風鳴館は、行き場のない人たちが自給自足の共同生活を通じ、

自然の中で新しい自分を発見し、やがては自立していくまでの間

滞在する個人的な運営の施設です。


 風鳴館では体験の中から、実際にあった多くの不都合を克服し

ていくため、次のような「風鳴館宣言」をまとめ実践しております。


「風鳴館宣言」は風鳴館に滞在する当事者及び多くの支援者の

方々に、風鳴館存在の意義と運営の考え方を理解して頂き

更なるご協力を賜るようお願い申し上げるためにまとめたもので

合わせて一般の方には誤解のないよう正しく見守って欲しいとの

願いから表明する事と致しました。




                  風鳴館宣言         館  長


1.私は政治や経済や社会のあり方が本当におかしいと、日頃から批判を

  し続けております。しかし批判をしているだけでは、批判をしている相手と

  変らない事になります。ですから今、最も必要だと思う事を単に実践して

  いるだけで、他意は全く有りません。


2.風鳴館は過去にはこだわらない、受け入れの条件に制約を設けない。

  その代わり、ここの考え方やルールを良く理解しその積りで滞在して

  もらわないと、ここにおいておく訳には行かなくなります。


3.風鳴館では個人という事を、最も大切に考えております。


4.ですが、個人が集まってしかる後に社会が出来たのではなく、「社会の

  中に個人が生まれ出てくる」というのが現実だと捉えています。


5.これは人間がヒトとなる以前の動物の時から既にそうなっていました。

  生まれた時そこには、お母さんが居た・お父さんも居た・兄や姉も、

  場合によってはお爺さんやお婆さん、あるいは叔父さんや叔母さんが

  居たかもしれません。これは既に立派な社会です。


6.つまり、社会の中に人間として生まれて来て、しかもその”社会”なしには

  生きては行けない動物なんだと考えています。


7.では社会とは一体何なんだという事になりますが、風鳴館では社会とは

  「人間交際」の事であると規定しております。


8.では人間交際にとって最も基本になることは何か。これはコミニケーション、

  つまり人と人との意志の疎通の事で、これが無ければ社会そのものが

  成り立ちませんし、個人も存在しえないものと捕らえています。


9.風鳴館では他人同士が一つ屋根の下で共同生活を送っています。

  そうしなければ経済的に力の無い者同志が暮らしていけないからです。


10.他人同士がうまく暮らして行くためには「他の人との間に『他者』という

  垣根を作ってはならない」というのも風鳴館のルールの一つです。


11.先輩後輩もない、年齢の上下もない。お互いそれぞれの人格を尊重し、

  敬意を表しあう関係でなければ共同生活はうまく行きません。


12.全ての事に自分の都合を優先してはならない。他を見回し、人の都合

  や”他人の心”に注視せよ、その事によって「自分を忘れよ」。自分を

  忘れる事の方が結局最後には大きな果実となって自分に帰ってくる。

  他に不愉快な思いをさせれば、これもマイナスとなって自分に帰ってくる。

  という事を「風鳴館生活の心掛け」としています。


13.風鳴館に居る各人にはそれぞれ違った過去があり違った生活習慣が

  ある。そうした違った生活習慣どうしがぶつかると、些細な言葉一つでも

  とても耐えられない深刻な事態にも繋がりかねません。


14.風鳴館は滞在している間に「自分を取り戻す」・「自分を見つめ直し

   新しい自分を発見する」そしてつまらないプライドは捨て、真に自分

   自身が誇りを持てる「確固たる自分」を見付けて欲しい。それが

   願いとする所です。

   単に無料で身を置くだけの積りの人はここにおいて置くわけには

   行きません。


15.自給自足の生活をしながら自然に学び、自然を自分に写してわが

  身を考える。

  それが「自給自足実践塾」の意味であり、「食べて生命を維持する」

  「食べるために我が身を以って作業をする」「毎日毎日三度三度その

  単純な同じ事を繰り返す」その事が「自分の人生にとって何なのか」

  そこに深い意味を見出して行くのが風鳴館における「自給自足実践塾」

  の意義としています。 


16.風鳴館の現状は「やっと一息つけるだけの小さなオアシスのようなもの」

  それぞれが収入を得て暮らしを立て、又は暮らしの目途を立てることが

  出来る程では有りません。

  そこで今後身を寄せる人々のため、それぞれに多少なりとも収入を

  得る事が出来るような体制にしたいと努力をしています。


17.従って日常は、そうした体制作りの為の作業や自分達の自給自足の

  作業は、生活のための一部であり「収入を得るための”仕事”ではない」

  と規定しています。


18.従って一切の強制はしない。毎日どう過ごすか、みんなと一緒に作業を

  するかしないかも自分の考え次第だから、求められなければ作業指示

  もしない。というのが原則です。


19.これは個人を大切に考える一環として「自由」という事も重要視している

  からです。

  「自由」すなわち「自己決定」が原則だからです。「右行くも左行くも最後は

  自分が決める、従ってその結果は良くも悪くも人のせいにはしない」

  これも風鳴館の原則です。


20.従って日常生活の中で、”心得違い”を指摘しても「人間を高めて行く為の

  『気づき』を促すものであり、最低限の風鳴館維持のため」であって、個人

  を非難するものでは有りません。



      以上20項目を、理解しよう受け入れようとする者のみが

      「滞在者の資格」としています。


  ----- 今日は以上で風鳴館日誌を終わります -----


  


