(写真)2017年3月 87歳

⑪ 旧戸籍法と庶民

 京都から帰ってから、私は養父や母に対する見方が変わったように思える。

社会常識だけでは理解できない物事があることを知ったのだ。自分自身のことを見てもそうと思うのだ。

 旧の民法とはなんだろうか?、戦争の道に突き進んでいった昭和の時代、そこには時代を照応して、明治時代の民法の姿が継承されているのだ。その明治とは、富国強兵を旗印に世界に観たるたる国造りに向かって民衆をかりたてていくには、国策に国民を結集させる方策の一つが、個人の自由でなく家を主体にした家父長制度としての旧民法の役割があったと私は思う。

 

 でも、権力と思想動員されるなかでも、民衆の欲求は抑えられなかった。

 それを私は自分の家族の系譜に見る。

 養父は<家のためにと>押し付けられた妻を捨て、家を捨てて、母との不倫の道を突き進んだ。そして私の父もまた長男、長女は結婚できないのを承知で母と夫婦の道を選んだ。

 そして母もまた父と五人の児をなしても同じ籍に入ることはできず、わが家を自分一代で絶えさせる道を選んだ。そして母は私を産みながら、唯一の望まれた男子として父の家を継がすために戸籍でのわが子との縁を切る道を選び、叔父夫婦もまた、母を助けて母の産んだ子をわが子として入籍したのである。それに部外者の助産婦もその一人になる。

 彼らに共通するのは国の国策として作られた法<旧民法>をかいくぐって、自らの欲求を成しとげたということである。私はその姿に時の厳しい権力の支配と戦うなど思いも寄らぬことにせよ。国策を否定することも考えていないにせよ、ただ、自らの欲求に従って行動して止まぬそのエネルギーに私は感動する。

 

 妻のことを話していたのに、<3参照>いつの間にか、私は家族系譜の話に入ってしまったようだ。

私の女装歴を面白く書くつもりが、なにか深刻な話になった。

たから私のフレンドさんが「あんなこと書いていいの?」心配そうに言われて私はびっくりした。私の母の不倫にまつわる話のことを言っているのだろうとは察しが付いた。

 だが<講談師ホントのような嘘をつき~>という川柳があるが、私は小説を書くつもりで、一人称だけど客観性で書いているつもりだ。私事のことは離れている。だけど小説を、実際のことと受け取られることは最高の誉め言葉になると嬉しい気持ちになった。

 

 余談をおいて女装に入る前に妻とのことをもう少し話したい。

 妻は今、コロナ禍で施設で閉じ込められて、私は面会もできない状態である。そして私の心配は長い期間、互いの顔を見ないでいたら妻が私を忘れてしまわないか?その杞憂に私は常に襲われる。だからコロナ禍が一時小康状態になったとき一度だけ面会に行けたとき,杞憂とわくわくする思いが輻輳した複雑な気分だった。

 面会といってもテーブルを挟んでビニール仕切りを隔てて顔合わすのである。

「お母さんやっと会えたね」声をかけると車椅子の妻はうつむいていた顔をつと上げて私をじっと見つめる。かすかに声を出したが難聴の私は聞き取れない。

「手を挙げて~」私に言われて手をあげようとする動作はするが、腕が上がらない。たまりかねてビニールの下の隙間に手を差し込んで指先で催促するがダメである。

 付き添いの介護師さんが見かねたのか、妻の腕に手を添えてビニールに押し当ててくれる。私もビニール越しに自分の手を妻の手に押し当てる。

 妻の表情は変わらないが、目だけは大きく開いて私を見つめている。<分かっている!>安堵の想いが私の内を流れていくのを感じた。だが、面会時間10分はあまりにも短い。

 介護師さんにうながされて私は立ち上がる。

 「お母さん帰るよ~また、来るよ」声をかけ手を振ると~妻の右手がテーブルにまで上がるのが見えた。「手振ろうとしている」

喜びが私を満たしていく。私は車椅子に押されて去っていく妻の後ろ姿に手を振り続けるのだ。

 

