掛川市領家の東名高速道路の下を走る国道1号線。
以前からここの橋桁に疑問があった。
国道1号線分の橋桁は分かるが、東名の完成時から国道両脇にも橋桁になっていたのはなぜか。
今となっては、掛川バイパスの沢田ICの連絡道路として、この橋桁が生きているが、東名完成時(S.43年時)では、田んぼだった。
それも長い期間ずっとその田んぼの景観は続いた。
掛川バイパスができたのが、S.56年3月。
あの榛村純一市長のときである。
榛村市長は、新幹線開業や東名高速道路インターチェンジ、掛川城づくりなどなど、市の前進的な経営に大いに力を尽くした方である。
その榛村市長の時代の産物の一つが、この国道1号線掛川バイパスである、と勝手に思っていた。
掛川バイパスが、市議会で提案されたのは、なんとS.42年3月。
榛村市長の時代ではなく、その前の榛葉虎之介市長でもなく、その前の中山吉平市長でした。
東名高速道路の造成とともに、掛川バイパスがすでに構想されていたということです。
同じころ、S.40年5月には、藤枝磐田間バイパス建設期成同盟会が結成されています。
領家の橋桁のなぞがやっと解けました。

