孟宗竹の起源(その13) 略歴(2) 「目黒の筍縁起」(浅黄斑)
さて、孟宗竹の話。 小説ではあるのだが、浅黄斑の「目黒の筍縁起―胡蝶屋銀治図譜(2)」の中で、孟宗竹の流布の経緯をモチーフにしていた。 目黒に孟宗竹を伝えた山路治郎兵衛(の息子)の依頼で、「薩摩藩を経由しない(江戸近郊での)孟宗竹の来歴を調べ上げて欲しい」 というのがそれ。 小説は、 品川の薩摩藩下屋敷の孟宗竹の株を、庭の手入れしている染井村の植木職人を通じて入手し、戸越えの別荘で栽培を始めたのが、寛政元年(1789年)。 栽培に成功し、販売を目論んだのが、文化三年(1806年)。 ただし、過ぐる寛政九年(1788年)、江戸の青物市場に孟宗竹の筍が出回った際、薩摩藩士と思われる集団が、筍を扱った棒手振、八百屋、問屋を襲い、突き止めた入荷先の染井村の竹林を焼き払い、持ち主の植木屋は家族もろとも失踪した。 という事件を鑑みると、薩摩藩以外からの来歴が……という話になる。 結果として、この小説では、寛文元年(1661年)中国の隠元禅師によって、中国よりインゲン豆と共に伝来し、宇治市に建てられた黄檗山万福寺の末寺である、麻布六本木道の黄檗山長昌寺に伝えられ、治郎兵衛が手に入れた……という来歴にしてある。 南畝の「奴凧」でも紹介した、 わが若かりし頃は、孟宗竹至ってすくなし。大久保外山やしき門前腰掛外繋場といへる石の榜示たちし所の農家に植えありしを見にゆきし事あり。 其後麻布六本木の植木屋にありしを見き。 この部分を重視したのだろう。 ―――大久保の方は、完全無視にしているんだが……。 目黒の筍縁起 胡蝶屋銀治図譜2 (ベスト時代文庫) [ 浅黄斑 ] 709円 楽天