⑤ 女の戦い

 

 

  母の不倫の相手は勿論養父である。

 先に述べたように大阪で饅頭屋の店を持ち、同時に下宿も合わせ始めたのは、次女と私を連れた未亡人の母が生活していく手段として選んだ道だったのだろう。

 当時、私はまだ二歳ぐらいだったと思う。母の話では、幼い私は店の餅を持ち出して店の前の道路でぺったんぺったんしていたという。

そんな私だったから母と養父の関係など知る由もない。いつの間にか養父は戸主として私の家で同居して、母は義弟~二人の子供を産んでいたのだ。

 その辺の関係は私が成人して、就職の関係で戸籍謄本を取り寄せ、また、庭伝いに住んでいた末娘になる姉から聞いて知りえたことを私が復元してみたのである。

 それはまさに衝撃的なものであった。

 一つは母は養父とは結婚していなかった。戸籍にも入っていなかった。調べていくうちにわかったのは養父には歴然とした妻と二人の子供がいたのである。徳島の郡部に代々続く家の戸主が養父なのだ。

 しかし母と養父との間には二人の子がいる。普通なら私の義理の弟になるが二人は養父の姓を名乗っている。じゃ養父の妻との間にできた子供か?思ったが違っていた。養父の庶子であった。

 庶子とはなにか?戦後廃止されたが民法旧規定では<父が認知した私生児>という意味である。いわゆる妾<めかけ>の子ということである。当時の民法では、私の母は養父の妾~二号になるのだ。

 私はそれを知ったとき、ふと姉の言葉を思い出した。「近所のひとに言われたのよ。あんたのお母さんはお妾さんで下の男の子はお妾さんの子供になるのよ」近所の人は何のつもりでそんなことを姉に告げたのか?姉との会話の中で私の家の話から、親切ごかしで姉に教えるつもりで言ったのかもしれない。「もう、お母ちやんたら、本当に恥ずかしい~私、外を歩かれへん~」言って姉は涙ぐんだ。私はまだ母と養父とのいきさつについて知らなったが、母をそんな恥ずかしい立場に追い込んだ養父を憎んだ。

 そういえば義弟達~小さいときは私を兄と思ってよく遊び相手にしていたのが、成人するにつれて、憎しみのような視線を私に向け、よそよそしくなってしまったことの原因がそれにあったのか?と気づいたのだった。幼い時から妾の子と云われて育ってきたのだ~それでひねくれた態度を見せるようになったのか?可哀そうな弟たち~そんな想いが私の内を横切ったのである。

 そしてその瞬間私のなかで何かがはじけ飛んだ。フィルードバックが起こった。

 

 私は広い間取りの部屋にいた。わぁわぁ泣き声をあげていた。

 鬼の形相の老婆とさえ見える女性がいた。その手は母の豊かな髪の毛を束にして握りしめ畳に仰向けにされた母の体を引きずっていたのだ。母はばたばた手足を動かして畳に手の爪を立て動きを止めようとするが、女の引きずる力に負けて引きずっていかれる。

 「この泥棒ねこめ~私の主人を妾の分際でたぶらかして、子供を認知せよだと~そんなこと許すものか!殺してやる」

 叫ぶ女の形相の凄さ~幼い子供の私の中に本能的に女の情念の恐ろしさを私の心の奥底に植え付けたのだと思う。

 「あき子~助けて!たすけて!」母の叫び声が私をおびえさせ、私の泣き声はますます高くなる。

 だが、母の助けを呼ぶ相手~姉~次女の姿が私には見えない~私より七歳上の姉はこの時十二,三位歳ぐらい?そんな子供にこの凄まじいまでの女の怨念の戦いに分け入ることなどできる筈はない。

 この事件がどのような終息を迎えたのか?私には知る由はない。でも、推測はできる。

 義弟達が養父の姓を名乗つていることで養父の子供として認知されている。しかし庶子である。本妻の子供として認知を養父が頼み込んだことで本妻の激怒を買い認めさせることができず、本妻が母の所に乗り込んで事件が起きたのだろう。

