6月21日(月曜日) 晴れ  ブリュッセル

朝食に珍しくマーマレードが出る。渡欧後、初めてか。
昨夜、竹本忠雄さんの、「ヨーロッパに来たら、パリへ電話を下さい」という言葉を思い出した。竹本氏は、仏文学者でマルローの翻訳家として著名、滞仏生活も長い。昨年春、帰国された折り、高橋睦郎さんの紹介でお会いし、歓迎会にも出席、劇場にも同行した。そろそろ連絡を取る頃かと考え、朝食後「リンボウ」のマダムにパリへの電話を申し込むと、「近くに電話局があるから」との応対。
電話局が開くのを待って、9時半、パリの竹本さんのアパルトマンへ国際電話。ご在宅。「いやァ、お越しの時分かと思っていましたよ」と、明朗なお声を聴いて安堵。「ちょうど好い。この土曜日に、在パリの日仏双方の芸術関係者が集まって、三島由紀夫氏の追悼会があるんです。お出でになりませんか」と言われる。瞬間、これは行かなければならない、と思った。僕の処女作『歌舞伎の幻』の序文を三島先生が書いて下さったことは、竹本氏はよくご存じで、自決後一年にもならない今、西方まで旅に出ても、故人への想いは強まる。
「スケジュールを整えて、またお電話します」と答え、一旦ペンションに帰って、旅程表を検討。明日からの西ドイツの見物を短縮し、フランクフルトからパリへ直行、数日後に再び西ドイツに戻る予定に組み直した。電話局へ戻り、再度の国際電話。「金曜日に待っています」とのご返事があった。
近辺のスーパーで食べ物を買い、ペンションの自室で昼食。そのあと絵はがきを数通書き、仮眠する。
4時頃から外出。北駅、植物園、王宮、ブリュッセル公園と、市街の西部を2時間ほど漫歩する。ブリュッセルは、さほど大きな都会ではない。水辺都市のアムステルダムよりも、街として煮詰まり、密度が濃い。恐らく人間臭い小天地だろう。店頭には、特産のチョコレートやアイスクリーム類が溢れ、アムール貝やエスカルゴを鍋で煮て、汁ごと売っている。路上に張り出したカフェでは、男女が酌み交わすビールの泡がこぼれる。あちこちで少年たちが、日本製ホンダのバイクを乗り回している。
ブリュッセル公園は、煮詰まった市街地から脱け出せる、緑地のオアシス。樹間には彫刻が散在し、噴水の音が響き、鳥の声も聴こえる別天地。気持ちが落ち着き、ベンチに腰を下ろし、煙草に火をつけようとすると、ライターが故障。と、向こう側のベンチに居た老女性が、やって来て自分のライターを貸してくれた。驚いて礼を言ったが、空港でも老夫婦が、僕の荷物を持ってくれたことがある。欧米人は概して、若者には親切なのだろうか? とすれば、日本のような東洋人の敬老精神とは逆の、彼らには"若さ"への信仰があるのか。
パリでの三島先生の追悼会に、現地のパリジャンも集まるそうだが、彼らも無論、三島の自刃と夭折に関心が強いのだろう。三島由紀夫は、自己の文学を貫徹し、死への階段を掛け上った。完璧な計画性と、虚構としての生の厳しさは、理解を拒むものが有ろう。たとえば先日、昔は監獄だったホテルの前を通り、ヴェルレーヌの詩を思い出したが、彼の酒びたりの飲んだくれの人生は、三島には受け入れ難かった。僕にも受け入れ難いし、これまでも彼の人生には関心が薄かった。しかし高校時代から、ランボーの人生には関心を持った。
何故、関心を持ったかは、今も解らない。高校2年の時に買った人文書院の『ランボオ全集』を皮切りに、最近まで相当数の関係書籍を購入したので、僕はランボーのマニアなのである。
ランボーの行為と認識、驕児(きょうじ)の諸行無常の錯乱の詩は、高校生には極めて難解だった。が、詩作を放棄し、アラビアの熱砂に挑み、旅商人として短命の生涯を終える最期まで、生きようと欲した一生には、深い感動があった。悲惨な放浪者の絶望的な求道の人生に、衝撃と同時に魅惑を覚え、僕は彼に対して、愛情のようなものを感じて来たと言っていい。……
気が付くと、公園は夕暮れの気配だ。北駅へ戻り、ご贔屓の軽レストランで夕食。その後、ペンションに帰った。

   季節(とき)が流れる、城寨(おしろ)が見える、
   無疵(むきず)な魂(もの)なぞ何処にあらう?

