近代という病/柄谷行人『意味という病気』 | 東京大学村上文緒愛好会

東京大学村上文緒愛好会

一つ一つの言葉にこめられた作者の思いがわかったとき、古典は本当に面白いと思った。古典を楽しみたい。その思いが古い言葉の意味を求めるきっかけにもなった。

近代という病/柄谷行人『意味という病気』
柄谷氏は良くも悪くも率直な人で、特に初期の作品は小林秀雄や江藤淳のような雰囲気が色濃いですよね。例えば、瑣末なことですけど冒頭九頁の「右のように書くとき、シェークスピアは何らかの覚悟を語っていたのだといってよい」、この「いってよい」という書き方、こういう風に肯定を重ねていくやり方は、江藤さんの『夏目漱石』にとてもよく似ている。
柄谷行人というと今は非常にか輝かしい存在ですが、70年代には桶谷秀昭氏や入江隆則氏、同時期にデビューした批評家と比べて、文壇の中ではどちらかというと埋没していた印象があります。もちろん、東大新聞に寄稿していた頃から東大生はみんな読んでいたそうですし、この『意味という病』も非常におもしろいんだけれども、初期はどうしても小林秀雄や江藤淳と比べられてしまうところがきつかったのかなと、久しぶりに読み返して思いました。逆に言えば、彼らの正統的な後継者としての姿を露にしている作品なんだと思います。

日本文学における批評の在り方
最初に近代日本文学における批評の在り方、というか小林秀雄について触れておきたいと思います。ご存知のように森鴎外や坪内逍遥、二葉亭四名迷といった明治の人たちもたくさん批評文を書いていて、保田與重郎であったり花田清輝、吉本隆明、批評家と呼ばれる人たちも色々いるわけですが、何だかんだ言っても近代日本文学至上、最初の批評家として位置づけられているのは小林秀雄です。
その理由は色々ありますけれども、まず彼のデビュー作、『様々なる意匠』です。昭和四年(1927)に『改造』という当時の一流誌の公募評論文で二等を獲ったものです。本人は書いた瞬間に一等だと思って、賞金分飲んじゃったそうですが。小林秀雄は学生の頃から小説を書いたり、『文藝春秋』に寄稿していましたが、これによって批評家としての第一歩を築いたことになります。
『様々なる意匠』がどれくらい鮮烈だったかというと、それまでの文芸評論は、島村抱月であれば自然主義、千葉亀雄であれば新感覚派、という具合になんとなく棲み分けがあって、その中で文学を上げたり下げたりしていたわけです。それに対して、小林秀雄は文学に現れる色々なイズム、プロレタリア文学とかモダニズム、リアリズムといった主張、あるいは流行を、意匠として扱ったのですね。さまざまなデザインが並んでいる光景そのものを示した。
批評文を要約してお伝えするの苦しいのですけれども、小林はその中で「宿命」という言葉を使っています。有名な一節で、「人は様々な可能性を抱いてこの世に生まれて来る。彼は科学者にもなれたろう、軍人にもなれたろう、小説家にもなれたろう、然し彼は彼例外のものにはなれなかった。これは驚くべき可気事実である」、そういう「宿命」を語ることが批評の本分なんだということです。いろんなデザインが並んでいて、こうも見えるしこうも見える。しかし自分というものは致命的なものではないか。いろんな可能性を見据えた上で、取り替えのきかないものについて語るということが批評であり、逆に言えばそれしか語り得ないんだと。

公益社団法人難病の子どもとその家族へ夢を

東京大学 第88回五月祭

東大生ブログランキング

東京大学被災地支援ネット

ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村

ガールフレンド (仮)
東京大学村上文緒愛好会 (u_tokyo_fumio)