 本妻に認めさせるとは~民法上違法になるが、子供を庶子にさせないために、母が産んだ子供を、本妻とのあいだで生まれたと届け出、認知することである。そうすれば子供はいわゆる妾の子供でなくなるわけだから。しかし子供からすれば戸籍上では実の母親が他人になるのである。子供にとってこんな辛いことはないだろう。しかし当時の社会構造では妾の子と辱めを受けるより良い。親からすればそう考えるのだろう。庶子として烙印押されれば、軍隊に入つて<当時は徴兵の時代>手酷い制裁が待ち構えていたからである。

 

 しかしこの事件の後、私には解せないところがある。養父がどんなふうに本妻を納得さしたのか?その後養父は本妻とのよりを戻すどころか、これを契機に私の母と同居して二人目の子供を産ませているのである。

 いくら男性上位の時代とはいえ、本妻は夫にこんな仕打ちをされてなぜ、これを黙認しているのだ。中年になって余裕のできた私はこの謎解きに挑んだのである。

 先に述べたように養父の家は徳島の奥、山間の村落にある。この土地だけには限らないが、この時代の家族のありかたは個人ではなく家が中心の伝統的な明治以降の民法の定めることをそのままの思想が支配している時代である。家を最小単位として、戸主<家長>を統率者として子孫につなぐ制度として、長男に家督相続を定め、個人尊重より家が上位に立ち、男女不平等の制度で支配されていた時代である。

 養父の家もまた当時の民法の定めるところにより、家は養父の兄が家督にあった。ところが戸主のその兄が死亡したのだ。そのため養父が戸主として継ぐ立場になるが、親類縁者が寄ってたかって、若い養父に未亡人となった兄嫁と結婚することを強制するのである。兄との間には幼い子供が一人いた兄嫁には生活手段がなかったので、弟に家を継がせることで、兄嫁を押し付けたのだ。しかし名目は家を守るためが大義名分だった。

 しかし徳島の片田舎では働き口などなかったので養父は、大阪に出て電力会社の技術者として出稼ぎに行く。月に一度家に帰るような生活の中で賄い付きの下宿先が私の母の店であったというわけである。

 夫をなくし子供連れの未亡人の母、気の強い好きでもない兄嫁を妻としながら独身生活同様の養父。その二人が一つ屋根に住んでいるのである。

 愛欲からつながったとしても、いつか夫婦同然の関係になるのに時間はかからなかったに違いない。第一後先考えずに子供まで作ったのだから~当然のこととして事件が起きたのである。しかし当時幼かった私が成人し、結婚するようになって次第に謎がとけていく。

 養父の籍を抜くことは生活の手段を失うことに通じるので兄嫁は、私の母と夫が同棲することを黙認しても、籍だけの夫でも別れることは承知しなかった。その条件は生活保障だった。

 

 そして母もまた二人のわが子を抱え、やがて生まれ来る養父との間の子を養うためにも、たとい籍の入らない夫でも家長として同棲して、年下の養父が先に死ぬまで夫婦と同じ暮らしを続けたのである。

 私は思う。養父をめぐって二人の女の情炎の戦い~それは裏返せば、わが身と、子供を守るために計算高いしたたかさをもつ二人の女性の姿を私は垣間見るのである。

 私が結婚した頃、私はまだ母と養父の、姉の言うところの<世間体の悪い>二人のあり様を憎んでいた。養父が別れた筈の元妻の許に毎月のように行くこと、そして稼いだ給料の半分を貢いでいることに養父を憎んだ。

 大家族を支えるために養父から受け取る稼ぎでは、生活できないために、私を高等学校を中途退学させ働きにやった母。隠れて学校に行こうと駅にたどり着いた私を駅まで追いかけてきて家に連れ戻した母。十代で働きに出されて最初の給料日、母が仕事場まで給料を取りに来た時の屈辱は忘れることができない。

 そんな母の姿に女性の姿を垣間見た私だから、多分、恋愛などできなかったのでは?そんな解釈をして女性への臆病な接し方しかできない自分を正当化していたように思えるのである。

 

 その私が妻と出会うことで、それが乳房フエチから衝動的ともいえる気分だけで結婚した私だったが、初めて女性の真の姿を、優しさを知ることになるとは思いも寄らないことであった。

 しかし母を取り巻く凄惨なまでの話はまだまだ続く。それは母だけではない、私の父、そして私自身をも巻き込んで封建的な家族制度のなかで生きていく厳しさに出会うのである。<続く>