いつものように帰路につく。
まだ、変わり切らない春の風に少し肌寒さを感じながら、自転車をこぐ。
家につき、扉を開けていつも通りの手順でソファに座る。
なにをするでもなく、ただ座ってる。
一人の時間には慣れた。でも、寂しくないわけじゃない。
誰かの話し声や笑い声、存在感、あれほどに人を安心させるものはないと、僕は知ってる。
僕は弱くていい。孤独と仲良く踊るくらいなら、あの暖かさに触れ続けていたい。
いつ、数日前のこの時間にあった出来事を思い返して、寂しさを紛らわすのでやっと。
振り回されたって、手の上で転がされたって、その時間が今の拠り所なんだ。

だいぶ、更新が遅れました。
みたらしたらし団子の鬱ブログ。笑
改めて読み返すと本当、病みそう。
何名か読んでくれている方がいた様で、嬉しい限りでございます。
どうか、沈まない様にしてください。笑

最近は人の未来というものを考えさせられます。
いや、元々考えることがよくありました。
それは別に誰か、近しい人が亡くなったとか、そういうわけじゃなくて。
単純に癖で考えることが多いっていうだけです。
僕は常に人生は選択の連続から成り立っていると思っています。
誰か、有名な人も言っていた様な気がします。
本当にその通りで、何をするにも選択の積み重ねでしょう。
どこかにいく、何かを買う、何かをする、
歩く、話す、聞く、掴む
誰かに会う、笑う、泣く
どんなことにおいても、それは自分が選択してきたことでしょう。
誰かの決められたレールの上を歩いていても、そこを歩くことを決めたのは、その人。
貧しい生活をしている、自分は報われないと考えても、そこに至るまでの選択をしてきたのは、その人。
でも、誰もが思っていることに、明日はなにしよう、明日は何々がある、ということ。
予定があったり、仕事があったり、そういうことを考えるでしょう。
また、誰かに伝えたいことがある、でも、それはいついつにしよう、など。
そう考えて生活していくのは、当たり前だと思います。
でも、この当たり前という言葉。
魔の言葉だと僕は考えています。
当たり前とは、言い換えれば感覚の麻痺ではないでしょうか?
以前にも述べましたが、僕は雨風しのげる家があり、笑いあえる友がいる。それが幸せだ、と。
でも、世の中まっとうに生きていれば、普通なことですよね?
でも、普通ってなんですか?
当たり前ってなんですか?
みんながみんな、同じくしているのでしょうか?
みんなに同等に明日は来るのでしょうか?

恐らく、同じことや普通のこと、当たり前のことなんてあり得ないと思います。
普通のこと、当たり前のことなんてのは、ただの感覚の麻痺。
故に人は感謝せずに生活する。失うことの後悔を忘れる。
別に、今の生活に感謝して生きろと思ってる訳ではないのです。
ただ、何かに悩んでいるのであれば、こう考えて欲しい。
約束された明日などないと。
余命、一年と宣告されても、一年の猶予があるわけじゃない。それよりも早く亡くなることだってある。
健康だから、寿命をまっとうできるとは限らない。
だから、悩んでいることがあるなら、後悔しない様に実行して欲しいです。
それは、あなたの明日もしかり、相手がいるならば、あなたに明日があっても、相手の明日はないかもしれないということも。

僕はもう、諦めました。
何もかも。
自分の未来がこのあと、終わったとしても後悔はありません。
かと言って終わらせる気もありませんが。
後悔はありません。
でも、もしあなたが今悩んでいることをしないで、決断を先送りにしていたとして、万が一、明日死ぬとわかっているならば、そのままで後悔しませんか?
もし、あー、後悔しそう、と考えているならば、それは実行するべきことでしょう。

人は選択と後悔の連続でしょう。
それでも、前に進む力がある。
立ち直る力がある。
あなたを支えてくれる仲間がいるでしょう。
本当に明日で終わる訳ではないですが、終わらないとも限らない。
だから、後悔しない選択をしてください。

当たり前なんてない、普通なんてない、明日が必ず来るとは限らない。
それを常に頭に置いておくことで、少しだけ世界が変わって見えますよ。
僕は最近、それを強く痛感しています。
でも、後悔はありません。
諦めたので。

それでは、また自己満足で。