79回
お母様が小男鹿を一本だけ持って、お隣に出掛けられた後、私は気が気でない思いで思案していました。
当然お母さまは私の評判聞きだそうとするし、お隣の奥さんがそれに対しどう答えるのか?予想もつかないことだけに心配があるのです。
お隣の奥さんとは廊下で顔合したとき、一言、二言話すだけの関係で、髪に白いものが混じったお母様と変わらぬ年配の婦人だけど、私にはいつも娘に対するように優し気な<もの言い>で接してくださるのです。
だから私も心配しながらも、少し安心の気分で居れるのです。
「ママどうしたの?黙ってもの言わなくて~」
テーブルで頬杖ついている私にミカちゃんが膝をゆすります。
「ああほんとだ。ミカちゃんママね、晩のお料理なにしょうか?考えているの、おばあちゃんは何が好きかな~て」
「それはママね、湯豆腐だと思うよ。ミカが田舎でおばあちゃんと居るときよく湯豆腐食べさせられたもの」
「わかった~じゃ湯豆腐にして、あとはお魚の焼き物に、ほうれん草のおしたしにしましょう。それでいい?ミカちゃんが食べたいものある?」
「それでいいよ。おばあちゃんがね、お料理は出された料理を全部食べてあげるのが、料理を作った人へのお礼になるのよ、て言われているもの」
「へえ~ミカちゃん素敵なこと覚えているんだ。ママ勉強になった。ありがとう」
お母様は優しい反面、小さな孫相手でも厳しく教えておられるのだと、知って私はこれは私自身にも言えることと緊張して、お母様に接しないと~自分に思うのです。
「じや、ミカちゃんおばあちやんがお隣に行っている間に、スーパーに行ってお料理の材料買いに行きましよう」
テーブルに<買い物行ってきます>と、メモを残してミカちゃんと手をつないで出かけたのです。
スーパーは夕方の買い物客で込み合っていました。ミカちゃんの手を引いて店内を回ると、商品を載せたカートを引いた人たちと三アニスするのです。
豆腐と水菜、ほうれん草、だし昆布と買って、さて、焼きものにする魚となるとパックの魚はとてもお母様に食べてもらう気がしません。
「ミカちゃんお魚屋さんに行こう」
スーパーから少し足伸ばして、鮮魚店に行ったのです。そこなら活けの魚があるのです。
「ママ魚が泳いでいる。」魚屋に入ったとたんミカちゃんが叫びます。
コンクリートで囲まれたいけすがあるのです。多分井戸水からでしょうか?水が注ぎこまれて水の波紋を通して、大小の魚が泳いでいるのです。
ミカちゃんがそれに見とれている間に店内を見て回ります。
ガラスケースにはマグロやイカ、サケなどの刺身があるけどお母様にはどうかと思ってパスです。
台の上には巨体のぶりが横たわっています。刺身にできるハマチも一匹丸ごとです。こんな大きい魚をさばくなんて私にはできません。魚箱にはサンマが銀燐の見るからに新鮮で並んでいます。
でもイワシ、カレイと同じくは今日は遠慮します。
ああ、お母様に食べて頂けるような焼き物にする魚はどれ?首傾げます。
「姉ちゃん今日はアジがいいよ。今朝入った刺身にできるやつだよ」
カウンターに居た鉢巻のおじさんに声掛けられました。
「ええアジが?どこにあるの?」
「いけすで泳いでいるよ」
破顔するおじさんです。
これはもう絶対です。
「3匹ください~」声張り上げます。
おじさんが網を持ち出すのを見て、ミカちゃんに声掛けます。
「ミカちゃんそこの水槽のお魚すくってもらうのよ」
「ええ、ママどのお魚なの?」
「アジよ、アジのお魚」
ミカちゃんとやり取りして、おじさんが網でアジをすくいあげるのを見ているときでした。背中で声がしたのです。
「やっぱり若くてもエリートでこれから偉いさんになる主人を持つひとは、食べるものも違うのね」
なにか嫌味な言葉に反応して振り向いたのです。
矢張り、社宅の課長補佐と聞いているご主人の奥さんでした。苦手な気持ちを振り払って「こんにちは~」と頭を下げました。
「穂高さんは外地の出向から帰られたら、いよいよ東京の本社詰めの偉いさんになられるのでしょう?うち<主人>などたたき上げの万年で東京なんて夢ですものね」
なにか当てこすり言われているようでいい気分ではありません。
「そんなお話主人から聞いていませんの。まだまだ半年の外国ですもの、どうなるか分かりません」
正人さんのことです。会社でまた噂のタネにされないようにしないと~、気を付けて返事するのです。
「でも気を付けないとね。東京詰めの偉いさんともなると、穂高さんも身の回りにうるさいから。大変ですよね」
なにか気になる言い方です。<そんなこと言われなくても主人は心得ています>
言いたかった~ホントに口から出そうでした。
「へい、姉ちゃんお待ちどうさんです」
魚屋のおじさんの声がして、ビニール袋のアジの包みを受け取って、払いはさすがに活けのアジ、スーパーの倍の値段です。
でも、今はとにかくこの場を早く離れたいのです。
「失礼します」
形だけの挨拶して、まだいけすを覗き込んでいるミカちゃんの手を引っ張ったのです。
社宅に帰ると、お母様は戻っておられました。
「お帰りなさい」
「おばあちゃん只今」
「お母様お待たせしました。すぐに夕食の支度をしますので」
「私も手伝いますよ」
「いいえ、お母様、簡単ですからミカちやんの相手お願いします」
エプロンを羽織っていてお母様とのやり取りに、ふと気になりました。
お母様の表情が固いのです。いつものにこやかな笑顔がありません。
<なにかお隣とあったのでは?>
ひょっとしたら~私のこと聞かれたのか?
まさか?と思いながら不安になったものの~
夕食の支度に追われてすぐ頭からそれは消え去ったのです。
<続く>