ひとつひとつやっていきましょう。

K国N国について、歴史的なながれ解釈は様々にありますが、個々の人を見る分には私たちとさほど変わらないとも思います。文化、風習が異なるので物言いや物事の感じ方が異なるでしょうが、基本的な部分は変わらず、感情の動くポイントは同じ。国家もしくは国レベルでみた集合意識は、私たちが苦々しい思いで眺めなければならない態度をとり続けるでしょう。

しかし、それもどこか当たり前のようにも思います。国家間戦略のもと歴史に翻弄され現在の状態になったわけです。陰で何者かが動いていたとしても、手を下したのは人間で人間が現在までそれらの国家を育ててきた。。。

エネルギーレベルで見れば、その反動として国家間戦略として他者を脅す、他者のモノを奪う、嘘をつく、命の尊厳が著しく低下する。。。という現象はでてくるのではないか?と思います。人間が起こしたことは人間が向き合い落とし前をつけないといけない。。。仮に国家間の攻防にも因果の法則が当てはまり、さらに何者かの陰謀の結果、人間が何らかのカルマを背負わされてしまったとしても、、、そういう発想も先日のチャネから続いています。

陰謀や手助けや、、、いろいろな存在が関わってきても、種としての人間がみる世界は人間の問題であるということ。様々知ったうえで、このもっとも基本的なスタンスに人間は戻らなければならない。。。


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いつか
あなたは塩爺?

塩爺
そうじゃ。。。

いつか
でも、何か違う。。。

塩爺
階層が変わったのじゃ。今までのわしとはバージョンが異なる。

いつか
そんなことあるの?

塩爺
あるもないも、自分で確かめることじゃの。


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塩爺
先日よりうまく言葉に出来ずにおったことじゃの。そう、この世界を多次元的にとらえればとらえるほど、事象の根源は自らに戻ってくる。そして、人間に起きた事は人間が向き合い、対処していくことが基本ということがより理解されてくるであろう。

この宇宙は単一である。しかし、復合でもある。このパラドックスのなかで存在していくという事は、個として種として、多次元という布をどのように縫いあわせるのか?どのように糸を通すのかということが問われる。糸は意図であり力である、力とは次元を超える力である。

おぬし達がみている現象とは、刺繍のように縫われた糸じゃ。一面の布に針を刺し糸を通す。表を通り目に見える糸が現象としてみえる。裏を通り目に見えぬ糸がエネルギーの活動であり、感情であり、可能性であり、過去であり、未来なのじゃ。

現象の裏には目に見えぬ糸が繋がっておる。目に見えぬ糸を目に見える状態にすることで現象が変わってくる。目に見えるものは何ものかを隠す、目に見えることにより消化される。目に見えぬものは、それを無いものように振る舞うことはできても隠すことはできぬ。

かの国々の振舞もひとつの繋がり、バランスにすぎぬ。表面的に見ればその振舞は感情に触れるやもしれぬが、いつしかその目に見えぬエネルギーも消えるであろう。全てのエネルギーを放出した時国として民族として完全に枯渇してしまうかは、それぞれの振舞による。おぬし達は激動する世界のなかで自立できぬ子供にたいしての大人としての振る舞いをすればよい。


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いつか
階層について、、、
塩爺も階層があるとのですが、、、なんというかドラゴンボールみたいに、神がいて界王がいて界王神がいてそのまた上の、、、というふうにずっと続いていく様子もうかがえるのですが、、、

塩爺
多次元とはそのようなものじゃ。ここで間違ってもらってはならぬのは、高次が尊く低次が卑しいのではないということじゃ。それはあくまで存在する世界の質の違いにすぎぬ。2次元にもおぬし達よりも広い視野を持つ存在は多くにいる。それらは2次元にいながら多次元をわたることが可能な存在。

