④ 結婚生活

 1991年(平成三年)に私は仕事から解放されて<実際はそうならなかったのだが>妻の里の近く徳島に居を構えた。

 妻と結婚してから3回目の転居であった。

 私の実家に嫁入りして、そして自分達の家に移り、最後に妻に引かれて徳島に家を買って老後を夫婦で過ごそうというのが、私達の想いだったのだ。だが、まさかこの家を出る羽目になるとは当然のことだが思いもしなかった。ネクタイでも買うような思い切りで当時としてはバブルの時期の高い家を買ったのも、苦労させた妻への私の最後の贈り物の積りだった。

後で話すが、だがそこには添え物がついていて、また妻に新たに苦労させるという心苦しさも私にあったことも事実である。

しかし、そこまで行きつくには、私達の結婚生活からの話をしなければならない。

 

 結婚して大家族の私の家に嫁いで、二人の娘を成し、娘達が幼児になるころまで妻は本当に頑張って私の母を助けてきた。朝は誰よりも早く起きて家族全部の弁当作りも含めて朝の支度をする。夜は一日の跡片付け、あくる朝の準備に追われて最後に寝るという、そんな繰り返しの毎日だった。そして私も仕事の関係でしばしば妻よりも早く起きて出かけるときもあると妻には寝る時間も残らない~ときもしばしばだった。

 夜勤から私が帰って寝間で寝ていると朝の支度を終えた妻が、着物姿のままで私の横に潜り込んでくるのだ。ただし、私の期待に反して寝るためである。妻の着物姿は結婚して私の家族と同居している間続いた。洋服のフアッシヨンなどまるで縁がなかった。

 それというのも家計の財布は母が握っていたからである。私の給料袋は封も切らずに母に渡すのは私の独身時代からそのまま変わることはなかったのだ。私達夫婦に母から渡される毎月の金は三千円だった。小遣いではない。私達二人の身の回り品を買う金である。だから妻には金を使う楽しみなどまるでなかったのだ。洋服など自分のものを買うことなく嫁入りの時持ってきた着物を着て通したのだ。でも、妻は私のものは欠かさず買っていたのは不思議だった。どうも里の母からお金をせびっていたようだ。

 だから妻が身重のときなど私は家人に気づかれないように裏口から出て、牛乳を買ってきて妻に飲ましたものだ。

そんな環境のなかでは 私達には結婚直後の新婚の甘さなどまるでなかった。二人きりでの旅行は新婚旅行で日光、箱根に行ったきりで、老後のウン十年たってから二人で行けたのものである。

  このような家での生活は私の結婚への甘いロマンスを描いていた夢を微塵に打ち砕いた。妻と接することが思うがままにならないのだ。私より家事にかかりきりの妻。いや、妻ではない、お手伝いが家に居る。そんな感じでしかなかった。

 若い私はそんな家の環境に内心不満をいっぱい自分の中に溜め込んでいた。だがそれを言えるはずなかった。母にあたれば、養父との諍いが起きるのが分かっていたからである。幼い時から私はこの家庭で耐えることを強いられ、従ってきたことが身についていたのだ。

 耐える~それが幼い時からの私に課せられた生き方であった。子供の時からある意味私をそう躾けた相手は母であったが、実際は養父の意志が母に反映していることを、子供心に私は見抜いていたのである。

 しかし結婚するころには成長した私は体力的にも養父を越えて、自分の持つ不満を口に出すようになった。特に養父への不満はしばしば母にぶっつけた。しかし母は自分への不満と受けて必死に養父を守ろうとするのだった。

 そんな母が哀れで私は口をつぐんでしまうのが習いになっていた。だが結婚すると、私は不満のはけ口を妻に向けるようになった。安心して不満を吐ける相手は妻だけであった。5歳の長女の前でもうっかり話すことできないのだ。

 「おばあちゃん、パパがね~」私の言ったことを母に告げるのだから。

 しかし考えると、私は妻の立場をまるで考えていなかったのだ。妻が面倒みるのは、私と子供たち二人だけではないのだ。母や、養父、二人の義弟、それに姉の子供までの世話をして、家事の負担とあいまって、妻には自分の時間など存在しなかった環境におかれていたのである。妻は はあまりにも過酷というほかはない家庭環境にさらされていたのだ。

 そのうえ私の家庭~養父の不満まで受け止めるなど~私の家のそんな環境に比べて、妻が育ってきた環境といえば~それを私は思うのである。

 

 妻の娘時分は、網元だった祖父に甘やかされるほど可愛がられ、両親に大事された娘時代を送ってきたお嬢さんだったと聞いている。結婚して妻の里に行ったときだが、妻が母親に立ったまま足袋を履かしてもらっているのを見て私は驚いたものである。私は母に甘えた記憶はまるでない。義父に遠慮してか?義父との間にもうけた二人の弟にのみに母は目を注いでいたのである。

 当然のことのように戦争が終わって学業が再開されても、私は中等学校を中途退学させられ働きに出されて私の願いだった大学への道は閉ざされたのである。私と妻を比較するとその育った境遇はまるで違うのに、どうして添い遂げることができたのか不思議に思うことがある。

 母はしばしば私に言ったものだ。「良いところの娘をお前がもらえたのは、この界隈で一番大きな家持ちだったからだよ」息子に恩がましく言う母に私はうとましく思った。

 それというのも妻が私のところに来てくれたのは、商売をしている自分の家が嫌いで店を持つところよりサラリーマンに嫁ぎたい~そんな思いをもっていたからだと私は知っていたからである。

