『天気の子』と神話の話題、第2回です【以下、ネタバレ全開です】
アンドロメダとクシナダヒメには、従来、共通点ばかりが強調されてきたように思われます。ともに、生贄として怪物に捧げられそうだったこと。ともに、その怪物を倒して彼女たちを救出してくれる英雄としてのペルセウスとスサノヲという存在がいること。
確かに物語の構造そのものには、大きな共通点があることはそのとおりですね。
そこで、いったん視点を“生贄となる女を救出する男”の側に移してみましょう。
つまり『天気の子』でいえば、森嶋帆高がその立ち位置に当たります。
ここでまず気づかされるのは、帆高にはペルセウスやスサノヲのような、特別な力は何も無いということです。全く無力な少年に過ぎません。彼は最初から、ペルセウスやスサノヲにはなりえないという定めがあります。
とはいえ、神話ではなく現実の問題で言えば、帆高だけではなく全ての人間はペルセウスにもスサノヲにはなれないわけですが。
ともかくそんな無力な少年ですから、彼が怪物…つまり天災をどうこうすることなどできるわけもない。
彼にできることあったとすれば、生贄となる少女を何としてでも助け出すことだけです。
そして映画はまさにそのことだけを、彼は必死になってやりとげてしまう。
ペルセウスではないから、アンドロメダをさらって逃げれば国はケートスに滅ぼされることになる。
スサノヲではないから、クシナダをさらって逃げればヤマタノヲロチがそのまま襲い続けることになる。
帆高だけではない。誰だってペルセウスやスサノヲではないのだから、誰がやっても同じこと。
ならば素直にアンドロメダやクシナダが飲まれて、それで人々が救われるならそれでもいいじゃないか、誰だってそう思うだろうよ…いわば、これが須賀圭介のスタンスですね。
もっとも彼のこのスタンスは、神話的な説明を“うさんくせ”ということとセットでもある。
オカルト系・スピリチュアル系の読み物を手掛けることもあるが、それはあくまでエンタメ。
彼にとって、生活のための売文以上のものではありません。
しかしそれならば、こうも言わなくてはいけないでしょう。
神話ではなく現実には、ペルセウスやスサノヲは居ない…ならばアンドロメダやクシナダも居ないはずである、と。
帆高も誰も英雄神になりえないのは当たり前だとして、ならば陽菜が何故ひとり、アンドロメダやクシナダにされなければいけないのか。
そこで、陽菜自身を、アンドロメダやクシナダと比べてみると、奇妙な不一致が見出だされるのです。
アンドロメダは一国の王女です。つまり人間であり、世を治める側に属しています。彼女の母親が海の神を激怒させたことが原因でした。国を滅ぼされるか、さもなくば愛する娘を差し出せ。アンドロメダは民の身代わりに生贄にされそうになったのでした。
これを陽菜に当てはめるなら、陽菜はむしろアンドロメダ一人の犠牲のうえに救われるべき民の側にいるはずです。
一方でクシナダヒメは女神です。稲の豊穣を司るべき力が備わっていると思われる名前をしています。つまり陽菜は、女神クシナダヒメの恩恵を受けるべき人間の側にあります。ところが、陽菜は貧困児童であり、その食の貧しさは映画に描かれていたとおり。もっともクシナダの恩恵が必要な立場であるはずなのに。
まさに、真逆の立ち位置にある。
帆高も誰も、ペルセウスやスサノヲにはなれないという、当たり前の図式とはレベルが違う。
アンドロメダやクシナダヒメによって、救われ恵まれるべきその位置に、陽菜がいます。
何かが違います。
神話のモチーフを物語に重ねようとすると、ある程度まではその図式になります。
ところがそのモチーフの原話の中で救われる王女や女神が、陽菜とは全く裏返しの関係になってしまう。
では、守られるべき存在、救われるべき存在としてではなく、陽菜自身に何か独自の神話のモチーフはないのでしょうか?
それを次に、天野陽菜という名に求めてみたいと思います。