いつか
・・・

塩爺
そう、、、鏡の中に住むような存在じゃ。全てを写し、多次元を2次元に落とし込む世界じゃ。。

しかし、おぬしらが見ておる世界とはその根源は先に言ったとうり。。自らの足元に戻る。階層、、どこをみるかでも見えるモノがかわる。おぬしらが現象界にすむであれば、次々に現れる現象を観ればよい。多次元の眼でもって。。。


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いつか
目に見える糸の話ではないですが、この宇宙は目に見えない糸を目に見える状態にすることを望んでいるように思います。目に見えること=現象化ですが、目に見えることにより更にそれを超える現象を呼ぶように。なんというか陸上や水泳などの記録が破られ続けるように。。。

わたし的に何やら変わったなと思ったことは、爬虫類は哀しい存在だなと思った時です。本当は時間軸のバージョンが変わったときとかに起きていることかもしれませんが、、、爬虫類、例えばアヌとかの存在の重さがわたしの中で変わったんです。上手く言えないですが、過去になったというのでしょうか?彼らが目に見えているかというとそこは確かではないのですが、いろいろ知る中で少しずつ彼らを消化し始めているような?

その彼らの中には日本神界も入っているのですが、個人的な思い、、尊敬、感謝、愛着、必要性(何かを与えてくれる存在というよりも間違う人間を戒める存在)を感じてるせいか、日本神界は影が薄れないでいます。。。

塩爺
見える糸、見えぬ糸とは、そうおぬしが目にした言葉、、読まれない札は永遠に読まれない、、そして、起こりうることは、起こりうる、、、となる。見えぬ糸は見える糸と繋がる。現象とは見える見えぬを連綿と針でさす時間軸の中のつながりじゃ。


見えた糸は先に申したように隠すこともできる、また、布からほどき消すこともできる。先日、アヌも神界もその上も人間が呼んだ、、ともうしておったの。そう、彼らも人間がみておる刺繍の中の一本の糸にすぎぬということじゃ。哀しいという感情は、悲しいではない。全てを受け入れ持って感ずるのが「哀しい」である。その感情に宇宙が答えたのはおぬしも感じたであろう?
その答えの示すことは、宇宙が望む閃きや驚きは、その先にあるということじゃ。そして哀しさこそがこの宇宙ともっとも親和性が高い感情なのじゃ。


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いつか
親和性とは?

塩爺
おぬし達の認識とはなんであるか?海と聴いて何を思う。海と聴いて、水を思うもの、船を思うもの、水平線を思うもの、魚を思うもの。。。認識はそれぞれに異なる。そして、海と聴いて思い浮かべたモノは、果たして海であるのか?そこには「海」に対するそれぞれの中に存在する親和性を認識しておるに過ぎないのではないか?人により海は船であり船は海であるのじゃ。

いつか
先ほどの「哀しい」が宇宙と親和性が高い、、とおっしゃったのは?私自身のなかにある宇宙との親和性ということになるのでしょうか?

塩爺
そうなるの、しかし、この宇宙は単一にして複合ともいった。また答えを感知するという事はそこには相互の同質さも存在するということじゃ。


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いつか
なぜ人間は表現をするの?

塩爺
個々にその度合いの違いはあれど、人間は感知した見えぬものを表現したいという欲求を持つ。その最たるものが愛や感情や思い、、じゃろう。人間が多次元の存在である身近な証拠は絵を描くことじゃ。絵を描くことはもっとも根源的な多次元活動となる。何故なら目に見える3次元、時間を入れれば4次元を感知し2次元に落とし込む。更に多次元を2次元に落とし込み表現する。おぬしらにとって見慣れた光景かもしれぬが、実はこれは多次元に生きる証拠であるのじゃ。だからこそ、ピカソはあれだけの影響力を後世にも残すことになった。


高次、高次といってもこの現象界に直接干渉できる存在はそう多いわけではない。人間は多次元をわたる媒体としての質ももちあわせておるということじゃ。そして表現への欲求はそのまま、この宇宙の欲求ということになる。


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いつか
人間は関係性の生き物?

