胡児(こじ)の泉●1971年・西方旅行記ー噴水と広場の国々 第6回
モスクワーレニングラード
6月14日(月曜日)曇り
6時、起床。スーツケースを廊下に出す。
7時、一階大食堂で、僕ひとりで早めの朝食。昨夜あんな出来事もあり、マイクは午後の出発なので、今朝は姿をみせない。
インフォメーションで部屋の鍵を返却、タクシー券を受け取る。インツーリスト社手配のタクシーが8時20分に迎えに来て、レニングラードへの便が飛ぶ空港までは、約一時間の予定。
ロビーに戻ると、向こうにマイクの後ろ姿が見え、ポーターが下ろして来た荷物を、僕に代わって確かめている。
彼は僕を見送るために、降りて来てくれたのだ。嬉しかった!
「お早う」と声を掛けると、まだ眠そうな眼で振り向き、マイクははにかんだような表情をした。僕が荷物を確認し、ポーターが車寄せへと運ぶ。
僕たちは無言で向き合い、そのまま暫く佇んでいた。と、彼が口を切った。
「テツロウ、とても楽しかった。a few daysだったけど、いつまでもボクは憶えている。貴方は、これからBig travelだ。身体に気をつけてー」と。
立派な挨拶だ、と思った。彼が急に大人になった気がした。僕は「有り難う」とだけ言い返し、彼の手を取って強く握り
締めた。
二人は並んで、いっしょにホテルの車寄せへ出た。車寄せの前方に数段の階段があり、その下に小型のタクシーが待っていた。
僕たちは階段の前で、もう一度また、握手をした。マイクが一瞬、淋しそうな眼をした。が、彼は階段を降りなかった。
僕だけが階段を降り、タクシーに乗り込んだ。彼は手を振らず、立ったまま見送ってくれた。ー
車が走り出した。これからは一人旅だ。僕は不意に、寂しさが突き上げた。
煙草を喫んでもいいかと訊くと、眼鏡をかけた実直そうな中年男の運転手が、すぐに「バジャールスタ(どうぞ)」と答え、「自分も好きだから、一本ほしい」と言う。ケントを差し出すと、窓を開けてくれ、どちらも点火して煙草を吹かした。吹かしながら、フロリダまでは行けないな、と僕は思った。
窓外に流れ去るモスクワの街並を見ているうちに、プーシキンの詩“わかれ”が浮かんだ。詩句を思い出そうと、記憶を洗ったが、いつか言葉が消えて行ったー。
さようなら友よ
いずこの地でも
はげしいいくさの火のなかでも
またわがふるさとの
おだやかな小川の岸でも
ぼくはかわることなき
きよきよしみに心をささげる。
おまえのやさしさを知ったぼくが
どうしておまえを見すてられよう!
ぼくはおもいでをいだいて去るが
こころはおまえのところに残してゆこう。
(金子幸彦・訳)
昨夜、マイクが言った「テツロウ、ボクを見て。貴方はボクを見ない!」という言葉、言葉というより突然の叫びが、耳もとに甦った。
確かにマイクに限らず、また僕の知る劇場の世界に限らず、あのような暗い眼や甘い眼を逸らし、見えるものを見ず、識るものを識らず、これまでの僕は無為に生きてきた、と言えるのかも知れない。
かつて井伏先生は、「自分は、アブノーマルなものは抑えて来た」と言われたことがある。
僕の場合、時代の違いもあってか、特段に“抑える”という、意志的な強い何かは薄かった。ただ避けて近寄らず、敬して遠ざけ、入って行けなかった、というのが正しいかも知れない。
だから三島由紀夫氏のごとき、魔の淵に果敢に飛び込み、怪物たちと格闘する雄烈無双の勇気には、ファンとして畏敬と憧憬の念を禁じ得なかった。
考えてみると、どっちつかずの曖昧で正体不明な、中間色のニュートラルな生き方をして来たのだ。それは自分を知りながら、自分を避けて見詰めなかった、ということにもなる。
マイクの「ボクを見て、貴方はボクを見ない!」という叫びは、裏返すと「テツロウ、もっと貴方は自分自身を見て!」と、まさしく同義語だったのである。ー
9時半、国内線の空港に着く。ゲートで搭乗を待つこと一時間。あたりは人影が少なく、閑散としている。
僕の旅先での瞑想ならぬ迷走が、なおも続くー。
そうだ、そうだ。数年前にお聴きした際にも考えた、裏千家の大番頭である多田侑史翁の言葉が、ふッと思い返された。
「あんたのような欲のない御仁は、いちばん僧侶が向いている。今からでも遅くない、高野山でも薬師寺でも紹介状を書いてあげるから、坊さんになりなさい。名僧になるよ」と。
その場は、堂本さんと三人で笑いあって済んだが、後で当たっているかも知れないな、と考えたことがあった。ー
そう言えば、郷里でも女傑と呼ばれた祖母は、大の日蓮宗信仰で身延山久遠寺の特別大本願人のひとりだったが、少年の僕を、法主猊下のおわす水鳴楼の小坊主として修行させ、若くして戦死した亡父の菩提を弔わせる願いがあったらしい。
それでは余りに不憫だからと、伯母や母が賛成しないので、祖父母の企図は沙汰止みになったそうだ。ー
けれども現在、こんな中途半端な得体の知れない、ハッキリとした“顔”のない生きざまをしているなら、いっそ僧侶の道を歩んでいた方が、少なくとも世のため人のためにはなり、ずっと良かったのではないか?
