佐川美術館で開催の「田中一村展」のレポートです。
今回は、会期初日に行ってきました。
これから訪れる方の参考になればと思います。
その前に田中一村について簡単に振り返りたいと思います。
田中一村(1908-1977/明治41-昭和52)
彫刻家(号:稲村)の父を持ち幼き頃から南画(中国の元・明に影響を受けた絵画/山水や花の画題)を描き、
7歳の頃には児童画展で文部大臣賞(天皇賞)を受賞。父より雅号「米邨」をもらう。
1926年(大正15年)に東京美術学校日本画科へ現役合格するものの2か月余りで自主退学。
その後は師につくこともなく独学で日本画の道を歩む。
画壇を目指すも認められず、50歳の頃に奄美大島へ渡り、独自の画力で奄美の自然や地で生きる動植物を生き生きと描いた。
生前は、個展を開くこともなく、死後間もなくして評価を得た日本画家。
展覧会は、制作年に従って4つの章立てで企画されていました。章立ては以下の通り。
1章 青少年時代
2章 千葉時代
3章 一村誕生
4章 奄美時代
それぞれのセクションの見どころを紹介します。
第1章
「青少年時代 若き南画家」(1915-1930 7歳~22歳)
神童と呼ばれた幼少から東京美術学校へ入学、退学後の22歳までの作品が約30展展示されています。
大人顔負けの南画作品、力強い筆さばきや墨の払いに注目。
ここでは、現存する一村最古作品《菊図》が展示されています。
7歳に制作したもので一村の自尊心を物語るエピソードが残っています。
作品の左手に紙が貼られていてます。
これは、父が手直しをしたのを嫌がり一村少年が破った跡だそうです。後年、紙をあて補修しました。
第二章
「千葉時代、新しい画風の模索」(1931-1946 23歳~38歳)
一村は、東京美術学校を退学後、どの会派にも属さず、師にも就くことなく新たな日本画を目指します。
しかし、支援者の人々には認められることなく絶縁となってしまいます。
30歳の頃に遠縁である母方の親戚川村氏を頼り千葉へ移住します。
そんな一村苦悩時代の作品を約45点展示しています。
南画の名残りを感じるの作品や素朴な農村風景、動植物等、様々な作品を観ることができます。
独自の作風を模索する様子を、作品を通じて観ていくことができます。
何気ない情景を丹念に描きこみ独自の世界を模索していく一村の心の移り変わりも感じながら思いを馳せて鑑賞しました。
第三章
「一村誕生」(1947-1957 39歳~49歳)
いよいよ「一村」雅号が登場します。それまでは父が幼少期に授けた雅号「米邨」を使っています。
私たちは「一村」という名で慣れ親しんでしますが、意外と「一村」の作品は少ないそうです。
1947年、千葉県展に出品し、出品したすべての作品3点が入選し、川端瀧子主催の第19回青龍展で《白い花》が入選。
雅号も田中米邨より柳一村と改めます。
翌年の第20回青龍展では《波》と《秋晴》を出品しますが、《波》は入選したものの自信作の《秋晴》は落選。
不満の募る一村は、作品の評価をめぐって抗議し《波》の入選を辞退し川端瀧子に絶縁状を送ります。
その後、日展、院展にも挑戦しますが全てが落選。
そんな一村に支援者の川村氏は気分転換に西日本への旅を勧めます。
旅先での見聞きしたものを描き、旅は和歌山、四国から種子島、屋久島へと足を延ばし、
南国の自然風景を描き奄美時代時代へのきっかけとなります。
青龍社展入選作の《白い花》、落選した《秋晴》、奄美時代を彷彿させる南国植物をモチーフとした作品など約60点が展示されています。
入選した白い花と落選した秋晴を比較して鑑賞することもできて、一村の理解が深まるセクションでした。
《白い花》は、眼前に広がる鮮やかな白い花と緑が印象的です。木には小鳥が立ち爽やかな印象。
一方、《秋晴》は金地を背景に農村の家と木々。農作物の大根が吊るされているという作品。素材は豪華ではあるがモチーフは平凡。
個人的には《白い花》の方が印象が強く、後まで残り、丁寧に描きこまれているかと思います。
どちらかといえばこちらの方が好まれやすい作品かもしれません。
また、《秋晴》の制作年を確認すると昭和23年。戦後まもない頃に金地の背景。もちろんどの流派にも属せず…。
こんなことも審査に影響したのでしょうか?
第四章
「奄美時代、旅立ちと新たな時代」(1958-1977 50~69歳)
一村は50歳の時に千葉の家を売り払い、奄美大島行きを決行。
最後の章では、画家集大成の地、奄美大島で描かれた作品が約40点が展示されています。
今展覧会の目玉作品《アダンの海辺》は8月19日までの展示となっています。
大作《アダンの海辺》以外にも見どころは多々あります。
奄美に渡った一村が最初に訪れた名護市の和光園。
和光園はハンセン病患者を収容した国立療養所「和光園」でその地で出会った人々を生き生きと描いています。
和光園に訪れた時に描いた《和光園の芳名録》には、当時の一村の気持ちが綴られています。
その他、一村を支えた千葉時代の支援者に描いた襖絵《四季花譜図》も展示されていました。
画家一村を育んだ地域の環境や支援者との交流などを作品を通じて観ることがでます。
没後まもなくして一村作品が認知されたのは、一村の人柄と作家を支える人々がいたことを伝えています。
奄美大島へ渡った一村は画業10か年計画を打ち立てます。「5年働いて3年描き、2年働いて個展の費用をつくり、千葉で個展を開く。」
一村は、紬工場の染色工として5年働き、生活費と絵具代を稼ぎ、絵を描きます。
結果としては、個展を開くことはできませんでしたが、奄美大島の自然や特有の熱帯植物や生き物をいきいきと描いている。
そして、画家自らが「閻魔大王の土産」と称した《アダンの海辺》
《不喰芋と蘇鐵》
今展覧会では、《アダンの海辺》《不喰芋と蘇鐵》(不喰芋と蘇鉄はパネル作品)が並べて展示されています。
今展覧会作品の中で最もじっくり観てほしい作品です。
砂浜の表現にはキラキラひかる岩絵の具が使われていて細かいところまで念入りに描きこまれています。
以上、私なりの田中一村展の感想と見どころを記しました。
参考になれば幸いです。
開業20周年特別企画展「生誕110年田中一村展」
2018年7月14日(土)~9月17日(月・祝)
会場:佐川美術館
http://www.sagawa-artmuseum.or.jp/plan/2018/02/110.html