「美の世阿弥と華の信光」の第2回の公演
加賀前田家所縁の能舞台に通いました
世阿弥晩年の作といわれる「砧」と
信光の「玉井」 小書が貝尽で、一人のシテが
曲趣が違う2番を演じます
このシリーズは、能役者が自由に装束を
決めるのと、それが展示されていることも
興味深いものです
観能したくなりますね
三年も在京したままの夫への思いを馳せて
砧を打つ中年の妻!
今年の暮も帰郷しないと
知らされ悲嘆にくれ
その寂しさ、虚しさから病死する
執心の女の能で、曲趣から
晩秋にかけてよく演能されます
世阿弥が「かようの能の味わいは
末の世に知る人あるまじ」と
言った大曲であり、位取りが
難しいものらしいー老女物になってはいけないとかー
一時途絶えていたようですが
元禄ごろに復元されたようです
流派やシテにより、演出に巾があると聞きました
砧の作り物が詩情をかもしだします
「ほろほろはらはらとー」と謡い
小鼓の音に合わせます
いつも本当の砧の音はどう響くのかしらと思っていました
舞台では、扇を当てる直前で止めています きっと観ている人の
心の中で音色を感じさせているのかもしれません
今回は舞台正面に砧を据えていましたので
砧を打つ所作が、より分かりました
前場の聞かせどころ「砧の段」は、蘇武の話をひいて
戦にいつた夫と後を守る妻の思いが切々と謡われ
届けとばかり砧を打つ象徴的なシーンです
地謡の力強さとなにか透明感のようなものが
感じられた謡どころ、舞どころでしたが
情感にあふれたシテー70歳ですが揺るぎがなく見事でした!
前シテの「秋草文様 段替り」は、紺地がとても映えていました
深井(中年の女面)に似合った唐織でした
恋慕の思いの強さゆえ、地獄で苦しんでいると現れた後シテ
白地に縦しまに萩と蜘蛛の巣文様の縫箔で美しいものでした
愛の妄執に苦しむ女の暗い華やぎを感じさせていました
泥眼の面よりも痩女に見えましたが、確かめておけばよかった!
都より下ったシテツレの夕霧(どうも現地妻らしい)との葛藤も
感じられますが、単なる嫉妬劇ではない奥深い想いがー
この時代の女性の心情を理解するには経験不足かしら 笑
夫の法華経供養で、簡単に救われないほうが悲劇的情緒を
強調するためにもいいのではーと想いました
装束研究所の話では、手の込んだ刺繍や織よりも
平織に薄く摺箔するのが難しい技だそうです
こういう華麗な能装束は、江戸時代に幕府の式能になってから
作られたもの
各大名の美意識、見識の高さを示すものと解説していました
大藩の大名家には、素晴らしい装束、面が残っていますものね
砧を打つ!待つ女の孤独や情念を凝縮させた名曲
伝説の名シテの観世寿夫師が、海外公演に砧をえらび
周囲はとても理解されないかもと危惧していましたが
ヨーロッパにも民具として砧があり、洗濯物をたたいて
使っていたとー理解する手助けにもなったと聞きました
今回のシテは浅見真州師、寿夫師の薫陶を受けた方ですね
恥ずかしながらですが、昔詠んだ歌
「砧打ち恨みつのりて妄執の
深井女の冷えたる逝秋」
これは今回の観能で
「砧音の ほろほろはらはらと風にのり
想いの末をきかましものを」 みみ卯
さて観世信光作「玉井」たまのい 初めて見ました
海幸彦山幸彦の神話を題材とした能
釣針を探しに、海底にくだった彦火々出見尊と
龍宮の娘との婚姻とその父龍王の物語で
古代の異民族婚姻説話を雄大に描いています
世阿弥の孫世代で、劇画風で面白尽くし満載 笑
玉井と桂の木の作り物や登場人物も多く賑やか
とくに貝尽の小書では、狂言方が貝の飾りものを
付け大勢現れ舞台を盛り上げていました
シテは後場で龍王として登場、海神の荘重な舞働が
姫たちの優美な中の舞と相まって見事でした
囃子の名手でもあった信光は、音楽的にも様々な
工夫を凝らしていて聴きごたえがありました
「半開口」という笛の音取がよかったですね
祝言能の趣で、心愉しくなる気分になります
それにしても対極にある能2番!しっかり観るには
帯をしゃっきり締めてないと気合がはいらないかな!
真州師はもちろんですが。見所もお疲れ様でした
はや立冬! 冬の気が立ち山々では紅葉もおわる頃
逝秋の山もみじなど、とくに尾瀬の草もみじを逃したのは残念!
来年に思いを馳せながらほっこり、一服しました
茶道では、霜月が新年にあたり炉開きをします
開炉はできないけれど、細やかな「亥の子餅」で祝いました
ひさしぶりの和菓子ですが、ハロウーンでのかぼちゃの
残りでの練切と大福、亥の子にみえるかしら 苦笑
「冬立つも 小春ぬくもる開炉かな
亥の子を言祝ぎ乙夜すぎこす」 みみ卯
そろそろ冬仕度をしなければとーそれにしても秋は短かかったですね