祖母にしても、侑史翁にしても、傑物とも称された昔の人たちは、さすがに見抜くところがあったのだろう、などと雑多な想いが去来するうちに、搭乗開始のランプか点いた。ー
10時半、モスクワを離陸。
小型機だが、レニングラードまでは約一時間。乗客が少なく、がらんとした機内。途中で、サンドイッチと紅茶が出た。
窓の向こうの雲や空を眺めていたら、やや気持ちが明るくなった。
これからは“坊さん”として生きて行くのがいいのではないか?
少なくとも、この旅は修行僧として、各地を巡ろう! さ迷う未熟な若者として、前途遼遠な漂白者として自分を鍛え、この旅の日々を重ねて行こう!
母が言ってたっけ。「男でも女でもいい。共に生きる道連れを一人、誰か探しなさいよ」と。
三十歳から寡婦を通した母の言葉に、僕の胸は痛む。だが、そんな“誰か一人”にめぐり逢う日が、僕に訪れるだろうか。いや、めぐり逢える資格が、僕に有るのだろうか?
11時半、レニングラード空港に着陸。
◎後日
ほぼ十年後、僕は、マイケル・ミドルトンとのロシアでの数日について、旧い年長の友人で、不世出のライターにして碩学でもあった亡き草森紳一に、包み隠さず話した。
すると草森さんは、「旅ッて、そんなものだ。アメリカで、また会わなくてよかったよ。どちらにも、良い思い出になった。中村君も、いろいろと有るんだなァ」と言って、嗤(わら)ってくれた。
◎追憶
わが頬に触れし汝(な)が手の温もりを
白髪薄き今も忘れず
◎故・草森紳一(1982年5月、僕の部屋で)

モスクワーレニングラード
6月14日(月曜日)曇り
6時、起床。スーツケースを廊下に出す。
7時、一階大食堂で、僕ひとりで早めの朝食。昨夜あんな出来事もあり、マイクは午後の出発なので、今朝は姿をみせない。
インフォメーションで部屋の鍵を返却、タクシー券を受け取る。インツーリスト社手配のタクシーが8時20分に迎えに来て、レニングラードへの便が飛ぶ空港までは、約一時間の予定。
ロビーに戻ると、向こうにマイクの後ろ姿が見え、ポーターが下ろして来た荷物を、僕に代わって確かめている。
彼は僕を見送るために、降りて来てくれたのだ。嬉しかった!
「お早う」と声を掛けると、まだ眠そうな眼で振り向き、マイクははにかんだような表情をした。僕が荷物を確認し、ポーターが車寄せへと運ぶ。
僕たちは無言で向き合い、そのまま暫く佇んでいた。と、彼が口を切った。
「テツロウ、とても楽しかった。a few daysだったけど、いつまでもボクは憶えている。貴方は、これからBig travelだ。身体に気をつけてー」と。
立派な挨拶だ、と思った。彼が急に大人になった気がした。僕は「有り難う」とだけ言い返し、彼の手を取って強く握り
締めた。
二人は並んで、いっしょにホテルの車寄せへ出た。車寄せの前方に数段の階段があり、その下に小型のタクシーが待っていた。
僕たちは階段の前で、もう一度また、握手をした。マイクが一瞬、淋しそうな眼をした。が、彼は階段を降りなかった。
僕だけが階段を降り、タクシーに乗り込んだ。彼は手を振らず、立ったまま見送ってくれた。ー
車が走り出した。これからは一人旅だ。僕は不意に、寂しさが突き上げた。
煙草を喫んでもいいかと訊くと、眼鏡をかけた実直そうな中年男の運転手が、すぐに「バジャールスタ(どうぞ)」と答え、「自分も好きだから、一本ほしい」と言う。ケントを差し出すと、窓を開けてくれ、どちらも点火して煙草を吹かした。吹かしながら、フロリダまでは行けないな、と僕は思った。
窓外に流れ去るモスクワの街並を見ているうちに、プーシキンの詩“わかれ”が浮かんだ。詩句を思い出そうと、記憶を洗ったが、いつか言葉が消えて行ったー。
さようなら友よ
いずこの地でも
はげしいいくさの火のなかでも
またわがふるさとの
おだやかな小川の岸でも
ぼくはかわることなき
きよきよしみに心をささげる。
おまえのやさしさを知ったぼくが
どうしておまえを見すてられよう!
