春はすぐそこ、雨のにおい。鼻から体、体から胸に滲んでゆくそれにくさいなと独りごちたりくさいねと誰かと呟きあえたら幸せだなと思えるたぐいのにおい。

カレーは匂うのか、臭うのか。臭うだろう、と言ってのけた彼の鼻と言葉のセンスに眉をひそめた日々が懐かしい。彼はどこに行ってしまったんだろう。私のいないところへだよとあっけらかんと言ってのけるもう一つの声に世界が揺れる。そんなふうに危うい考えかたをしてはいけない、いけない…。まっすぐ進んで大学の門はすぐそこ、良心館の入り口自動ドアを抜けて大きなガラスに中の様子が丸見えのずしんと恐ろしい事務室に入る、相談したいですと伝える、そこまでがんばれ。良心館か、私はいま悪心に見舞われている感。くるしいよ、いかん。ぐるぐるとまわる心に視界まで揺れだしぶっ倒れる。


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三限に遅れそうだと急いで歩いていたら、目の前で女の子が転けた。正確には、奇妙なステップを踏んで倒れた。その様子が「訳あり」っぽいなと瞬時に感じる。心の中がどうなっているのかは具体的には想像もつかないけれど、大変そうであることは伝わってくる。関わりたいとは思わないけれど、この状況で放っておくわけにもいかないので、駆け寄った。

「大丈夫ですか」

声をかけるとゆら〜っと顔をこちらに向けた。ホラーかな… なんて失礼なことを思いかけたそのとき、真っ黒につやつや光る眼に見つめられる。訳ありだとか大変そうだとか、さらりとそんな印象を抱いたことがなぜかひどく恥ずかしいことだ思わされる瞳だった。

「大丈夫ですか?」

「大丈夫です、ありがとう」

まっすぐな声が返ってきた。

「立てます?」

「多分…よっと」

小枝のように骨ばった指、手のひらで女の子は地面を押した。フワッと立ち上がる。あまりにも軽そうで、「訳あり」の文字がまた頭に浮かびそうになる。瞬きをして切り替える。

「良かった。貧血? 気をつけてくださいね」

女の子を背にして立ち去る。数秒後、うしろでドサリと音がした。

「あらら…だいじょうぶ〜?」

守衛のおじさんがのんびり近づいていくのが見えたので、今度はできるだけ足早に歩を進めた。


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とんこつラーメンを食べる。うむこれは確かに臭うよ、くさいよと思った途端に涙が湧いてくる。これは惨めな女の独りごと、独りごっこ、寂しい。こんな気持ちじゃラーメン食べきれないよ、食べなくて良いよ、帰ろう。壊れてゆく何かを感じる、いやもう既に壊れてる。どうすれば良いんだろう、世界をまとめる求心力をこの胸にください。胸に手を当てお祈りしようかと思ったけれどそれじゃあほんとうに何かが崩れて戻れなくなってしまう気がしたのでお金を払って店を出る。ぽこぽことお腹が鳴る、悲しい。


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ラーメンとんきちの前に差し掛かろうとしたとき、目の前に傘が現れた。バッ…と誰かがさしたのだ。驚き、イラッとする。女性のようだったので顔を見てやろうかと思って、追い越した辺りでさらりと振り返る。真っ黒につやつや光る眼と目が合い、血の気が引く思いがする。あの子だ。彼女は私と同い年かそこらだろう、同じ大学に通っているのだろう。…関わりたくない…と思ったそのとき、

「あ」

まっすぐな声、一文字。呼ばれたなと降参する思いがした。私はなぜかほっとして、「あ」の続きを聞きたいと思った。

「あの話聞いてくれません?」

厄介ごとのにおいがぷんぷんする言葉が続いた。

「いや、ちょっと…」

やっぱりダメだ、関わってはダメ。

「あの助けてくれません?」

彼女は泣いていた。


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さやかさんが話してくれたのはいわゆる普通の失恋話だった。腹を括って一緒に入ったカフェにて、コーヒーを飲みながら話を聞いた。わりあい起承転結のはっきりした聞きやすい話で、これだけまともに話せるのなら大丈夫だなという気がした。そうして黒い目・焦茶のコーヒー・つやつやがふたつ…なんて思って眺めていると、話し終えてコーヒーを飲むさやかさんの黒い目がするすると正気を取り戻していくように見えたんだった。それはやはり勘違いではなかったのか、彼女自身、あれ…?というような顔をして、

「なんだか魔法が解けたみたい」

とつぶやいた。

「それじゃ解けてないような発言」

少し気の緩んだ私がそういうと、

「そうだね」

と目を丸くして笑った。


カフェを出るとぽかぽかとした陽気。あれ、さっき雨降ってなかったのかと今さら気づく。こんな晴れの日に傘をさしたさやかさんをまたやや怖く思う気持ちが生まれ、振り向く。さっぱりした顔でこちらを見つめ返した彼女は

「ありがとう、助かりました、ほんとう。」

私の手を取りキュッと握って去っていく。細い足で爽やかだ。

肩の力が抜ける、春のにおいがした。