84回

 私は正人さんに愛されているのです。ミカちゃんに慕われています。私も二人に離れることなどできません。

 でも私が正人さんのそばにいることが正人さんの未来を閉ざすというのです。私が正人さんを愛するほど、正人さんは不幸になるというのですからこんな矛盾した話はありません。

 

 お母様の嘆きはわかるけど、私に正人さんと離れて欲しいと言われても、正人さんを愛しているこの想いを簡単に切れるものではありません。 

  

 「お母様言われていることは分かります。でも正人さんの気持ちも確かめずに私に別れろと言われても、分かりましたなんて言える道理はありません。お願いです、正人さんの気持ちを確かめさせてください。ミカちゃんだってママが居なくなれば泣き叫ぶのに違いないのです。そんな可哀そうなこと私にはできません。私はもう、ミカちゃんのママなのです」

 お母様の辛さは私にも負けないのは分かっているけど、でもこの私の追い詰められた想いを消すなんて~そんなことできない。何回も心のなかで私は繰り返すのです。

 それが激しい言葉になってお母様に投げ返してしまう私です。

 さすがにお母様もうなづいて返すしかなさそうに思いました。

 

 「わかっています、あきさん。正人さんは私にとってただ一人の息子です。母親としてあの子の性格は大人になった今でも変わらないのを知っているのです。優しい心根の正人さんなのです。貴女が別れると言っても承知するはずありません。たとい自分が身の破滅すること知っても、貴女を悲しませることなどできるような子ではないのです。答えの分かっていることで正人さんと話すことなどできないというしかないのです。

 それをあきさん分かって欲しいの。貴女が正人さんと一諸で居るほど正人さんを不幸に追いやることになるの。会社での正人さんはどんどんみじめな立場に追いやられていくのよ。

 あきさんが正人さんを心底から愛してくれると言うなら、自分の想いを遂げるために正人さんを不幸に追いやることはしないで~正人さんの親である私の子供を守るこの気持ちを分かってください。お願い~」

 

 畳に手をつくお母様になんと答えればいいのか?思い悩むなか~私は~

 そうかと気づいたのです。

 <これがお母様の切り札だったのだ>と~

 <貴女の正人さんへの愛が真実<まこと>なら、正人さんを守るために身を引くしかない。>それをお母様は私に求めているのを知ったのです。

 私は逃げ道を絶たれたのを、絶望の思いで受け止めるしかないのを知らされたのです。

 

 それでも、他の逃げ道はないのか?まだもがく思いを捨てきれない私でした。

 「お母様~ミカちやんが心配です」

 せめてミカちゃんのそばには居てやりたい。ミカちゃんへのママの想いとして言わずにはおれません。

 「分かります。子供のミカには理解できないことですから。でもね~あきさん今のミカでなく、長い目でミカのこと考えて欲しいの。今のあきさんはミカにはママです。母親とさえ思っています。でも、そのミカも成人するのです。年頃になってそのママが実は男性だと知った時、どれほどのショックを与えることになるのか?私はそれが恐ろしいの。だからミカが子供のあいだに悲しがるのは分かっているけど、貴女を引き離してやることが私達の責任だと思っているの。だからあきさんミカのママ役を終わって欲しいの」

 お母様の宣告は私には死刑の宣告と同じとさえ思える辛さをもたらすものでした。

引き離されるのは正人さんだけではないのです。ミカちゃんもまた私から離れて行くと言われているのです。

 それは私が一人ぽっちになると言うこと~同時に私が一人この社宅から出ていくことを意味するのです。

 

 「それじゃお母様ミカちゃんを田舎に連れていかれたのは?」

 「ごめんなさい、あきさん。貴女が承知するはずないと思ったので貴女をだましました。ミカを貴女から引き離すために田舎に連れて行きました」

 「そんなこと~ひどい~」

 「ごめんなさい。私は貴女が好きなのに、むごい仕打ちを貴女にしていることは分かっています。それでもミカを貴女から引き離すにはそれしかなかったのです」

 

 お母様の言葉を聞くうちに、私はお母様のただならぬ、まなじりを決っする決意を聞かされる思いになってくるのです。

 

 私の逃げ道はすべてふさがれました。

 どうすればいいのか?

 答えはお母様の指し示す道を行くしかないのを、私は知る破目になったことが分かってきました。

 理屈ではそう思いながら、でも私はあがくのを止めることできませんでした。言うべき言葉をうしなって、沈黙しか私には残されていませんでした。

 うつむいて膝に置かれた私の手を見ていると、手の甲にシミが広がっていくのです。

 涙を流すことで逃げ道を失った悲しみを洗い流そうとしているようでした。

 

 沈黙が部屋に満ちて、私もお母様も言うべき言葉がないまま黙って時が過ぎていくのを受け止めていくしかありませんでした。

 

 でもその時間が私に答えを教えてくれることになったのです。

 不思議なことにお母様もまた同じようでした。

 

 「あきさん社宅を出るのは早い方がいいの~これは私の精一杯の気持ちとして、貴女の落ち着き先の助けになったらという私の気持ちとして、受け取って欲しいの」

 言いながら、お母様は私の手に白い封筒をおくのです。

 渡された封筒を反射的に受け取りました。

 分厚い感触が伝わってきました。

 

 そうだった~お母様はミカちゃんを田舎に連れて行くだけではなく、この用意をするために帰られたのだと~知りました。

 本来なら返すことです。

 でも私はそうしませんでした。

 遠慮なく受け取ることにしました。お母様への私の返事をそれで示そうとしたのです。

 

 私の決意が固まったのです。

 もう迷いを捨て去ることを自分の胸にきざみました。

 どうどうのたうちあがこうと、私の住処<すみか>はここではなくなったのだと覚悟ができたのです。

 立ち上がり和室を出てカウンターから携帯を取って戻りました。お母様の横並びに座ると、携帯を開け正人さんのアドをお母様に見せました。

 「お母様、正人さんのアドレス消しますね。このマンションのアドも消します」

 お母様に見せながら操作して消し去ります。これで正人さんがどこにいても声が聞くことのできる絆は消えたのです。

 

 吐き気のような悲しさが喉元に上がってくるのを抑え込みました。

 正人さんを忘れるのよ~自分自身に言いつけます。

 「正人さんの大事なものは金属ロッカーにあります。正人さんの身の回りのものは

納戸のボックスに名前を書いてわかるようにしています。お母様ミカちゃんをお願いします」

 今度は私が畳に手をついて頭を下げたのです。

 「ありがとうあきさん、こんなひどい親だけど私は貴女を娘と思って忘れませんからね」

 お母様は私の手を取ると、離すことを恐れるように握った手に力を入れてくるのでした。

 「これからもの入りになるのだから、この家にあるもので必要なものは持って行っていいのよ。それに指輪は返さないでね。せめてそれだけでも正人さんとの思い出として持っていくのよ。」

 言いながらお母様の目が潤んでくるのを見て、もう耐えきれなくなって嗚咽がせりあがるのを抑えきれなかったのです。

 <続く>