ぼくはおもいでをいだいて去るが
こころはおまえのところに残してゆこう。
(金子幸彦・訳)
昨夜、マイクが言った「テツロウ、ボクを見て。貴方はボクを見ない!」という言葉、言葉というより突然の叫びが、耳もとに甦った。
確かにマイクに限らず、また僕の知る劇場の世界に限らず、あのような暗い眼や甘い眼を逸らし、見えるものを見ず、識るものを識らず、これまでの僕は無為に生きてきた、と言えるのかも知れない。
かつて井伏先生は、「自分は、アブノーマルなものは抑えて来た」と言われたことがある。
僕の場合、時代の違いもあってか、特段に“抑える”という、意志的な強い何かは薄かった。ただ避けて近寄らず、敬して遠ざけ、入って行けなかった、というのが正しいかも知れない。
だから三島由紀夫氏のごとき、魔の淵に果敢に飛び込み、怪物たちと格闘する雄烈無双の勇気には、ファンとして畏敬と憧憬の念を禁じ得なかった。
考えてみると、どっちつかずの曖昧で正体不明な、中間色のニュートラルな生き方をして来たのだ。それは自分を知りながら、自分を避けて見詰めなかった、ということにもなる。
マイクの「ボクを見て、貴方はボクを見ない!」という叫びは、裏返すと「テツロウ、もっと貴方は自分自身を見て!」と、まさしく同義語だったのである。ー
9時半、国内線の空港に着く。ゲートで搭乗を待つこと一時間。あたりは人影が少なく、閑散としている。
僕の旅先での瞑想ならぬ迷走が、なおも続くー。
そうだ、そうだ。数年前にお聴きした際にも考えた、裏千家の大番頭である多田侑史翁の言葉が、ふッと思い返された。
「あんたのような欲のない御仁は、いちばん僧侶が向いている。今からでも遅くない、高野山でも薬師寺でも紹介状を書いてあげるから、坊さんになりなさい。名僧になるよ」と。
その場は、堂本さんと三人で笑いあって済んだが、後で当たっているかも知れないな、と考えたことがあった。ー
そう言えば、郷里でも女傑と呼ばれた祖母は、大の日蓮宗信仰で身延山久遠寺の特別大本願人のひとりだったが、少年の僕を、法主猊下のおわす水鳴楼の小坊主として修行させ、若くして戦死した亡父の菩提を弔わせる願いがあったらしい。
それでは余りに不憫だからと、伯母や母が賛成しないので、祖父母の企図は沙汰止みになったそうだ。ー
けれども現在、こんな中途半端な得体の知れない、ハッキリとした“顔”のない生きざまをしているなら、いっそ僧侶の道を歩んでいた方が、少なくとも世のため人のためにはなり、ずっと良かったのではないか?
祖母にしても、侑史翁にしても、傑物とも称された昔の人たちは、さすがに見抜くところがあったのだろう、などと雑多な想いが去来するうちに、搭乗開始のランプか点いた。ー
10時半、モスクワを離陸。
小型機だが、レニングラードまでは約一時間。乗客が少なく、がらんとした機内。途中で、サンドイッチと紅茶が出た。
窓の向こうの雲や空を眺めていたら、やや気持ちが明るくなった。
これからは“坊さん”として生きて行くのがいいのではないか?
少なくとも、この旅は修行僧として、各地を巡ろう! さ迷う未熟な若者として、前途遼遠な漂白者として自分を鍛え、この旅の日々を重ねて行こう!
母が言ってたっけ。「男でも女でもいい。共に生きる道連れを一人、誰か探しなさいよ」と。
三十歳から寡婦を通した母の言葉に、僕の胸は痛む。だが、そんな“誰か一人”にめぐり逢う日が、僕に訪れるだろうか。いや、めぐり逢える資格が、僕に有るのだろうか?
11時半、レニングラード空港に着陸。
◎後日
ほぼ十年後、僕は、マイケル・ミドルトンとのロシアでの数日について、旧い年長の友人で、不世出のライターにして碩学でもあった亡き草森紳一に、包み隠さず話した。
すると草森さんは、「旅ッて、そんなものだ。アメリカで、また会わなくてよかったよ。どちらにも、良い思い出になった。中村君も、いろいろと有るんだなァ」と言って、嗤(わら)ってくれた。
◎追憶
わが頬に触れし汝(な)が手の温もりを
白髪薄き今も忘れず
◎故・草森紳一(1982年5月、僕の部屋で)
