7月18日(日曜日) 快晴 アテネ
ギリシアに来てから、快晴の日が続く。今朝も雲ひとつ無い。この時期、雨は一滴も降らないらしい。
朝8時半、観光バスが、ホテル「アリスティデイス」へ迎えに来る。この日は、アテネ市内の半日観光。
バスは、ホテル近くのオモニア広場から南へ下ってシンタグマ広場を通過し、まずハドリアヌス門を観る。紀元後2世紀に建てられ、その片鱗が今に遺されたが、どっしりとした姿だ。この門から北側にギリシア時代のアテネ、南側にローマ時代のアテネの街並みが、それぞれ築かれたと言われる。境界の門なのである。
アテネは、3千年を超える古都だ。北京や京都の比ではない。古代都市国家の時代、ヘレニズムの時代、ローマ支配の時代、ビザンチンの時代、十字軍の時代、ヴェネチア支配の時代、オスマン・トルコの時代、独立戦争の時代、そして近・現代まで、幾変転・幾星霜を経てきた。この都市には、西洋史の地層が堆積している。が、ビザンチンまでは概(おおむ)ね繁栄を維持したが、その後しばしば戦火を浴び、独立戦争以前はアクロポリスの斜面に、人口僅か1万程度の侘しい姿を晒す時期も存在した、と伝えられる。現在の人口は300万を優に超す、政治・商業都市であり、地中海観光の中心地でもある。
ハドリアヌス門で下車。続いて、近隣にあるゼウス神殿跡へ行く。この地には、ギリシアで最も巨大な神殿が、かつて存在した。107m Ⅹ41mの広さ、コリント式の大理石の列柱104本が、天を突いて居並ぶサマは、まさに壮観だった。紀元前6世紀末から、アテネの有力者たちが建設を推進したが、計画の中断が何度も繰り返され、ようやく紀元後2世紀の初め、ギリシア文化を憧憬したローマ皇帝ハドリアヌスによって完成された。ところが、中世の異民族侵入で取り壊され、採石場として放置されたため、現在では列柱15本を遺すばかりで、巨大神殿は跡形も無い。……しかし今、この15本の柱が見ものなのである!
焼けるような炎暑の日となり、太陽が中天でギラギラと輝き、見上げると列柱がつくる影によって、辺りが幽暗(くら)い。それぞれの柱が、生きて呼吸するかのごとく、不気味に沈黙している。フランス19世紀のロマン派の文学者シャトーブリアンは、この居並ぶ列柱を、エジプトの椰子の木に喩(たと)えたという。そうか、椰子だ、椰子だ。これは生きているんだと、僕は呆然として、ゼウス神殿の柱を見上げた。
アテネでは、アクロポリスに隣接し、特別保存地域にも指定されているプラカ地区に、多くの歴史的な街並みが広がる。バスは、ミトロポレオス大聖堂と、その隣にあるアギオス・エレフテリオス教会の前を、横目に見ながら通過。今日のアテネは、古代の神殿の遺跡よりも、ビザンチン以後のキリスト教の影響下の建物と、分かちがたく密接に結ばれている。大統領就任の宣誓式が行われる例からしても、それらが現代に生きている。
バスは再び北上し、重厚な外観の国立考古学博物館で停車して、1時間余り見学。1834年に開設、このネオ・クラシック様式の建物への移設が同74年で、世界的な博物館として関心を集めた。
デルフィとオリンピア、マケドニアとクレタ島を除く、ギリシア各地からの豊かな出土品を、先史時代からローマ後期まで時代別に分類し、すべてを56の部屋に展示してある。僕は、すでにミケーネを訪れたので、1階の第4室に収蔵された、シュリーマン発見の「アガメムノンの黄金のマスク」には、先ず目が離せなかった。発掘された金、銀、黒金、青銅、水晶などの、短剣やカップの煌めきにも、心ときめいた。
紀元前5世紀から3世紀までの、いわゆる古典期の芸術品が、第15室ほかに並んでいる。その15室の、エヴィア島のアルテミシオンの海底から、20世紀の初めに発見された、海の神ポセイドンの青銅の裸体の全身像は、館内でも有数の見ものとして定評がある。なるほど、美しい髪、気品のある繊細な表情、ガッチリとした筋肉質の威厳を備えた肉体には、量感が溢れている。
1階の奥の第40室にある、マラトンの沖合いから引き上げられた、ブロンズの少年像のしなやかな優美さ。彫刻家プラクシテレスの作と伝えられるが、これは溜め息が出るような逸品。第28室の、ペロポネソス半島の遥か南方アンティキティラ島で、1900年に漂着物として発見された、青銅の青年パリス像も名高い。紀元前4世紀の作とされ、表情の陰影、ふっくらとした肉体がリアルで、ヘレニズム期への推移が窺える。
館内の2階へ上がると、多くの陶器や壺などが陳列され、アルカイック期の最古の生活状態も窺える。描かれた神話や伝説は、今日では謎になったものもあるようだ。ガイドの話によると、昨年すなわち1970年、ギリシアの考古学者スピリドン・マリナトスが、サントリーニ島のアクロティリ峡谷の住居跡から、巨大な壁画を発掘した。それは、クレタ島のクノッソス宮殿の壁画と似ていて、共通のミノア文明を立証する。
壁画の保存状況は良く、そこには、少年2人のボクシング、漁場からの帰宅、花咲く春、若い女性、鳥や動物たち、とりわけ島々での人びとの自由な、奔放な海洋生活の日々が、楽園のごとく描かれている、という。そして将来、その壁画も、この博物館に収蔵されるかもしれないと、女性ガイドは笑いながら語った。僕は、この話に、胸がときめいた。その壁画を、ぜひ観たいと思った。……
