85回

 

 お母様が帰った後、社宅のだだ広い部屋に取り残された私でした。

 もうここに住むことがなくなるのです。

 正人さんにも教えられない住処<すみか>を早く探して移らなければならないのです。

 今からでも荷づくりしなといと~思うのだけど、なにか、体から力が抜けたように

なって何する気も起きないのです。

 いえ、それより社宅に住む奥様方に早くあいさつ回りすることが先決なのです。儀礼から回るわけではないのです。

 私のために噂のたねにされてしまった正人さん。私にはそれを拭う義務があります。私を愛したがために災厄を負うことになった正人さんを、別れることになっても救わねばならないというのが、私の決意なのです。

 

 でも矢張り力の抜けた私には、足がでないのです。あの口の軽い奥様に会って恨みの一言でもぶっつけるならまだしも、正人さんへの誤解を解いてください。お願いするなんて言えません。

 どんな言いかたで社宅を回ればいいのか、それすら思いつきません。

 今になっては相談する相手はお母様しかいないのに気が付く私でした。

 それが不思議なのです。

 私にむごい仕打ちをしたお母様なのに、今までより強い絆のようなものを感じてきているのです。

 多分、愛するものを守るためなら、自らも犠牲にすることさえ厭わぬ。そんな想いが私とお母様に共通していることからかも?しれません。

 

 あれこれ思い悩むのも疲れてきました。

 一人この部屋で居ることが苦痛になる私です。

 誰かと、誰でもいい~話したい。苦痛を晴らしたい~その思いに駆られて外に出たのです。夕食も取らずに電車に乗りました。

 

 電車を降りるとホームのペンチに座りました。

 携帯を開いて由美さんを呼び出します。

 「あれ~あきさんお久しぶりじやないの。正人さんとあつあつで居たら、結婚して同居して、それじや私でもお会いできないと思っていましたけど、今日はどんな風の吹き流し~」

 なにか少し皮肉な言い方だけど、私の話が聞きたい好奇心でしょうか?由美さんの言葉が止まらないのです。 

 「由美さん少し黙って~私、お母様に因果含められて正人さんと別れさせられたの、だから私を慰めて~」

 私の言葉の途中で由美さんが叫び声上げたのが、携帯のなかから私にとびこんできました。

 「そんな~嘘でしょう、信じられない。あきさん私を騙す気なの?」

 いきり立つ由美さんをやっと静めてルージュで会うことにしたのでした。

 

 早い時間でしたからルージュは私が初めての客でした。

 年配のママさんがびっくりした表情になったけど、すぐ笑顔で迎えました。

 「あきさんお久しぶり~どうしているか?気になっていたの。でも、奥様になったのだから仕方ないと思うことにしていたのよ」

 「ママさんもう奥様家業止めました。だからここに来たの。アルールでも飲まないと辛くて抑えられないの~」

 「ええ、奥様止めた?どうして?」

 「いろいろあって~それより水割り~濃いのね」

 悲しい話を語るなんて、そんな気分になれません。

 

 出された色のついた水割りを一気に口に含むだけふくんで、喉に流し込みます。焼けつくような液体が喉を降りて行きます。酔いの力を借りないと、やってくる由美さんとながなが話す気分ではないのです。

 

 ちりん~と鳴って扉が開くと、由美さんが滑り込んできたのです。カウンターの私の手を取ると有無を言わさずソフアーの席に引っ張り込んで座らされました。

 水割りのコップを掲げて由美さんに向かい会って、どう話そうと~考える間もありませんでした。

 「どういうこと?あきさん。一体なにが起きたというのよ」

 返事が待ちきれない~私の肩ゆする由美さんです。

 「携帯で話した通り。お母様に言い含められて、正人さんと別れることになったの~」

 「それだけでは分からないでしょう。お母様と一体なにがあったというの。喧嘩したの?分かるように説明しなさいよ」

 「違うの、喧嘩したのでないの、お母様に説得されたの、正人さんと別れてくださいと~」

 「もう、なにわけわからないこと言っているの?お母様に説得されてハイ別れますと貴女言ったということ?問題はお母様ではないでしょう、正人さんとの話でしょう?正人さんに別れたいと言われたの?それってどういうこと?お願いだから初めから納得できるように話して~」

 いらただしさを表情に見せて由美さんは問うのです。

 「正人さんは知らない話なの。私とお母様との話で決まったことなの、すべては私が女装子とお母様だけでなく社宅の人達に知られたことから起きたことなのよ」

 「じや、お母様は貴女の女装子~いえ、男と知って別れろと~?」

 「いえ、お母様は許してくれているの。私が男でも嫁として認めると~でも正人さんとは別れて欲しいと~」

 「もう嫌だ~いやだ~お母様はいいの~、正人さんよ。正人さんは貴女が女装子、男と承知して、それでも結婚してくれたのでしょう。ミカちゃんのママになることを貴女に頼んで同居したのじゃないの。その正人さん抜きにお母様との話でどうしてあきさんが別れることを承知するのよ。こんなバカな話、貴女が承知しても私は絶対納得しないからね」

 

 いきまく由美さんに手が付けられない感じがします。

 何時も由美さんとの話になるとこうなのです。

 私が小出しに話しするせいもあるからだけど、由美さんに一つひとつ詰められて結局、何もかもしやべらされてしまうのです。

 いまもそうでした。

 でも、すべての話を聞いたとき、さすがに由美さんも言うべき言葉を失ったようでした。

 由美さんは分かっているのです。

 女装子を取り巻く環境の厳しさを。由美さん自身が私に話してくれたぐらいですから~。

 「あきさんが正人さんの奥さんになると聞かされた時、私言ったでしょう。<あきさんは希望の星>だと。女装子は相手になる男は数あっても、でも、ノンケの男性が奥さんとして結婚してくれることはあり得ない。それが女装子の定めだと~言っていた私にとって、あきさんがあり得ない幸せを勝ち取ったと嬉しくて、<希望の星>と言ったの。いいえ私だけではない<希望の星は>女装子みんなの希望なのよ。それなのにこんな辛いこと、女装子の希望を粉みじんにする結末があるなんて~あきさん悲しみは貴女だけではないの、私だって辛い、悲しいのよ」

 

 ぽろぽろ涙が由美さんの目から流れるのを見て、私はもう耐えられません。私もまた涙を流せるのを任せるままでした。

 手を取り合って私達は泣くしかありませんでした。

 

 ルージユの店に客が入ってきてそんな私達を見てどう思うか?考えもしませんでした。ママさんがそっと置いてくれた水割りのコップ。私の涙が水に落ちて円を描くのでした。

 <続く>