   季節(とき)が流れる、城寨(おしろ)が見える、
   
   私の手がけた幸福の
   秘法を誰が脱(のが)れ得よう。

   ゴオルの鶏(とり)が鳴くたびに、
   「幸福」こそは万歳だ。

   もはや何にも希ふまい、
   私はそいつで一杯だ。

   身も魂も恍惚(とろ)けては、
   努力もへちまもあるものか。

   季節(とき)が流れる、城寨(おしろ)が見える。

   私が何を言つてるのかつて?
   言葉なんぞはふつ飛んぢまへだ!

   季節(とき)が流れる、
   城寨(おしろ)が見える!

             ランボー『幸福』(中原中也 訳詩)


6月22日(火曜日) 雨のち曇り、午後より晴れる。 ブリュッセルーケルンーコブレンツ

朝9時、ペンション「リンボウ」を出る。北駅で絵葉書を投函し、10時20分発の列車で、西ドイツのケルンへ向かう。12時50分、ケルン着。ブラットホームに、煙草の吸い殻が沢山落ちていて、汚なし。「国破れると百年、人の心が乱れるんだ」という井伏先生の言葉が浮かぶ。
ケルン中央駅の構内で昼食。食堂の雰囲気に活気があり、何となく日本に似ている。赤ら顔が目立ち、アデナウワーやエアハルトのような男たちが、盛んにポテトやソーセージをパクついている。オランダ人やベルギー人のような柔和さよりも、剛毅で朴訥な感じ。僕は、じゃがいものポタージュ・スープだけで満腹。
駅前の広場に立つと、ケルン大聖堂が目前に聳えているのに、アッと驚く。巨大な建物の高さと、内部の広さには、息を呑むおもいになる。大聖堂だけを観て、14時40分発の列車でケルンを去る。
15時45分、コブレンツ着。駅前の観光案内所で、ペンションを探す。受け附けの女性が親切。バスに乗り、ペンション「コンプフォート」まで行く。整備されたペンション、主人夫婦の人柄がよく、部屋も頗る清潔。窓の遠くにライン川の流れが見える!すっかり気に入って、直ぐに外出。3時間ほどライン川沿いを散策。
コブレンツは、ライン川とモーゼル川の合流地点にある、人口10万前後の山間の小都市。ローマ時代から水運と軍事の要衝として知られ、周囲には堅固な要塞が築かれた。現在はライン・クルーズの起点でもある。
ライン川の対岸へ渡り、川沿いにエーレンブライトシュタイン城塞まで徒歩する。まさに天気晴朗にして、風光明媚。バラづくりの家の老人の目が、少し暗いのが気になったほか、心機昂進して気分爽快、歩くことの幸せを痛感。横浜出港後、初めて好きなところへ来たと思った。途中で、ハイキングのユースホステルの若者や、小学校の生徒たちと出逢う。健康そうな笑顔がいっぱい。道を訊くと、その内の二人が、城塞まで斜めに移動するリフトの出発地点まで、案内してくれた。ドイツの年少世代の素朴さ、健全さを感じた。
城塞に登ると、ライン川とモーゼ川が合流する景観、コブレンツの市街が遠望され、眺望絶佳のパノラマが展開する。しかも、古城一帯が初夏の青嵐に包まれ、樹木を揺する風音が、何とも言えない。城塞の一隅にレストハウスがあり、ポテトサラダとソーセージ、コーヒーで、気持ちよく夕食した。
日没の8時頃、ペンションに帰る。この半日、風光を満喫。旅する幸せを感じた。気分が良かったので、就寝前、出国後はじめて本を手にした。荷物になるので、持って来たのは、岩波文庫の『唐詩選』3冊本のみ。ページを捲ると、Γ古業城に登る」という古詩の数行が、ふと目に止まった。作者の岑参(しんじん)は、玄宗皇帝の時代、塞外の西域に勤務した官吏。すなわち、

    馬より下りて業城(ぎょうじょう)に登れば
    城空しくして復(ま)た何をか見ん
    城隅(じょうぐう) 南のかた望陵台に対(むか)えば
    章水(しょうすい)東流して復(ま)た回(かえ)らず
                           (前野直彬 注解)


