抽象的な表現は比喩を通してイメージにつながる | 東京大学村上文緒愛好会

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一つ一つの言葉にこめられた作者の思いがわかったとき、古典は本当に面白いと思った。古典を楽しみたい。その思いが古い言葉の意味を求めるきっかけにもなった。

比喩が必要とされる文章、されない文章
比喩の例を二つ紹介したが、この二つの文章の内容はともに抽象的である。とくに最初のカントの文章はきわめて抽象的なことがらを論じている。このように、比喩は基本的に抽象的な表現に現れる。比喩はイメージ (想像)の言語的側面なのであり、抽象的な表現はイメージ (想像)を必要とするからである。
これに対して、具体的な表現では、イメージ (想像)を必要としないので、比喩も必要とされない。次の文例を見てほしい。

そのお椀は味噌汁で満たされた
車輪が自動車から外された
その袋は中身がない
彼は部屋の中にいる
この薬には睡眠成分が含まれている

最初の「そのお椀は味噌汁で満たされた」では、お椀という物理的存在物の中に味噌汁が物理的に入っている。二つ目の「車輪が自動車から外された」では、自動車という物理的存在物から車輪が物理的に外された。三番目の文章では、袋という物理的存在物の中身が物理的にない。四番目の「彼は部屋の中にいる」では、部屋という物理的存在物の中に彼が物理的にいる。そして最後の「この薬には睡眠成分が含まれている」では、薬という物理的存在物の中に睡眠成分が物理的に存在する。
これらの文は、物理的存在物の中に何かが物理的に入っているか、何かが物理的に外されるかである。これらの文を「容器」の文と呼ぼう。「容器」の文は、具体的な表現であり、比喩表現ではない。直接的に知覚等ができる領域を具体的領域という。「容器」もその具体的領域の一つであり、「容器」の理解は、言葉の世界では説明が不可能であり、身体を含む現実世界にその理解の基盤を求めねばならない。われわれが「容器」を理解できる基盤に存在する事実は、われわれの身体がこの三次元空間に袋として存在していることである。
一方、前の例を見てわかるように、抽象的な表現は一般に比喩表現である。抽象的なことがらは、そのままではわれわれは知覚ができない。すなわちイメージが作れない。このような直接的に知覚や指さし等ができない領域-文化、経済、政治、理論など-を抽象的領域という。抽象的領域のイメージは、比喩表現を通して具体的領域のイメージで作られる。
空間の比喩の中の容器の比喩による抽象的表現を見てみよう。次に示した具体的表現と対応する形で作ってみた。

私の心は満たされない (心が容器)
彼は選抜チームから外された (チームが容器)
その論文には中身がない (論文が容器)
彼は試験中である (試験が容器)
この料金には消費税が含まれている (料金が容器)

みなさんは、普段これらの文を読むときに、とくいイメージを作って理解しているわけではなかろうが、その理解の基盤には、容器のイメージがあることがわかるであろう。
一般に、抽象的領域のイメージは具体的領域のイメージで構成される。
抽象的表現は、直接的に知覚したり指したり指さししたりできない。よって、比喩を通じて、具体的領域の知覚や指さし等を用いて間接的に理解することになる。
心という抽象的領域のイメージは容器や方向という具体的領域のイメージで作られる。
ここで注意してもらいたいのは、抽象的な表現を理解するときに、いつもイメージを伴っているわけではないことである。ある抽象的な文章に最初に出会ったときは、いちいち頭のなかで何らかのイメージを作って理解しながらゆっくり読み進んでいくが、その抽象的な文章になじめば、とくにイメージを作らなくても理解でき、なめらかに読めるようになる。
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