2章

 

 最初はどうということがないことが、きっかけだった。

 康夫はテーブルに置いてある亮子の財布を見て、好奇心もあって中身を見て首を傾げた。

 確かにスーパーのカード類などはあるのだ。亮子の名義の病院の診察券はある。

 でも肝心の現金が入っていないのである。

 小銭入れのところに百円硬貨、10円硬貨が2枚づつ、あとは一円のアルミだけ。

 

 確かに昨日は康夫が、銀行に会社が振り込んでいる預金から康夫のカードで金を引き出して、生活費として定期的に亮子に渡している5万円がある筈なのに財布にはそれが見当たらないのだ。

 一日で5万円が消えるなど、今の康夫には考えられないことである。マンションのローンも光熱費も、主な食料品も生協から届けられてこれらすべては康夫の給料から引き落とされている。

 その他はこまごましたものを現金で買うのと、後は小遣いといっても居酒屋で消える飲み代なのだ。

 亮子と同棲するまで長いあいだ一人暮らししていたから、康夫は生活費の出費の程度がどのくらい必要かは知っている。

 独身生活から亮子との二人暮しになって生活費が増えることは当然だが、でも一日で5万円もの金がどこに消えたのか不明など、康夫には考えられないことである。

 

 <どうして亮子の財布から現金がなくなっているのか?>康夫は考えてしまうのだ。

 <やはり亮子に聞くしかないな~>思いながらも、なにかためらう気持ちが康夫のなかにあるのを覚えてしまう。

 

 商社に勤めて、海外出張もあってマンションを留守にすることも多いので、家計は亮子に任せきりでいる。

 普通なら亮子のカードを作ってやればいいのだが、それはできないのである。

 康夫のカードを使うように言うのだが、亮子はそれはダメ自信がないと言い張って現金で欲しいというので、康夫は定期的に銀行から預金を降ろしては亮子に現金を渡すようにしているのだ。

 

 それが結婚して?と言っても二人だけの申し合わせに過ぎないのだが、康夫は法律的には内縁の妻でしかない亮子を絶対に自分の妻だと思っている。

 それというのも亮子の美人がどうして自分の妻になってくれるのか?康夫は自分でも不思議と思うことがある。

 一介のサラリーマンで、高給取りでもないし、当然金持ちでもない。見かけも好男子どころか貧相な小男に過ぎない自分に、どうして亮子のような美人が内縁の妻とはいえ自分の妻に甘んじるのか?不思議に思うのだ。

 

 一諸に歩いても亮子のほうが背が高くなるので、多分、亮子もそれを気兼ねしてかハイヒールは履かないでいる。

 鼻筋がツん~と通り少し険高だがな感じで冷たさを感じさせるが、一口でいうなら宝塚の男役を思わせる美人で、近寄りがたい感じをさせるのだ。

 多分普通に会っていたら康夫は気後れして、声もかけることもできないでいたろうと思うのだ。

 

 それが自分の妻だと思うと、自分の幸運に嬉しさのあまり並んで歩くと、<見てみて~、私の妻なんだ>道行く人に向かって叫びたくなるぐらいでいる。

 当然、妻として入籍して法律的にも妻と認定したい気持ちは康夫にはあるのだが、

 <裁判所での手続きまでして新しい戸籍を作るのは嫌だ、時間がかかっても自分の名前や住んでいたところの記憶を取り戻して、本来の自分に戻りたい>過去を持たない亮子には、そのままの自分で康夫と正式な夫婦にはなりたくない。本来の元の自分に返って康夫の妻になりたい。

 それが亮子の気持ちと康夫は理解している。

 <矢張り過去のない、戸籍もない、まるで社会的には幽霊のような存在で俺と暮らすのは引け目があって嫌なんだろうな>

 と、康夫は亮子の気持ちを汲んで、<それもそうだな~>と折れてしまうのだった。

 

 そんな経過があるから、消えた5万円を考えると過去のない過去を失っている筈の亮子がどうして5万円を一度に使うことができるのか?

 亮子と知り合った当座、康夫は亮子のために散財することは厭わずボーナスをはたいたものだが、そのときに亮子の必要品は買っているから、5万円もの買い物を亮子がしているならすぐわかることだ。

 3LDKのマンションのそれも一室を亮子の居室にさしているから、身の周りのものを置くだけが精一杯の広さしかないのだ。

 

 いや、そんなふうに疑問の虜にならなくても、亮子に聞けばすむことは康夫には分かっている。

 でも聞くうちに亮子を問い詰めて詰問するところまでいって、怒った亮子が家を出ていくような事態になれば?

 ひょっとして亮子の5万円の使い道が自分の知らない男にでもつぎ込んでいたとしたら?もう亮子は康夫と離れてしまうことに通じる。

 想像が妄想にまで発展して、考えるほどに康夫は怖くなって亮子に聞くことができないのだった。

 不安に取り囲まれて、こんな美人の妻を失えばもう自分には二度と同じ幸運にめぐりあえることはないだろうと想う康夫だった。