6月23日(水曜日) 晴れ コブレンツーフランクフルト 
  
目覚めて窓を開けると、川からの微風が頬を撫でる。階下の清潔な、気持ちのいい部屋で朝食。絵葉書に貼る切手を求めると、主人から逆に日本の切手が欲しいと言われた。残念ながら、持ち合わせが無い。
ペンション「コンプフォート」は宿泊代も安く、一晩では名残惜しいが、近隣のライン観光船の船着き場へと急ぐ。横浜から乗ったバイカル号くらいの大きさの客船が、岸壁に待ち受けていた。9時、出船。
早朝なのに各地からの旅行者が多く、荷物を預けて船内を一巡した後、デッキに出て、空いている席に腰を下ろした。と、直ぐ左手の舷側近くの席に、ハイスクールくらいの茶髪の少年が一人座って、本を読んでいる。表紙が見えたので、書名が分かった。ジョージ・オーウェルの"近未来批評小説"『1984年』である。
僕は、読んだことが無い本なので、この地味な顔立ちの少年に、ちょっと興味を持った。「こんにちは。何処から?」と声を掛けると、「カナダです」と答えてくれた。「僕は東京から。ものを書く仕事です」と言って、名を告げた。彼も、はにかんだ表情で、自分の名と年齢を教えてくれた。アンディ・ゴッドマン、16歳。夏休みをケルンの親戚の家で過ごしている、と言った。僕が、彼の読んでいた本を指差して、「面白いですか?」と問うと、「とても!」と答え、微笑した。そして胸元から煙草を取り出し、美味しそうに吸いだしたのには、驚いた。僕さえ2年前から喫煙者になったのに、随分早いなァと思った。
一服すると、彼はバッグから白い紙箱を取り出し、立って僕の前に近づいて、蓋を開けて差し出した。黒パンにコーンビーフとポテトを挟んだ、厚い三切れのサンドイッチだった。「ケルンの祖母が作ったんです。どうぞ…」と、僕に勧める。旅先での予期せぬ親切が嬉しかった。その一切れに手を出した。  
食べ終わると飲み物が欲しくなり、彼を誘って階下へ降りた。コーヒーラウンジで紅茶とオレンジを注文、彼にもご馳走した。喫茶の間これといった話もなく、彼が無口な若者であることに気付いた。
デッキへ戻ると、船はローレライの岩壁を通過するところで、多くの乗客が船縁(ふなべり)に凭れて、岩壁を見上げていた。アンディ・ゴッドマンは、「ここを観たかった。ハイネの詩が好きだから…⌋と言い、ドイツ語で詩句を呟いた。が、僕には意味が通じない。

    鏡のごとく澄みわたるラインの水に
    影涵(ひた)す、山と城。
    わが小舟、帆走れば
    日の光おどるなり、わが舟を取巻きて。

    こんじきにきらめきて渦(うず)描く水の戯(たわむ)れ、
    うち黙(もだ)し、われは見まもる。
    その故(ゆえ)に心に湧(わ)くは
    ひそかなる恋の思い出。
                   
              (ハインリヒ・ハイネ『山と城』 片山敏彦 訳)

「有り難う!」とだけ言うと、彼はニッコリして、頰が紅く染まった。
自席に戻り、彼はまたオーウェルの小説を読み継ぎ、僕は『唐詩選』の王維のページを捲った。捲っているうち眠くなり、デッキの川風に吹かれて、1時間ほど仮眠したらしい。目覚めると、彼がこちらを見ている。「貴方は疲れている…?」と声を掛けてくれた。時計を見ると、そろそろ下船の時刻だ。マインツまで行く彼は残るが、僕は荷物を取り出して置こう。持ち合わせの絵葉書があったので、「豪土満さま。サンドイッチが美味しかった」と書いた。「漢字だと、君の名はこうなるんだ」と言って渡すと、彼は笑った。
我々は握手して、そこであっさりと別れた。着岸後、あの無口なカナダの文学少年を、これからも思い出すだろうな、と思った。14時40分、ニューデルハイム着。

