86回
由美さんと泣き別れ見たいになって、帰りの電車でも赤くなった目元、泣きそうになるのを見られたくないので、座席に座らずに扉に立って暗い風景のなか街の明かりが走っていくのを見ていました。
扉のガラスに映る幾何学模様のドレスを着た娘が、私を見つめています。正人さんが愛した娘、ママにするには若すぎる娘です。
でも本来可愛いその娘が、今は険のある顔つきで私を睨みつけているのです。
<正人さんに別れを言われたわけでもないのに、どうして正人さんと別れをしなければないのか?>理屈ではなく感情が納得しないのです。腹立ち越えて悔しがいっぱいなのです。だれにこの思いを投げつければいいのか?
お母様ではないのです。
お母様もまた私と一諸の被害者なのですから。
では、引き金を引いた社宅の奥さん達?
それとも偏見を広げた正人さんの会社の人達?
いえ、それよりもっと広い会社の人達すべてを巻き込む社会の風潮からなの?
持って行き場のない怒りは、扉の窓ガラスに映る姿に向けられて私はにらみ合っているのです。
この娘が正人さんを虜にし、正人さんはこの娘を愛したために、会社での未来を失うことになろうとしているのだ~
この娘がいる限り、正人さんはミカちゃんのもとに帰ることができない~
この娘がすべての災厄のもとなのだ~。
この娘がいる限り~私の辛さ、悔しさは消えないのです。
さまざまな思いが駆け巡るに任せて,電車を降り歩き続け、われに返ったとき私は社宅に帰っていたのです。
帰り着いたとたん気が緩んだのか、酔いが一気に回ってきたのです。由美さんと悲しさを分け合って、泣きながら水割り飲み続けていたのです。
体が思うように動きません。
なにすることもできないままに、寝室に向かいながらつぎつぎ床に着ているものを脱ぎ捨てていきます。
まるでさなぎが衣を脱ぐようにしてキャミソールとショーツだけになると、ベットに転がり込んだのです。
朝、何時もの起きる時間に目が覚めました。
頭がガンガン痛い~二日酔い?
でも起きないと~朝の支度と思ったとき、もう私しかいないことを思い出したのです。もういいか~起きかけたのを止めて大の字になって体を楽にしたのです。
もう主婦をしなくてもいいのです。
女の私を求める人もいないのです。
それどころか女の私が住む場所、暮らすところはなくなったのです。
そんなことを考えていると、やっぱりこのままふて寝していることができないことに気が付きました。
新しい暮らしを一から作ることが待っているのだと思うと、寝ている時ではないのです。
頭が痛いのを我慢して起きて、私だけの食事でいいのだからとパンとコーヒの朝食で済まします。
ほんとに久方ぶりの男の服装、ウイックなしの男性でのお出かけです。病院に勤めていた時以来の男性姿です。
正人さんの奥さんになってこの社宅に入ったのですから、私は女性になり男姿とは別れたのでした。
今再び男としての行先は、まづ勤め先の確保<ハローワーク>です。そして当然の住宅探しです。
でも、どちらもどこでもいいというわけにはいかないのです。
お母様との約束で、正人さんと会うことのないようなところ、正人さんが心当たりを訪ねてくることのないような場所でなければならないのです。
それで考えたのは乗物からです。
いくら住むところを変えても、正人さんの利用する電車が同じなら偶然に出会うかもしれないのです。
それで隣の市内を走る別の電鉄の路線の沿線で、できたら住むところと勤め先が歩いて行けるそんな場所~そんな都合の良い条件の確保ができるものか?
思いながらもポイントを絞ったのは、繁華街の人口の多い市内の中心部、さらに医院、病院のあるところも絞りました。
なぜなら私が勤めていた病院での医療点数の作成業務や会計、受付業務などの私の経歴が就職探しに有利な条件として生かせると思ったからです。
それを念頭にその市のハローワークを見学したのです。
住所をその市に移していないのだから、すぐ手続きできないのは知っていましたから、私の望む情報だけでもあるなしを知りたかったのです。
ハローワークはビルの最上階の一角にありました。
中年、年配の男性が出入りしていたけど、女性は中年の人がカウンター隔てて係員と話のやり取りしているのを見ただけです。
そして私のような若者は私だけで、何か引け目を感じてしまいます。
壁に一面に張られている就職情報を綿密に見ていきました。業種別に分かれているので探しやすいので助かります。
医療事務~ありました。
<薬局事務員~私は薬剤師の資格持っていないからダメだけど、事務員だったら私の経歴でいけそうだけど~パートか~>
<医療秘書?どんな仕事なの?アルバイト・パートだめだ~>
正規採用なんてないのです。
アルバイトかパートばかりで、マンション住宅借りて生活するなんてとても無理なのです。
矢張りこれは面接して,担当者と相談して私の職歴に合った就職先探してもらうしかないと判断しました。その申し込みの説明書読んでいるうちに、前の勤め先の紹介状が必要と書かれているのに、愕然としました。
私が主任として勤めていた病院の紹介状がいると言うことです。
正人さんが私を探して真っ先に行くと思われる病院の紹介状がいるとあって、もう頭抱える気分になって、住宅探しの気分も吹っ飛んでしまったのです。
女の世界の厳しさは死にたいほどの試練を私に与えました。
でも、男の世界もまた厳しさは並大抵ではないと私は知らされたのです。
だけど私は男の世界で生きるしかないと覚悟しなければならないのです。
電車の窓ガラスに映った可愛い娘。それで生きていくことをその時私は決別したのです。
男として生きていく道を私は選んだのですから~。
<続く>