9月18日(土曜日)  晴れ  ダブリン 


 昨夜は疲労し、午前11時まで眠る。よって朝食は摂らず。自室には、すでにスチームが入り、この国の寒さを知る。起床後、階下のフロントへ出向き、前夜に約束した通り、3泊分の朝食付きの部屋代を前払いする。 


 午後、外出。この1日を、ダブリンの市内見物に当てる。
ホテルと接する街路に立つと、意外にも暖かい。空気が澄み、好天。ホテルのあるオコンネル通りは、ダブリンの目抜きの中心街だが、パリやロンドンから飛んで来ると、文字通り「地方都市」である、酷な言い方をすれば"田舎"だ! 昨夜遅く着いたときは、街の状況が掴めなかったが、白昼での第一印象は、正直そうなる。 


ところが、この通りに不似合いなくらい一際立派な建物が、通りの中程の西側に建っている。中央郵便局である。19世紀の初めに完成したという建築の、その正面に並ぶ6本の大円柱の雄大さに、圧倒されない通行人は無いだろう。1916年の「イースター蜂起」の際、ここがアイルランド義勇軍の司令部になり、臨時大統領のパトリック・ピアースが、正面入り口の階段で「共和国独立宣言」を読み上げたという。イギリス軍によって大円柱は砲撃され、蜂起は鎮圧され、ピアースと15人の同志たちは処刑された。……ということは、この郵便局の建物こそは、長く壮烈な「アイルランド独立抗争史」の、間違いなく1つのシンボルなのだ。
建物の内部に入ってみると、古代アイルランドの伝説の英雄ク・フリンの像が、このイースター蜂起を記念して置かれている。像の下には、その折りの独立宣言が刻まれていた。…… 


 中央郵便局の近くに、小さなレストランを見つけ、入店。簡素で清潔な店内、慎ましげな老女性が給仕。ご当地の「アイリッシュシチュー」を注文して、朝昼の兼食を摂る。栄養豊富で満腹感あり、しかも廉価。


食後、オコンネル通りを南方へ徒歩する。少し行くと、近代のカトリック解放の指導者、ダニエル・オコンネルの彫像が立っている。その南にリフィー川が流れ、オコンネル橋へ出る。リフィー川は、さまでの広さは無いが、市の東西を貫流して、架けられた橋の数は多い。この川の北側が新市街、南側が旧市街とされる。 


 橋を渡った旧市街は、新市街よりも富裕だという。繁華街のクラフトン通りは、道幅は狭いが、ぎっしりとした人通りで賑わい、目を引く商店が建ち並ぶ。ストリート・ミュージシャンや、辻芸人の姿も見られた。 


 この通りの北東に、トリニティー・カレッジがある。16世紀の末、イギリスのエリザベス女王によって創設されたアイルランド最古の大学。創立の目的は「アイルランド人の野蛮さを矯正し、カトリックに汚染されるのを防止する」ためだったと言われる。入学者は長い間、プロテスタントだけに限られていたが、独立後の現在では、多くの学生がカトリックのよし。創立から今日まで、その卒業生は実に多士済々だった。……
立派な正門を潜ると、石畳と芝生の中庭が拡がり、鐘楼が見える。背後の広大な敷地に、幾つかの図書館や建物が、1つの教会のように十字架状に配置され、建てられている。しばらく静かな校内を歩いたが、土曜日のせいか人影が少なく、何処からかパイプオルガンの音だけが聴こえてきた。…… 


 旧市街の南方に、広さ9haという大庭園「セント・スティーブンス・グリーン」がある。足を踏み入れると、
その繁る樹木や咲き誇る草花、広々とした芝生が、市民の絶好の憩いの場になっている。スペインやフランスの王宮に見られる、手の込んだ幾何学模様の理知的な庭園とは全く異なる、身体や感情を解放する自然さが溢れている。庭園内には、イェイツやジョイスの像、19世紀半ばの大飢饉の記念碑なとが置かれているが、イギリスによるアイルランド併合以後の、1世紀半に及ぶ独立への苦闘の事跡も、この庭園内に刻まれている。 


 そこから引き返して、新市街のホテル近くまで戻った。ダブリンは丸2日も居れば、おおよそを見物できる規模の都市だが、僕の予定は、僅か1日だけ。新市街の北にある作家記念館、ジョイス・センターなどは割愛した。それとアイルランドは、ワイルドやイェイツ、オコーナーやベケットなど多くの劇作家を生んだので、ダブリン市内の中・小劇場には、観るべきものがある。だが、新市街のアビー・シアターやゲート・シアター、旧市街のガイエッティー・シアターなど、その個性的な外観を眺めたのみで、将来の見物する日を願った。 


 ホテル周辺のセルフサービスのレストランに入り、夕食を摂る。シーフードチャウダー。
食事中、いま観て来たばかりのダブリン市内の光景が、あれこれと脳裏に浮かんだ。……ロンドンに比べると、遥かに狭くて貧しい街々だが、素朴で野生的な活気がある。開拓地のような自由主義の雰囲気と同時に、何か古風で慎ましげなものも残っている。街角に佇む若者たちの眼には、鬱屈した気分が宿る。そう言えば、この街には「広場」が無かった。ヨーロッパの、これはという都市には必ずある「広場」が! そこにはまた、南欧のように噴水があり、人々の集いがあった。が、この北辺の地ダブリンには、広場と噴水が観られない。……


 ホテル「モランズ」58号室に帰る。暫時、休息して仮眠。
目覚めて、夜は絵葉書を数通書いて、入浴。11時半頃に就寝。



 ◎写真は   ダブリン市内を流れるリフィー川(亡母遺品の絵葉書)

       

       

        ダブリンのトリニティー・カレッジ(1971年9月18日に撮る)