1.“汚れ”はいつから敵になったのか
現代の都市生活では、汚れはほぼ自動的に否定される。
部屋の埃はアプリと連動したロボット掃除機が吸い込み、
洗濯物はAIが乾燥まで最適化し、
手指の消毒はもはや挨拶に近い儀式となった。
清潔は健康のためのものだったはずが、
いまや社会的な立ち振る舞い、印象、信頼性の評価にまで結びつき、
個人の精神生活に深く入り込んでいる。
そんな「清潔の正義」が強まる時代に、
ナック(NAK)のランドリー空間がとらえるのは、
むしろ生活が持つ曖昧さや余白である。
そこには、清潔と汚れが単純な対立ではなく、
重なり合い、共存し、ときに揺らいでいる姿がある。
2.ナックのランドリーが示す“清潔のリアル”
ランドリーという場所は、清潔の象徴であると同時に、
生活のもっとも“生々しい部分”が露わになる場でもある。
衣類についた汗、食べこぼし、外気の埃。
毎日の活動が布に記録され、それが洗濯槽のなかで混ざり合う。
ナックがランドリー空間を捉える視点は、
この「清潔」と「汚れ」が同時に存在する矛盾そのものを
肯定しようとしているように見える。
表面は明るく整っているが、
その内部には人々の暮らしが積み重ねた痕跡が沈んでいる。
機械は清潔さを回復するために回転しているのだが、
その回転こそが、生活の重みを静かに受け止めている。
ナックの写真や映像に触れると、
ランドリーは“生活を白くする場所”ではなく、
“生活の曖昧さをいったん預かる場所”として映り始める。
3.人工的な清潔と、生活の揺らぎ
清潔の基準は、明らかに人工的に作られたものだ。
どの程度の汚れが許容され、
どの程度の匂いなら問題にならないのか──
その線引きは社会によって、時代によって変化してきた。
だが、清潔が強調されすぎると、
その線引きが個人の生活そのものを制御しはじめる。
・洗濯物をためることへの罪悪感
・服にシワがあることへの焦り
・部屋に散らかりが見えることへの羞恥
・生活臭が「不正解」とされる空気
こうした感覚は、
清潔の名のもとに私たちが自分自身を裁く姿勢を生み出している。
ナックが描くランドリー空間は、
この「正しさの過剰」を批判するのではなく、
その向こう側にある“生活の自然な揺らぎ”を静かに照らす。
ランドリーに並ぶ籠、乾燥機の丸窓、
濡れた衣類の重さ、漂う蒸気。
そこには整った美だけでなく、
人々の暮らしから零れ落ちる余白がある。
4.汚れの余白が見せる、人間らしさ
汚れとは、生活の痕跡である。
汗や皮脂は身体の営みそのものであり、
食べこぼしや泥は日々の行動の記録である。
清潔が強調される社会は、
肌理の粗さや生活の重みを“ノイズ”として扱いがちだ。
だが、ナックが映すランドリーには、
そのノイズにこそ人間の姿が宿るという感覚が漂っている。
乾燥機の前で待つ人の手に残った仕事の汚れ、
濡れた衣類の重さに象徴される日常の疲労、
乾燥中に漂う布の匂いの微かな差異。
それらは「汚れ」という言葉で一括されてしまうが、
実際には生活の具体性と個別性そのものである。
ナックの視線は、汚れを消すべき問題ではなく、
生活を物語る「余白」として捉える。
その余白が示すのは、
清潔に分類しきれない、
もっと柔らかな“人間の輪郭”だ。
5.清潔とともに、揺らぎを受け止める空間へ
清潔は必要だ。
衛生や快適さは生活の基盤である。
しかし、すべてを無菌化し、
生活から汚れの余白を取り除き続けることが、
本当に豊かさにつながるのかは疑問が残る。
ランドリーは清潔を回復させる場所であると同時に、
人々の揺らぎや疲れをいったん溶かして受け止める場所でもある。
ナックが映す空間は、
人工的な清潔だけに回収されない、
生活の曖昧さを抱え込んだままの「中間領域」だ。
それは都市のなかで失われつつある、
不完全さを許容する柔らかさの象徴でもある。
6.汚れが教えてくれるもの
汚れは、ただ落とすべきものではない。
それは、働く身体、街を歩く時間、
誰かとの接触、日々の繰り返し、
そのすべてが残した“痕跡”である。
ナックの描くランドリー空間は、
清潔の向こうにあるその痕跡を
決して否定せず、丁寧に拾い上げる。
白さと生活のあいだにある曖昧な境界。
その境界にこそ、
都市で生きる人間の実感が息づいている。
ランドリーは、
その境界をいったん預け、
また持ち帰るための場なのだ。
株式会社ナック 西山美術館
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