以前 玉井さんからいただいた雑誌を読み返しておりましたら…
Fall Line 2006 の中で見つけた
三浦 雄一郎さんのコラムに心揺さぶられましたので…
' ぼくはその頃なにを夢みていたのだろう。重荷に喘ぎながら毎日山を登っていた。それは登山というものじゃない。山小屋や工事現場へ荷物を自分の背で運ぶ歩荷(ボッカ)の組合にはいっていた。
北アルプスの立山、剣岳をギイギイきしむ重い深い音をたてて登っていく強力達。あのように強くなれたらと思う。
汗とあえぎの中で踏みしめるたびに、地球にめり込むような重荷をかついで一歩一歩登ってゆくとき、人は何を思うのだろう。そこからどこへ行くのだろう…。
ぼくは大学の研究室を飛び出し、こうした筋肉の重労働者の仲間入りをしていた。3年あまりの歩荷の仕事で100kg 近くの荷物をかつげるようになった頃、その荷物を下ろすと、体は羽根が生えたように飛びまわれる力がついていた。
ぼくは、それから雪の斜面を求めて滑りまわった。その頃は、何を考えていたのだろう。ともかく山という山を飛びまわる、不可能かもしれないと思える雪の斜面を飛び降りる、それしか考えていなかったのかもしれない。
かつてのレーサー仲間や、後輩のスキーナショナルチームのエリート達がポールを立てて練習している傍らを、ぼくはギイギイと重荷に喘ぐ荷物かつぎの労働者として通りすぎてゆくだけだった。
この時28歳。この年齢はスポーツマンとしては世界には遠すぎる。ナショナルチームには縁のない年寄り(ましてや現役の頃でさえ入れてもらえなかった)で、二流のスキーレーサーだった。
いいじゃないか、日本で二流でも、いつか世界へ飛び出して自分を試してみよう。
Boys be Ambitious だけが心の支え。
夢だけが、生きる力を引き出してくれていた。
でも、この向うにその世界への道があるのだろうか。荷物を下ろして山を飛びまわり滑りまわりながら、これで世界へとびだせるのだろうか、まだ何か分からなかったけれど、別の大きな世界が遠くで呼んでいるような気もするのだ。
国立大学教授、そのコースを自分で捨ててしまった。いささかの後悔の苦さが、さらにこうした重労働を支えていた、見えていたエリートコースの特急券を捨てて、どこへ行くのかも知れない遠い遠いあてのない重荷の人生の旅。気がついても帰るあてもない旅に出てしまった。東京には家内や子供たちもいた。当然、歩荷で稼いだお金の大半は、その家族への仕送りに消えていた。
無我夢中。立山、剣、穂高、北アルプスの白い蛇のようにせり上がる雪渓を一人で滑りまわっていた。
心に体に不思議な力と、世界へ飛び出したいという願望が強いほど、悲しくなるほど夢はかすんで遠のいてゆくような気がする不安感。
今考えてみても、あれほど無心に、無我夢中になって山を歩きまわり、重荷にあえぎ、そして山を滑りまわった頃が懐かしい。
ひもじさ、貧しさ、夢だけしかなかった青春時代。それが終わってもまだ追い求め続けた、雪に描く夢の世界。
捨て身の人生、捨て身のスキー滑降、エクストリーム。
まだ世界には遠かったけれど。 あの重荷をこらえひたすら滑りまわった年月の向うにある世界へ、
心を体のバネを強めギリギリに巻いてそこからはじき出せること。二度三度、さらにこれからもくり返して行ける。自分自身を信ずる、可能性の信者になって山を登り続けることができた。
わが青春に悔いはなかった。
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