高木文平の自叙伝『三二庵閑話』を読み進めながら、その生涯を追っています。原文を読みやすいように書き改めておりますので、引用等される場合は、原文をご参照いただきますようお願いします。
【参考】 国立国会図書館デジタルコレクション『三二庵閑話』
明治21(1888)年、琵琶湖疏水の水力利用の参考にするため、アメリカへ視察調査員を派遣することが決まりました。当時、西陣の織屋で川島甚兵衛という人がアメリカから帰国し、マサチューセッツ州ホリヨーク(ホールヨーク、漢字表記は保育)で水力を利用した大規模な都市計画が成功しているという情報をもたらしました。そこで、疏水工事の主任技師田辺朔郎とともに渡米したのが、高木文平でした。
水力電気事業
水力電気──、あれは全く米国アスペン山にての幸福なる拾物ぢゃ──、と云ふのは明治廿一年九月、京都市の上下京聯合区会の推選により、米国保育水力配置方法実地取調委員として、時の疏水工事担当技師田邊朔郎氏と共に、かの国に渡航した。この保育水力配置方は、わが疏水事業の好模範として大いに望みを属し、高低ある運河の「インクライン」及び閘門の開閉をもって通船上下を自在ならしむる仕懸などを実験し、わが邦疏水工事に応用する積りにてまず最初に華盛頓府に続く所の「ホトマク」運河、及び殊に名高き「モオリス」運河等の視察を終へ、続いて彼の主眼とするところの保育に到れり。
文平はこのときの旅程について『はなしの代理』で詳細に書き、アメリカ大陸の大きさを目の当たりにして非常に驚いたことを伝えています。
明治二十一年十月廿日加那陀飛脚船にて横浜を抜錨─。バンクウバ港に着せしは、同十一月四日午前七時なりき。(中略) 同日、午後十二時四十分、汽車にて東行を始しや、往けども往けども森林のみにて、(中略) 同六日まで二昼夜程は、大約同一の森林のみ。それより四昼夜間にしてモントリヨールに達するまでは、また一様の原野なり。(中略) かねて我国は小なり米国は大なりとは地図に因て知り得たるも、眼前斯くの如く未開墾地の広大なるを見ては、実に意想の外に出て仰天閉口千万なり。
2人が横浜港から乗船したアビシニア号(OLD TIME TRAINSより)
11月14日にワシントン(華盛頓府)に着いた2人は、まずポトマック運河を視察します。高木誠氏によると、これは現在チェサピーク・オハイオ運河と呼ばれているものとのこと。続いて11月21日、ニュージャージー州のモリス運河へ赴き、インクラインを見ます。23日にニューヨークへ戻り、27日にはボストンに到着。12月3日、ボストンにほど近いリン市で電気鉄道を見ています。この経験が、後に京都に電気鉄道を走らせるきっかけとなったようです。
リン市の電気鉄道(Wikipediaより)
12月5日、いよいよ最大の目的地、ホリヨークに到着しました。しかし、それは京都に適用するのが困難な規模であることがわかり、2人は落胆しました。
しかるに同所を一見するや実に規模の宏大なるに驚くと共に、生来無比の失望を極めた。それは何かと云ふと、この保育水力配置方は、わが京都の疏水工事に適用する能はざる仕組なる故である(理由は略す)。顧みれば本邦の該工事は前代未聞の事業にして、しかもその工事は既に央ばに進み、好模範を海外に採らんため、吾等を派遣したるに狙ふ燈明台は一の狐火に過ぎざりし、この大失望は私等の寝食全く感を失ふて、一時途方に暮れた。
このときのショックについて、文平は帰国から5年後の視察談でも次のように語っています。
この時の失望は殆ど名状すべからず。食卓前にあるも飲食味なく、深夜臥床に就くも一睡を貪る能はず。実に進退これきわまり、ここにおいてか一層旅の疲れを覚えたり。
1877年頃のホリヨーク(KNOWOLより)
蛇行するコネチカット川から引いた2本の運河を中心に、
計画的に建設された工業都市で、製紙業が盛んなことから
「ペーパーシティー」と呼ばれた。
ところで、高木誠氏は次のようなエピソードを紹介しています。文平が上下京聯合区会で渡米調査員として選出される際、「高木氏は英語が出来ないから」と異議を唱えた議員に対し、「文平には目がござる」と反論したというのです。ところが、帰国後に書かれた『はなしの代理』では、英語教育の重要性を力説しています。
わが国二十年以下の男女輩は、商も工も農も、大工も左官も桶屋も、土方も伝手も、舟子も車ひきも、その最も貧しきもの程尚々英語を学ばせんこと。
英語ができないことが、よほど応えたのかもしれません。
(つづく)
参考文献
高木誠『わが国水力発電・電気鉄道のルーツ あなたはデブロー氏を知っていますか』 2000年
京都市電気局庶務課 編『琵琶湖疏水及水力使用事業』 1940年
「高木文平の視察談」(京都新聞社 編『琵琶湖疏水の100年』資料編 1990年)