ニューデルハイムは、小さな町。船着き場から歩くと、目と鼻の先に鉄道の駅があり、15時06分発車。
16時05分、フランクフルト中央駅に着く。人口70万の産業都市、西ドイツの経済・交通の中心地。鉄道の駅舎も大きく、すべてが構内にある。直ぐに観光案内所へ行き、宿探し。旅行者が多く、時間がかかる。ようやく紹介されたのは、中央駅と目と鼻の先の安ホテル「グロリア」で、手荷物を携えて歩くと、陽射しが暑くなり、汗だくで苦しくなった。周辺は、ちょうど八重洲口ムードで雑踏し、盛んに工事中で空気が悪い。17時半、ホテルのフロントの男から、鍵を受け取る。「朝食は別料金」と告げられる。東京並みにビジネスライク。部屋は悪くないが、洗面・トイレはあるものの、シャワーが無いのには困った。
休憩後、中央駅へ戻る。明後日のパリ行きの特急TEE の席を予約してから、構内レストランで夕食。フランクフルトソーセージを注文。限られた旅費の若い世代は、駅で食事するのが、最も安全だ。とりわけヨーロッパの鉄道の駅は便利で、何もかも事が足りる。旅人が孤独でも、駅はそれをも癒してくれる。駅にいるのは楽しいと、僕は思う。ーだが、ヨーロッパの駅にいて、楽しくないこともある。日本人に遇うことだ!それも或る種の女性たち。どうして彼女たちは、日本人と擦れ違っても、日本人でない顔をするのだろう。ヨーロッパに
来ると、何らかの異化作用が起こるのか? 日本人の男性同士だと不思議にも、それが無い。擦れ違っても阿吽の呼吸で、うなずき合ったり、黙礼したりする。海外に出ると日本人を無視する、一部の日本女性たちの意識や神経には、考えさせられるものがある。
夕食後、駅を出て、周辺を散策する。中央駅の近くは雑然として、ビールを飲ませる大衆酒場が目立ち、駐留するアメリカ兵の姿も見かけ、まァ土地柄が良いとは言えない。が、少し歩くと閑静な街並みに変わり、一隅に音楽喫茶「クランツラー⌋を見つけたので、入店して喫茶。コーヒーと菓子だけで、びっくりする高料金。二階はクラシック・ムードの予約席で、壁面に過去の音楽家たちの画像が飾られ、音楽が伴奏される。場所代の高額にひるんで、退散した。さらに街並みを行くと、劇場の前に出た。グロースハウス劇場。
モダンな新鮮な建築。現代喜劇を上演中で、毎夜8時開演。時計を見ると20分前で、料金は800円くらいと安い。何でも見るに如かずと、窓口でチケットを買う。ロビーが広々として明るく、建設して間もない現代の劇場か。二階は無く、客席は傾斜した全面平場の一階席のみ。舞台から数えて12、3列目の右方の席に座った。左隣には、30歳台の青年がいて、ドラマに関する英語の本を見ていた。七分の入り。
ドイツ語による喜劇の新作だが、この手のものは言葉が解らないと、お手上げである。演技が半ば様式化されているのは分かるが、笑うべきところで笑えない。観客は選ばれた知的な階層らしく、モスクワの劇場が満員だった庶民ではない。歌舞伎座の大向こうのような大衆もいない。休憩時間の静寂には驚いた。耐え難かったので、隣の恐らくは演劇青年に、英語で話しかけてみた。「日本の演劇を見たことがありますか?⌋ と、彼は舞台の方に顔を向けたまま一言、「知らない」とだけ答えた。取りつく島も無い冷たさ!そして、この時もまた、強烈な良質の石鹸の匂いがした。……
休憩後、幕が開いたが気が乗らず、途中で10時頃、劇場を出た。ホテル「グロリア」へ帰り、疲労したので早く休んだ。

