→テレビがつまらない理由(1)
前回記事で、テレビがつまらない原因を私なりの視点でいくつか挙げましたが、その根本にはメディアの特性が正しく理解されていないという問題があります。それは見る側にも共通する問題ですが、やはり当事者の無理解が大きいと思います。
ところで、本題に入る前にとてもベタな質問ですが、是非ひとつお考え下さい。
「戦場や災害現場などで活躍する報道カメラマンのあなたは、傷を負って助けを求める人に出会った時にどちらを選びますか?」
①救助より先に撮影する。
②撮影は断念し救助する。
①は、惨事をより多くの人に伝えることが自分に課された責任であるという答えです。実情の報道を目にしなければ、援助や支援を集めることはできません。自分一人ができる僅かな善意よりも、自分に課された使命を優先するという選択です。
一方の②は、人命救助を優先することが最優先であるという答えです。報道カメラマンである前に、人として人道的配慮を軽視することはできません。正義なき報道に加担するよりも、人としての倫理的義務を果たすという選択です。
私自身の見解は後で述べますが、皆さんは明確な答えをお持ちでしょうか?
①を暴力と捉える人がいる一方で、②を責任放棄と非難する人もいます。テレビなどのメディアは、時に暴力的になったり責任放棄することがありますよね。それでもテレビが存在し続けられる根拠は、「表現の自由」が憲法21条によって保障されていることに由来します。ただし、その「暴走」を防ぐために、テレビなどの放送事業は認可制とすることで歯止めを掛けています。
さぁ、ここからやっと本題です。
ここで言う「暴走」とは具体的に何のことでしょうか。私は、暴力性とエンターテインメント性の2つだと思っています。そしてこの2つはいつも表裏一体です。
ニュース報道を見れば、過熱報道や過剰演出が日常茶飯事。一方で、犯人扱いされた人が無罪でも訂正は報じません。個人情報保護を謳いつつも交通事故加害者は報じて、企業名や商品名は自己都合で伏せてしまう。そんな権利まで憲法は認めていませんよね。これらは報道の暴力が極端に現れている側面です。
もちろん報道に限った話ではありません。納豆ダイエットを捏造した「発掘あるある大事典」はアウトでしたが、不健康を煽る霊感商法的な番組は相変わらずたくさんありますよね。長くなるので説明は省きますが、バラエティーでもアニメでも音楽でも、社会的影響は小さくないようです。
ただ、私自身はこうした放送を自省しろとは思いません。めちゃイケのコントを見た子供が真似するとの批判にも全く同調できません。なぜなら、それが一定のエンターテインメント性と関わっているからです。嘘はダメですが、時に過激な演出は注意を惹くし、それが視聴者に一定の面白さを与えるのが現実です。つまり冒頭でも触れましたが、これは見る側の問題です。そうでなければ、殺人サスペンスはとっくの昔に悪の親玉なはずです。
要するに、メディアはエンターテインメントであるが故に暴力なのです。問題は、その事実を理解できていないことにあり、特にメディアに関わる当人たちが理解不足なことです。少し前にステルス・マーケティングをしていた芸能人がやり玉に挙げられました。彼らには、自らがその影響の大きさに比例して重大な責任を負っているという自覚がありません。テレビも広告代理店も芸能人も同じです。
ところで先の問いに対する私自身の選択は①です。ただし、やはり完全な正解は無いと思っています。(ずるい書き方ですみません。。。)
しかし、暴力性に敢えて正面から向き合った『311』という映画があるようです。著作を前回紹介しましたが、監督の森達也がサイゾーの記事でとても興味深いことを平然と言っていました。彼らは東日本大震災直後の被災地に入り、その悲惨さをドキュメンタリー映画にしたという偉業を成し遂げています。いずれ必ず観ようと決意しつつ、そのインタビュー記事からやや長めに引用します。
(サイゾー電子版2012/03/02記事より引用)
「大勢の方たちが亡くなったとき、自分は数100kmしか離れていないのに酔っぱらっていたんです。翌朝以降もテレビを見ては落ち込んでいました。鬱病みたいな状態でした。現地に行った取材者は遺族の方たちに『今のお気持ちは?』と尋ねるわけです。バカですよ。でも聞かないことには何も始まらない。普段からメディアの仕事をしていて、事件や事故が起きれば現場へ行く。不幸を撮りに行くわけです。それが仕事なのに、そのことをごまかしてきた。でも、今回は規模が大きすぎるんです。見渡す限りガレキの山で、遺体があり、被災者がいる。」
(中略)
「カメラで撮ることには加害性があります。ボクは、あの人(=現地で不快感をぶつけてきた遺族・作者注記)にもコンセンサスを取る必要はなかったと思っています。ドキュメンタリーを撮るんだったら、コンセンサスを取れないことはいくらでもあるんです。そういうものをボクは映像素材にしてきた。暴力行為ですよ。そもそも、そうやってきた。今回、あの人にだけコンセンサスを取るのはフェアじゃない。やるんだったら、すべて傷つけるんだという気持ちがあった。加害性があるのは当たり前だし、常々それは思ってきました」
(引用ここまで)
『311』に関して言えば、テレビが報じなかった遺体の映像や自衛隊の救援活動もそうですが、被災者にとっては暴力であっても、社会全体にとっては必要だという側面が間違いなくありました。私自身、ネットで海外の報道を見る前には、現地の悲惨さを想像することすらできませんでしたし。それに向き合った作品はとても貴重なように思います。
さて、エンターテインメント性を追求すればテレビは暴力に成り下がります。しかし、それを認めた上で仕事をすることがメディアのあるべき姿ではないでしょうか。読者のほとんどいない、コメントも全然書いてもらえないこのブログ作者でさえ、少しはその責任を感じながら書いているつもりです。個人名や固有名詞を書くことすら一応の葛藤はあります。
また、テレビの仕事は花形のイメージがありますが、実態は少し違うと思います。前回記事を要約すれば、私には無責任で嘘つきな素人の金儲け集団に見えてきます。かつてはブランドイメージを高めれば良かったのでしょうが、その戦略も陳腐化していると感じます。これからは視聴率よりも社会的責任と真に向き合う必要があるし、無遠慮なクレームにも耐える必要があるのではないでしょうか。
最後に、この記事を書いていてもう少し自分なりの見識を深めようと思い、こんな本を読み始めました。読み終わった後で追加記事を書けそうなら、また続きを書きたいと思います。
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