 だが私にとっては愛情の薄い母だったが、妻は気に入られていたようだった。母は良く妻を近所のすし屋に連れて行っていたみたいで、妻は母から生活のあり様すべてを教えられて、いうところの嫁、しうとの関係は存在しないようで、それだけは私にとって救いだった。

 しかし大家族の中で子育てしながら、下働きのような生活の中で耐えに耐えて家を支える重荷は、お嬢さん育ちの妻にはあまりにも重荷だったと思う。そこへ私と義父のなかがぎくしゃくして、間に立って妻は神経をすり減らしていたのだと今になって私は思うののである。

 私はなぜか義父にうとましさを越えて憎まれていたようだった。多分可愛げがないというところなのだろう。

 小さいとき良く殴られ、時には井戸からくみ上げられた冷たい水を頭から浴びせかけられるのを見たと、祖母に預けられていた三人の姉の一人に聞かされたことがある。

 そういえば私にもある記憶がある。私がまだ小学生のころだ。多分家族のハイキングで山に行った時だと思う。山の連なりに沿って立つ電力会社の鉄塔を指さして母が言ったのだ。

 「あの鉄塔はお父さんが建てたのよ」その母の言葉に怪訝な気持ちが私の中で沸き上がったのだ。

 <自分の父は京都一番の料亭で板前頭していた筈なのに?>子供の私がそんな疑問を思ったのは、母からしばしば私の父のことを誇らしげに言われていたからである。

 「板前頭は板前を指揮する人なんだよ。料亭の女将さんでもお父さんには頭上がらない位偉いのよ。お父さんの作った料理を総理大臣や宮さんが食事するのだからね」

 私にはその母の言葉が私の父へのイメージだったから、山の上を走っている鉄塔と父という言葉はまるで結びつかなかった。その時の母にとっての<おとうさん>という言葉は、養父のことを指していることは、成人するなかで一諸に暮らして分かってきたことである。

 しかしたとい小学生といえども私のなかにある父のイメージは板前であったという、会うことのない父親の姿だった。

 実は私が生まれたときすでに父は亡くなっていたのである。まさに入れ違い~と云うほかはない。父の死因は脳溢血、急死である。京都に住んでいた父達のの家は当時の京都の戸建ての家の特徴で、厠<かわや>トイレは庭に独立してあった。庭石伝いに厠に行くわけである。父は夜中、厠から帰ってくる途中に脳溢血の発作で倒れたのが運悪く庭石に頭を打ってほとんど即死状態だったらしい。

 写真でしか父の姿を見るしかない私だが写真の父の姿は私と正反対で、でっぷりと肥えて体も大きく貫禄がある。 だが私の見るところでは血圧は高かったに違いない。高級料亭の板前頭である。馳走が常にお膳に供されるる贅沢な食生活であったと思うのだ。

 私と父とのつながりは、転居の際に荷物整理していたとき見つけた、古ぼけた昔の写真帖に張り付けられていた、この一枚の写真だけである。父と並んだ母は丸髷の髪で私の母のイメージとはまるでちがう。その腕には、私の姉である赤ん坊が抱かれている。父は夏の背広にカンカン帽で腰にまとわりつくように、長女と次女、三女が並んでいる。私の姿はそこにはない。

 私はその時すでに母のお腹に宿っていたのである。だが父は母の妊娠を知っていた筈だが、待ち望んでいた私、男子の誕生を知ることなく亡くなったのである。母は口癖に言う。

「お父さんは男の子が欲しいと始終私に言って<お前は女腹だ!>当たられたものだよ。末のお姉ちゃんに<あぐり>と名前つけたのは、その名前をつけると次の子供、男の子が生まれるということを聞いて<あぐり>の名前つけたのだよ。そしたら男のお前が生まれたんだけどね~」言いながら母は投げやりな表情を示すのだ。

「お前のできる<生まれる>のを待つことなく死んでは、お前を生んだ意味ないものね」

 母の愚痴のような言葉に、母が結果として私の存在は、余計な子供ということだったのか?思うことがある。

 しかし歳をとって私にも分かってきたことがある。

 私の父が亡くなったとき、母の家庭には父の母、歳とった姑<しゅうとめ>がおり、私の姉4人、そして私が生まれ、働き手は誰もいなかったのである。父が亡くなってそんな家庭の状況になって、母は当時の言葉で家長~所帯主になって家の責任を負うことになる。

 その家長の母がどう道を切り開いたのか?

 幸い父はそれなりの財産を残していたので、母はそれを半分づづ姑と分け合った。そして子供である。長女、三女、末娘三人の子供を姑に押し付けたのだ。姑に従うというのが社会通念の時代である。その時代に子育てを姑にさせる主婦。いったい私の母は当時どんな女性だったのか?。

 妻は感心して言うのだ。「おかあさんてすごい。うちの母なんかおじいちやん、おばあちゃんには絶対服従でしたもの。家でおぢいちやんにはっきり口答えできるのは私だけだったもの~」

 ふ~ん、私はうなずいて見せる。心中、妻もまた、私に嫁いだためにその母親と同じ境遇になっているのだ~と。妻が気の毒になるのである。

しかし私の母はその程度で収まるような女性ではなかったのだ。

 母は次女と私を連れて父と住んでいた京都を離れて大阪に移って饅頭屋と下宿屋を始めた。

 そして当時としては社会的に糾弾されるようなことをやるのである。

 不倫であった。

(写真)2020年4月京都<数え90歳>