(ロシアのウクライナ侵略止めさせましょう)

(写真・2017年秋京都)

 

(  91歳、わが青春に悔いなし )

 

古い写真引っ張り出しました。

私にとって87歳ははるか遠くに思えます。

 

 

 この時分は静かな時でした。遅まきの青春楽しんでいる気分。

 87歳で青春でもあるまいに~

 思われるのは承知~でも、戦争をくぐってきた私には戦中、戦後生きるために青春どころではなかったのですから~。

 

 17歳、今なら青春謳歌するところですが、戦争は終わって間もないころです。生活難で学校は中退させられました。働いて家の家計を助けるためです。

 それでも母の手振り切って学校に行くために駅まで行ったとき、母が追ってきて家に引き戻されたのが今も苦い思い出に残っています。

 

 勤めに出されたといっても、17歳で30キロの体重の栄養失調のままです。

 背丈は今の小学校並みです。当時は中等学校で小学校卒業すると、受験して入るのですが、今の高校ではなく中学校になります。

 

  大人と比べてその胸位の背丈にしかならない自分に私はコンプレックスの塊でした。

 <大きくなりたい>それ ばかり考えて、仕事から解放されると高い歯の高下駄をはいて大人と肩並べようとしたのでした。

 

 戦争は終わったといっても食糧難は続いていました。

 若者の楽しみなどありません。とにかく食べることが第一、腹いっぱい食べて大きくなりたい~

そればかり考えていました。 

 

 食料は配給制で家族みんなの食べるにはあまりにも少ないものでした。

 だから当時の風潮は買い出しでした。田舎へ行って農家から食料を調達するのです。

 

 それは配給制のもとでは法律違反でしたが、食べるためにはそんなこと言ってられません。

インプレでお金はなんの値打ちもないのです。

 

 着物をはじめとして着るものと米を交換するのです。

 家族の食い代のために働く以外に私は小さな体で、毎週買い出しに出かけていました。

 

 あるときなど<物々交換>するものがありません。

 田舎道を一軒一軒まるで物乞いのように農家を訪ね歩いて頼んでも、品物を持たずに金で買うといっても応じてくれないのです。

 

 そして一軒の農家を訪ねたとき、おばあさんが出てきたのです。

 「気の毒やけど、毎にのように買い出しにきてものと交換してくれと言われるのやけど、うちも食べなあかんしな~」

 

 言いながら私を見定めると~

「小さいか体でまだ小学校で買い出しして~可哀そうに~」

 

 言って一升の米を私の言い値で売ってくれたのです。恵んでくれるような感じでのやり取りです。

 私が小学校の制帽被っていたので、小学生だと思ったのでしょう。

 でも私にはそれでもいいのです。

 

 一升の米があれば家族みんながおかゆにして2日食べられるのですから~

 だから世の中落ち着いて、食べ物が出回るようになってからは<大きくなりたい>そればかりで、とにかく食べました。

 

 スキーに行ったときなどカレーの大皿を2杯、お汁粉を3杯~食った、食った~で、当時、おおきくなりた~その思いであらゆる運動に手を出しました。

 

 スキー、スケート、卓球、テニス、野球、相撲、水泳、柔道、剣道などなど~当然のことこれだけ手を出すと、全部物になる筈はありません。

 

 でも私にはそれで良かったのです。目標は大きくなりたい~ですからね。

 確かに大きくなりました。

 背がぐんぐん伸びました。170センチの身長迄いったのですからね。たしかに当時としては高い身長でした。

 

 電車に乗ると混み合うひとのなかで、私は人の頭を見下ろしてましたものね。

 でも残念ながら栄養失調がたたったのでしょう。骨組みができずに私は細くもやしのように伸びただけだったのです。

 

 今、電車に乗るとサラリーマンの人々~中年の人達などっぷりと肥えた巨体の人達がずいぶん多いのです。

 私より背がたかく、私より一回り大きくて圧倒されて、自分が貧相に思えるほどです。食生活が変わって外人並みの体格に日本人はなってきたのでしょうか?