アテネには、幾つか丘がある。リカヴィトスの丘、フィロパポスの丘。その最たる丘がアクロポリスで、「高所の都市」を意味する。標高は156m 、平地の町より100mも高い。長さ270m、幅156m、面積4haの台地だが、古代からの歴史的建物の遺跡が多く、見物には4時間を要するという。が、この日、僕たちに与えられたのは、半分の2時間にも満たなかった。バスは、アクロポリスの南方を通るディオニス・アレオパイトゥ大通りで停車。そこから乗客が列を成して細い脇道に入ると、目前にアクロポリスが、屹然(きつぜん)として聳え立つ。この光景は忘れられない。
チケット売り場のある出入口までは、徒歩で若干の時間がかかる。まず、フランス人の考古学者が19世紀半ばに発掘したブーレの門を潜り、丘を登って、ドリア式の柱が遺る前門(プロピレア)を通ると、間近くパルテノン神殿の白大理石の大いなる麗容が、忽然(こつぜん)と姿を現わす。これも忘れられない光景だ。
ところが、この4haの台地には現在、眼目たるパルテノン神殿の他に、さして観るべきものが存在しない。発掘されたブーレの門、アグリッパ像の台座、アテーナ・ニケー神殿の柱、前門の柱、エレクティオン神殿の柱と演壇くらいが遺っていて、ほとんどの建造物が破壊され、倒壊して、礎石や石積、屋根や円柱の残骸が、散乱し放置されたまま、時間の経過した無機質な風景が広がっている。この日、観光客が少なかったせいか、そうした静寂な台地には、人間界の臭気が薄れて、何か、神さびたような空気が漂っていた。研究者や好事家なら、こうした無機質な遺跡群にも、興味が尽きない筈だが、普通の旅客には、夏風のみが頬を撫でる。……
アクロポリスは、遠く紀元前1000年頃のミケーネ時代から、城塞として、また都市アテネの守護神たる女神アテナを祭る信仰地として、存在が知られた。紀元前5世紀の名将ペリクレスの活躍期には、すでにパルテノン神殿を初め、主要な建築が立ち並び、バルテノンには祭神アテナの金と象牙づくりの像が置かれ、祭壇は 鮮やかな色彩に溢れた。その他の建物の内部も、金銀の宝物、彫刻や壁画に満ちていたという。
だが、その後の幾たびかの異民族(バルバロイ)の侵入、戦火や爆撃や災害によって多くが倒壊、パルテノン以外のほとんどが今、その原形を保ち留めていないのである。しかも、バルバロイやビザンツ帝国、ヴェネチアやオスマン・トルコ、大英帝国の関係者が、最良の彫刻や壁画や円柱を略奪して、本国へ持ち去った! 従って、身も蓋もなく言えば、今日のアクロポリスは実は、身ぐるみ剥がれた台地でしかない。
但し、救いはパルテノン神殿である。大理石の基壇の上に、幅が約31m、長さが約70mの建物、その高さ約10m、幅が約2mのドリア式の列柱46本が建ち並び、僅かにパロス島名産の大理石の屋根が残る。その寂しげな巨きな姿は、しかし今もって初々しく、パルテノンが「処女の部屋」を意味する名称であることを、改めて納得させる。そうなのだ、幾星霜を経ても、この神殿は新鮮である。
燃えるような炎熱の昼になっていた。見上げると、パルテノンは白い炎のようであった。
パルテノン神殿の南側の斜面には、ディオニソス劇場とイロド・アティコス音楽堂という、2つの遺跡が遠望される。どちらも内部へ入って、直接に見物はできなかったが、遺跡として規模が大きい。
ディオニソス劇場は、紀元前5世紀の初めに木造の観客席が生まれ、同4世紀に石造に転じ、それがローマ時代に大改修された。15000人を収容し、古代ギリシアの盛時には、古典悲・喜劇の著名作の多くを、ここで上演した。が、ゲルマン民族大移動のバルバロイの侵入後は、劇場は放棄され、農業用の畑に変貌。ようやく19世紀になって、修復に手がつけられたというから、驚く。従って現在でも、エピダヴロス劇場ほどの完全な状態ではなく、幾世紀も放棄された傷が癒えないようだ。その遺跡化された沈黙が、不気味である。
イロド・アティコス音楽堂は、紀元後2世紀の建設。アッティカの大富豪アティコスが、アテネ市に寄贈したもの。彼は、ローマ生まれのギリシア人で、領事や元老院議員を勤めたという。収容5000人。幸い修復が成功し、今日では夏期にコンサートやオペラ、古典劇も上演されるようだ。
2つの遺跡を遠望し、ガイドの解説を聴きながら、僕は何故か、1枚の誌上掲載の過去の写真が思い浮かんでいた。1964年の夏、11代目市川團十郎が旅行団の一員として渡欧、バルテノン神殿を背にして撮った、健康そうな笑顔の旅姿の1枚である。彼は、その翌年の秋に急逝した。最初の訪欧歌舞伎公演も翌年だったから、歌舞伎俳優として初めてアクロポリスを観たのは、この時の彼であったのかも知れない。戦前に渡欧した2代目市川左團次や15代目市村羽左衛門は、いずれもギリシアを訪れていない筈だ。…… さるにても、今
こんな所までやって来て、彼を好きだったにせよ、11代目の写真がふッと思い浮かぶなんて、因果と言えぱ因果だ! と僕は、ひとり自嘲した。
◎写真は イロド・アティコス音楽堂(2001年6月、再訪時に撮る)
パルテノン神殿の11代目市川團十郎(雑誌「演劇界」増刊号 1966年1月)