6月24日(木曜日) 快晴 出国後、最高の上天気。気温、高し。 フランクフルト

朝9時半、中央駅前から市電に乗る。三つ目の停留所で降りて、ゲーテハウスを訪れる。記念館になっていたゲーテの生家が、先の大戦の爆撃で破壊され、戦後それを忠実に復元したもの。
18世紀当時のドイツの上流社会の家庭の暮らしが、手に取るように伝わる。 若きゲーテの書斎は最上階の4階にあり、朝陽の射し込む窓辺にはスミレ草が咲き、簡素な木製の机が置かれ、花瓶に矢車草が挿してあった。現地の小学生の一団が上がって来たので、階下に降りて、絵葉書売りの老人から、一枚だけ買った。
ゲーテハウスに隣接して博物館がある。ゲーテ関連の作家や画家の遺品を展示している。僕が行った日には、近代のドイツ語圏の作家、劇作家たちの画像、写真、原稿、書簡などが展示され、興味深いものがあった。すなわちゲーテ、シラー、グリム兄弟、シュニッツラー、ハウプトマン、ホフマンスタール、マン、ヘッセ、ブレヒトの9名だが、とりわけシラーの肖像画に英風(えいふう)を感じたのは、自分がシラーの戯曲を少しでも読んだ時期があったからだろう。
ゲーテハウスを出て、近隣のパウルス教会、市庁舎(壁面に、ケネディの銅像あり)、カタリーナ教会など、観光要所を一巡した後、再び市電利用で中央駅へ戻る。駅の周辺で、戦争による障害者、貧しい労働者の姿を幾人か見かける。売店ほか至るところで、カリフォルニア産のオレンジレンジ・ジュースが目立つ。日本と同様、今日の西ドイツには"アメリカの影"が濃い。 
駅の立食スタンドでバーガーを食べた後、構内に理髪店があるのを発見。出国して日数もたち、散髪したくなった。長旅になると、名所旧跡を廻るだけでは済まない。日常的な生活の分子が入り込んで来る。食事の案配が第一だが、衣類の洗濯、洗面用品や常備薬の補充、散髪も欠かせない。2週間くらいのツアー旅行だと事は簡単だが、半年の無銭放浪ともなると、こうした生活の部分が厄介になる。そして、鉄道の駅というものが、この部分の多くを解決してくれる便利さがあるのだ。
思い切って飛び込むと、1台が業務中で、もう1台が空いていた。中年の男性の理髪師の手に掛かったが、その
速いこと速いこと! 散髪、洗髪、髭剃りが、あッという間に済んだ。が、一応サッパリした。もちろん日本人の理髪師の丁寧な繊細さ、手先の器用さ、オシボリまで出す親切さは、求めるべくも無い。我々からすると、痒いところまで手が届かないのである。慣れると、この簡単さも案外良いのかもしれないが。……
午後の予定が空白。フランクフルトという街に興味が湧かない。昨夜はシャワーも浴びていない。折りからの上天気、気温も高く、汗ばむ水泳日和。そうだ、水泳に行こう! それが好いと決めて、構内の観光案内所でスイミングホールの場所を教えて貰い、ホテルΓグロリア」へ帰り、スーツケースから持参の水着を取り出して、又もや市電に乗った。僕は、山国育ちなのに水泳が好きで、ブレストなら長く泳いでも飽きない。にも関わらず、集団の球技が下手で、関心も薄いのは、やはり非社会的な人間なのであろう。
30分ほど乗車すると、市街地の外れに、立派なスイミングホールがあった。入場して解ったのは、ここが享楽のための派手なレジャーランドではなく、市民の健康増進をはかる明朗なスポーツ施設だということだ。
まず洗足場に石鹸水が流れ、どこも清潔で気持ちが良く、飾り気なく整備されている。体重計に載ると66▪5キログラム、身長は172センチメートル。大中小、三つのプールがある。50mプールの水深は、4▪50m。25mプールの水深が、2▪50m。どちらも相当に深い。スクール用の20mプールは浅く、階段を使って降りられる。50mプールを50歳台の女性がひとり堂々と、往復を繰り返し泳ぐ姿には、西欧女性のエネルギーが感じられ、圧倒された。僕は水深を考え、25mプールを選んで、幾往復か泳いだ。爽快!
シャワーを浴び、館内の緑地ゾーンの椅子に寝て、日光浴。しばし陶然となる。隣接のカフェで、レモネードを飲み、上機嫌。気分が鬱したときは、水泳が一番いい。芝居なんか、糞を喰らえだ。
涼しくなる頃、市電で中央駅へ戻った。駅のレストランで夕食。当地特産のりんご酒を味わい、ロールキャベツを食べた。と、右手前に日本人の青年が座っている。京都から来たそうで、「ミュンヘンに行って、ゲーテ協会へ入るんです」と言う。ところが、「やはり日本がいいです。ここへ来ても、何もすることが無い」と漏らしたのには、驚いた。「何もすることが無いなら、日記でも書いたら」と勧めると、「日記ですかね」と、彼に嗤われた。いろいろな日本人が今、ヨーロッパへやって来るのだ。
7時、駅近くの安ホテルに帰った。明日はパリだ。


写真は、人文書院の『ランボオ全集』(1959) フランクフルトのゲーテハウス(亡母遺品の絵葉書)