 

 でも私はコンプレックス感じません。

 モヤシなりの利点あるのです。妻との結婚です。

 

 細くても、当時27歳で<170センチ52キロ>だった私に、妻に取っては、家の商売は嫌い。背の高いサラリーマンに嫁入りしたい。願望に私がぴったりだったというからです。

 

 そして私は、前にも書きましたが、乳房の大きい女性を妻に~恥ずかしい基準に妻がぴったり

だったのですから~。

 

 

 そしてもう一つの利点です。80台にして、なんの回り合わせか?女装にのめりこんで分かってきたのは、女性並みの小顔、そして女性並みの体型、これは女装にぴったりだということです。

 

 今では撮影で、スタジオに行く時から、自宅から女装して行きます。

 メイクはメイクの先生<女将さん>のメイクしてもらうので、すっぴん女装です。ウイッグと女性衣装だけで、メイクなしです。

 

 それでも女に見えて見破られることはないのが、私の自慢なのです。

 いまでは、それを良いことに自宅でも女装する始末です。

 

 当然、マンションのことです。エレベーターでもお隣さんと乗り合わします。

 そしたらお隣のおじさん、恥ずかしそうにしてエレベーターのボタン押して私の乗るのを待つのですから、私の方が恥ずかしくなります。

 

 今日も散歩から帰ってきたら、散歩で知り合った同じ棟のおばさん。マンションの清掃のおばさとしゃべっているのにぱったりです。

 

 「昨日は私の部屋替えなのに来てくれなかったじやないの」

 「そんなこと言っても、これでも私は男ですからね。女性の部屋に行けるはずないでしょう」

 私が反論すると清掃のおばさんそばで笑っているのです。

 

 「そうですよ。私は男は部屋にいれませんよ。でも貴女は女でしょう」

 いいながら二人して笑うのですからね。

 

 今や、家族だけでなく、地域でも公認です。毎週来るヘルパーさんも知っています。息子さんと一諸に私の「とくみチャンネル」見ているのです。

 

 お店に行くと、どこでも言われる共通語は<信じられへん>です。91歳と紹介されるとお店のお客さんが必ずいう言葉なのです。

 

 91歳のイメージなんて無くて、先生<女将さん>に言わすと、目じりにも皺がない~なんてね。

言われても当然。私は朝、晩必ず洗面して手入れをしていますからね。

 

 背筋がまっすぐ~姿勢がいいこともあって、年寄の女装のイメージがなくて、若い人達と話ができて~いえ、私のいう若い人達は50代の人達ですが~。

 

 そして90台の年齢がなにか相手の方に安心感あたえるみたいで、それが私の<女装公認>につながっているのかもね。

 

 初めに戦争時代の苦労の話したのに次元の違う話になっているかも~

 でもお判りいただきたいのは、<妻を愛し、女装を愛す>私には、この幸せが平和によって保障されていると感じているからです。

 

 ロシアのウクライナの侵略戦争の記事を見ると、ただただ命を守ることさえおぼつかなくなっているウクライナの国民の姿に、自分が今置かれている幸せなあり様と比べて、同じ人類としてこれでいいのか?そんな想いに駆られるのです。

 

 その想いが私に声上げさせて、訴えになり、みなさんに共感求める行動になっているのです。

 日本のあの戦争によって、若者たちの青春は奪われました。

 

 私もまた、若い時代の青春を謳歌することは、かないませんでした。

 でも、今、私には病床に居るとはいえ、愛する妻が居ます。

 結婚してから妻と過した日日~、子供達と共に暮らした日々~

それは私にとっての青春なのです。

 

 そして今は女装を満喫しています。それもまた私の青春なのです。

 

 91歳になっていたにせよ。その青春が今も私にはあります。

 <わが青春に悔いなし>なのです。


 

終わり