塩爺
人間だけではない。この宇宙全てが繋がりの中で均衡しておる。

いつか
ボロノイ図のように?

塩爺
そうじゃ。あれはあくまで2次元平面に限った図であるが、この世界のあらゆる力、存在、、の持つ領域が均衡している。ボロノイ図はまったく異なる動植物に似た柄として現れておるであろう?似ている所にはなんらかの原理が働く。。

そのことは条件の複雑さが異なるだけで同じく全てのものに働いておるという事じゃ。。。無論原理とは一つではない。脳細胞の繋がる様子が宇宙の銀河の作り出す景色とよく似ていると思うもの、そしてそれをボロノイ図と対峙するドロネー図を思い出しながら見る者もおるであろう?


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いつか
いったんここまでにします。
ありがとうございます。

塩爺
的をしぼった方がより深い問いとなろうの。。。まあしかし、先日までの生活で乾いたスポンジが一気に水をすったような状態では仕方なくもあるがの笑。。。


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先日、あるドラマをみました。石川県を舞台にお酒造りの話のドラマです。静かで淡々と流れていく話でシーンごとに流れる景色や曲がとても美しいと感じました。わたしたちは人間ですから人間の眼で、人間の都合で、思考することは悪いことではないと思います。

しかし、人間とは別の摂理で働く麹菌や気候と向き合いながら、人間の都合・道理(儲け、家族、親子関係、プライド、、)を超えて酒造りに向かう。そして超えながらも人間の豊かさのために生きる。この異なる摂理や道理との対話する姿に感じるところがありました。

人間の道理を超えた姿は、人には鬼と見えることもあるでしょう。でも、人間以外の道理や摂理も大きく横たわり存在し、そんな時、「狂気」とはただの人間の都合に合わないものというだけかもしれないと思ったりもします。

「人間」にいつもこだわっています。また、わたしは日本人で日本が大好きで「日本」にもこだわってもいるのだと思います。上記のやり取りからみても、わたしが見ている世界は私の親和性がよんだひとつの認識にすぎないのは間違いない、、と感じます。

人間の道理や都合を超えて何かの別の道理や摂理に触れながら、人間・誰かの為に何かを作り上げた人やその人の思いは、残っていくのだなと思います。それは酒造りだけでなく、古い建築物かもしれないし、書や絵画かもしれないし、学校やお金にかかわる仕組みなど、、、もそうかもしれないと感じます。

宇宙も人間もいろんな道理や摂理、力、関係性でできているんだなあと改めて思い。その中でどう一本の針や糸を通していくのか?という気分に合致していたように思うのでした。。。

ドラマを見ながらこの曲を思い出しました。
『新日本紀行』

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PS:

いつか
キクリさん、「熱いうちに練り上げろ、情熱を持って、、」と前におっしゃいました。ちょっと視点をかえて人間が体温を上げるのも関係するのかと思いますが、何かあります?

キクリ
おぬし、わらわをダシにつかうきであるな・笑

いつか
いえいえ、めっそうもない。。。

キクリ
食えぬのう。どうもそういう食えぬところまで学んで来たようじゃの。。。
まあよい。。。人間の温度は常に内から生ずるもの。精神的影響は大きい。しかし、精神論に走るのではなく、身体あっての人間というところじゃの。。。

全ては幹にあり、そして熱は血の巡り。熱は腹。。。幹を支えるのは骨と筋肉。血の巡りは脚じゃ。前にも誰かがいっておったはずじゃ。内臓、筋肉への刺激、振動が必要じゃと。あと、人によるところもあるが、腹から声を出し、腹式にて呼吸する鍛錬をすることが、身体の熱のことだけでなく、仕事においても役に立つ。腹を通った感情は人に響く。。。
このへんでよかろう。。。

いつか
ありがとうございます。


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それでもって、やはり私たちはこの世界に向かって言わないといけないように感じます。なんとなくですが、、
「Hello,world」

『BUMP OF CHICKEN「Hello,world!」』