 妻が私の家に入って7年目のことである。私が妻の変調に気が付いたのが~

女の児が二人生まれ、上が6歳したが4歳家庭に落ち着いてきた時分である。

妻の表情に険しい顔つきのあることに気が付いたのだ。そういえば言葉使いがなにかけんけんして怒っているようでおかしいのだ。

 なぜかおかしい~思うのだが理由が分からない。友達の医者に相談した。私に家の内情も含め根ほり聞きただした医者はこう告げた。

 「僕は心療内科でないからはっきりと言えないが、大家族のなかの主婦のストレスが溜まっていると思う。このさい思い切って別居して奥さんを解放させてあげるのが、唯一の対応と思うよ。」

 告げられて私ははっと気づいた。自分の家庭の不満を感じていても、妻がどうなのか?まるで思いつかなかった自分自身に気が付いたのである。

 妻は私が感じる以上に家の、大家族のストレスさらされていたのだと~

 不満はあっても私は仕事で外に出て家庭のストレスは発散できる。しかし妻にはまるで逃げ道などないことに~家の主婦として24時間家庭に縛られているのだ。

 多分家に仕える嫁の役割を母親からこんこんと言われていたに違いない。だがお嬢さん育ちの妻にはまるで我が家と違う環境のなかに置かれて、逃げることなどまるで思いつかぬまま、主婦の辛さを溜め込んできたに違いない~

 

 なんとかせねば~思いたったがことはそう簡単ではないのである。私の働きで家を支えているのである。それを失うことなど母が承知するはずないのである。といってこのまま見過ごせば妻がどうなるか?友人の医者に言われるまでもないことなのだ。

 私は仕事仲間の友人に頼んで家探しをしてもらった。

 家が見つかった~連絡があったのはすぐだった。敷金は三万円だという。私にはそんな手持ちはない母の手に給料は渡されてしまうのだ。妻に相談した。妻の里から借りてくれと頼んだのだった。

「それなら大丈夫よ。私が出します」言った妻の表情が嬉しそうだった。

「ええ、そんな金どこにあったの」私の怪訝な顔付に妻は笑い声をあげる。

「女はへそくり上手なのですよ」返事はそれだけ後の説明はない。しかしすぐ私には分かったのだ。

月3千円ぽっちりの母からの渡される金額で3万円も貯められる筈はない。里からせびった金だとすぐにわかる。でも、妻はそれを使うことなく貯めていたに違いない。お嬢さん育ちの妻がそんなつつましいことができるとは?7年の結婚生活でここまで成長したのか。私は感動に包まれたものだった。

 

 翌日、私は母の留守のあいだに妻と連れ立って家の契約に出かけた。上の子供は幼稚園だし、下の子は姉に預けた。

 借りる家は決して大きい家とは言えない文化住宅の連棟の1軒だった。契約して大家から渡された鍵で扉を開けると人一人の狭い土間があって、上がり口にすりガラスの戸がある。

 開けると4畳半の狭い畳の間があり、隔ててふすまが閉まっている。部屋に上がって妻は駆けるようにふすまを開ける。今度は6畳の部屋があって、ガラス戸を開けると台所に風呂もある。

 「ぱぱ私達の部屋が2間もあるわよ」感極まったように妻は声をあげ私に告げる。

 「ほんとだ、4畳半の間の家での家族4人の暮らしは終わりだね」私はつられて答える。

 妻と顔合わして知らぬ間に私達は誰はばかることなく、家族の目を気にすることなく抱き合った。

 

 この文化住宅に家族4人の生活を始めてから、妻はしみじみと言った。「パパさん自由ていいね~」

 それは私も同感だった。文化住宅の連棟の、2階の住人の歩く音がギシギシ天井から聞こえる狭い小さい家でも、家財道具は友人の軽トラに妻の嫁入りのタンスだけしかはこべなかっても、いや、鍋、さら、茶碗に至るまで友人がら集めての新生活でも私達は幸せだった。

 それは妻も同じだと思う。親子4人の家出である。母には<明日家を出る>通告して否応なしに家出した手前、何も持ち出すことは叶わなかった。すべてが一からの暮らしなのだ。

 だが、そうであったとしても、私も妻も自由は何物にも代えがたい想いだったのである。<続く>