのに、女性はまるで
そのそぶりを見せずに待合室に座ったままなのである。
電車が入ってくるのも気が付かないように、うつむいて身動きもしないでいる。
「あのう、この電車で最終で終わりですよ。乗らないのですか?」
康夫は思わず声をかけていた。
「行くところがわかりません」
「ええ?分からない。行くところが分からないとは、どういうことです?」
思わず身を乗り出して康夫は問い返していた。
「なぜ私がここに居るのか?分からないの、電車に乗っても行く先がわからないのです」
「お酒を飲んでここがどこか分からなくなったと言うことですか?」
「いいえ、お酒は飲んでいません。とにかく記憶がないのです。どうしたらいいのか困っています。どうしたらいいのでしょう?」
困った表情を見せて問いかけるように告げられても康夫には答えようがないのだ。
<記憶喪失?こんなことがあるのだろうか?>
疑問が駆け巡って考えて、はっと気が付いた。
「とにかくここで夜明かしはできませんよ。駅のそばにホテルがあります。そこで泊まれては?案内してあげたいけど、この電車を逃したら僕は家に帰れなくなりますから」
電車の発車まで5分ほどしかない。この女性にかかわっていたら自分も帰れなくなる。康夫は気が付いたのだった。
だが女性は首を振るのだ。
「無理です。お金が小銭しかないのです。」
言いながら手に持ったポーチをかざして見せる女性に康夫はため息をついた。
「こまったな~お金貸してあげたいけど、僕も飲んでの帰りで余裕がないのです」
どうすればいいのか?どうにでもなれと、この女性を置き去りにして電車に乗ってしまうか?
一舜、そんな考えが走ったが、でも、こんな美人を置き去りなどできない。思い返したものの、それではどうすればいいのか?答えを求めても見つからない。
どうしたら~考えあぐねてしまうのだった。
うろたえた気分でいるうちに、電車の発車ベルが鳴りだしたことで背中を押されて
思い切りが付いたというか、反動で女性の手を握ると引きずるようにして待合室から飛び出したのだ。
電車に乗り込んで客もまばらな最終電車の、さらに乗客の座っていない優先座席に座るまで、女性は康夫に引かれたままで抵抗もなしについてきたのは、よほど困って助けを求めていたのかもしれないと康夫は安堵する気分になった。
横に座った女性の少し憂い顔の美しい横顔を見て、康夫は急にドキドキ感が鼓動を打つのを感じた。
こんな美人と電車に並んで座るなんて?夢を見ているのでは?と康夫は思ってしまう。
だからおそるおそる聞いたものだった。
「記憶がないと言われるけど、なにも覚えていないのですか?名前とか住所は覚えていないのですか?」
「はい、本当になにも記憶がないのです。どうしていいのか?それも分からなくて思案しているときに声かけて頂きましたけど、こうして電車に乗っていてもどこで降りたらいいのかも分からないのです」
「貴女が分からないのなら、僕だって分かりようないですね、困ったな~ベルの音で貴女を電車に乗せてしまったけど、降りる駅も分からないと言われたら、どうしていいか?このまま貴女を電車に置き去りできないし~」
答えながら、でもそれは女性への言い訳で、康夫の本音は決まっていたのだった。
<こんな美人を見放すわけにはいかない。家に連れていくしかない。でも彼女はどう考えているのか?>
思ったものの気にするまでもなかった。
「このまま私一人で電車に乗ってはおれません。お願い助けてください。」
うなだれていた彼女が、顔を上げると潤んだ目つきで康夫に告げたとき、もう康夫は<待っていました>という気分になっていた。
「分かりました。貴女を電車に乗せた責任もあります。僕のマンションにお連れしましょう。今夜は僕のマンションに泊まって、後のことは明日相談しましょう。ああ、僕は原田康夫と言います。しがないサラリーマンですが、怪しいものではありませんから安心してください」
少し緊張気味に言った康夫に、彼女の表情が一気に花が咲いたように笑みが広がったのを見て、康夫はもうわくわく気分だった。
「嬉しい助かります。紹介するにも自分の名前も分かりません。お家に連れて行って下さるのですから、私の呼び名を適当につけてください。」
「名前?そうでした。家に泊めますと言っても貴女をどう呼べばいいのか分からないのでは困りますね。でも男の僕には女性の方の名前を考えて欲しいと言われても思いつきません」
会社の女性とか、知人の女性とか、実在の女性の名前しか思いつかない康夫には、考えてと言われても思いつけないのだ。
「それもそうですね。今、私、急に頭に浮かびました。亮子というのはどうでしょう?」
「良いじゃないですか、亮子さんですか、呼びやすいです。じゃ亮子さん次の駅が降りる駅です。駅から5分ほど歩いたところのマンションが僕の住みかです」
「ありがとうございます。よろしくお願いします」
頭を下げる亮子が、そっと身を寄せてきたのに、康夫には一気にテンションが上がったのだ。
<3章続く>