【怪しいおやぢ】です。

 今回は、『粟道曲舂』

 『近世商売尽狂歌合』(石塚豊芥子)から


 『粟餅曲舂(あわもちきょくつき)』

 これも古くからあるものようだ。

 生玉屋というのが名代の店である。

 また南伝馬町一丁目東側、間口三間ほどの【加納屋富五郎】という者が、曲舂、こねどり、餅をちぎる手先の働きがおもしろいと言うことで、江戸中にその名を知られ、上様の耳にも入ることになり、忝《かたじけ》なくも上様の御上覧があった。


 こうなると、曲舂の際は、店先に見物が集まり、広い往来が半ばふさがって押し合うほどだった。

 ところが、文政、天保の火事で類焼して、その店は絶えた。

 その頃、同商売をしていたのは、御成街道かのふや、芝飯倉、本郷二丁目は今もある、


 『風流浮世鏡』(安永三年印本)に曰わく、

「あわ餅。粟餅の名物をめしてお帰りなさい。粟はみな引き抜いておいて入れます。百人がひゃくにん様方のご評判で繁盛いたします」

 ―――こうあるので安永の頃は、餅を挽き抜いて蒸して舂いたのだろう。

 …………。


不思議草紙~【怪しいおやぢ】の江戸奇譚+α-粟餅曲舂

 図の詞書きにはこうある。

『粟餅曲舂』

 名代名代、これはお江戸でご評判のいくたまや正六が家の看板粟餅のきょくつき、

 きょくつき、やりゃつく、ヤレつくヤレつく、なにをつく、

 麦舂く米つく稗をつく、証文手形に印をつく、

 旦那のしりへ供がつく、女郎はお客のえりにつく、

 朝のわかれに山寺の、山寺のおんぼう坊さんかねをつく、

 だきつくうそつくくらいつく、

 居ざりのきんたま砂がつくサッサコレハ、

 根元なだい根元なだい。

 …………。


 さて、十返舎一九の『東海道中膝栗毛』の中には、大阪天王寺の生國魂神社(いくくにたまじんじゃ)が、粟餅の曲舂の元祖だと記してあった。

「サァサァ、ひょうばんでひょうばんで。

 元祖名代粟餅のきょくつきは生玉が家の看板。

 ソレつくぞ、ヤレつくぞ、アリャコリャつくつくつくつく、何をつく、

 粟津つく、麦つく、米をつく。旦那はんがたには供がつく。

 若い後家にはむしがつく。隠居さんはちょちんで餅をつく。

 おやまはお客のえりにつく。芸子にゃまたしてむしがつく。

 コリャ居去りの金たまへ砂がつく。

 ヨイヨイ、サッササッサ。ひょうばんひょうばん」


 粟餅の曲舂に関しては、喜田川守貞の『禁制風俗志』などにも記載があったので、いずれそちらも紹介しよう。

 

 

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