  今日の共同通信によりますと、国際捕鯨委員会(IWC)のマキエラ議長から、

日本の調査捕鯨や沿岸捕鯨は現在IWCでは頭数管理が出来ないので、

「大幅削減」した上で、南半球や沿岸捕鯨を認めたらどうかという提案が

ありました。


 さては商業捕鯨が認められるのか。という事ですが、日本の農林水産省では

数字が示されなければなんとも言えないということでした。


 又、この3月にはアメリカ会場で「中間報告」というステップがありますし、果た

して6月に行われる定時総会では、どんな展開になるかわかりません。


 欧米では沢山の牛を殺して食べていながら、鯨はいけないという理屈には

殆どの日本人は納得が行かないでしょう。私も全くその通りだと思います。


 ヨーロッパでは主に羊が、英米は牛を、中国はニワトリが、日本では魚がと

いうように蛋白源を確保して来ました。何故欧米は他の文化を認めようと

しないのでしょうか。


 これは私の偏見かもしれませんが、「十字軍」でも解る様に、欧米では宗教

が生活に根を下ろし、他のなじめない宗教は異教・又は異端として忌み嫌い

強い排他的なところが昔から有りました。

 

 又、宗教改革以来の資本主義では、私有財産を認めるというところから、

自者と他者をはっきり区別し、他者を排除するという概念が著しく、それが

垣根となって欧米以外のなじめない文化はどうしても排除したがるのでは

ないか、と私は考えてしまいます。



 話は飛びますが、鯨の話ばかりではなく、いまや世界的に魚資源が枯渇

して大変な事になっていますね。

 実は、ヨーロッパや日本ではこの10年間で魚の消費量が2倍にもなって

いるそうです。

 ところがそれどころではなく、中国がこの10年間で10倍も消費が増えて

いるんだそうで、これでは世界の海から魚がいなくなるのは当然です。


 ところで、日本ではたこ焼きが大変喜ばれていますが、このたこはどこで

取れたものかご存知ですか。最初は殆どがモロッコ沖で取れたものだった

んです。

 ところが、日本の漁船が取りつくし、合わせて今まで蛸をあまり食べなかった

現地の漁師が、日本へ高値で輸出できることから乱獲し、とうとうモロッコ

政府は蛸漁を全面禁止にしてしまったんです。


 それ以降日本の漁船は、西サハラ・モーリタニア・セネガル・ガンビアと

蛸を求めて西アフリカの海岸をどんどん南下していきました。

 

 ところが蛸だけではありませんね、マグロも大きな問題になっています。

マグロも最初は西アフリカが主な漁場でしたが、やはり取れなくなっては

西アフリカのアンゴラ・ザンビアと南下し、ついには南アフリカの喜望峰まで

到達してしまいました。

 そこも取れなくなって、しばらくはアフリカ大陸とマダガスカルの間の海で

操業していたのですが、そこも撮り尽くしてカナダの東方沖の公海にまで出

かけました。

 カナダでは内海でマグロを養殖しているのですが、大きくなって外海へ出て

しまうのを公海だからというので日本をはじめ世界の漁船がマグロを捕獲

すると言う事からカナダとの間で摩擦を起こしているという事のようです。



 エコロジーという意味でも、今後は日本文化に即した資源とののかかわり

方を、むしろ世界に対して主張していかなければならないと思います。

 それには、脱工業という面にも目を向け、大量生産・大量消費からの転換を

図り、「快適で物質的に豊かな生活の追及」という有り方を見直し「消費水準

の高い」暮らしのあり方を考え直さなければならないと強く感じています。


 共同通信のIWCからのニュースから、意外な方向へ話が発展してしまいま

したが、皆さんはどうお感じになられましたか。


 つきぬ話はこれ位にして、今日はこれで休ませていただきます。

     それでは、おやすみなさい。-----------



 

  皆さん今日は、

今日は久しぶりに良い日差しが照っておりました。まだ何日か続きそうですね。

北陸は冬の間、来る日も来日もどんよりとして、憂鬱な日が続きます。


 そうした北陸の暮らしの中であっても、今はなんと言っても話題は「冬季オリンピック」ですね。

金だの銀だの、TVではあまりにも前評判が良く期待ばかり持たせる報道なものですから「大丈夫かな」

と思っていたらやはりあまり振るわないようですね。


 マスコミがあまりにも早くからメダルの話ばかりなものですから、各選手がプレッシャーもあり何とか

期待に答えなければと、「守り」に入ってしまったきらいも有るのではないでしょうか。


 TVの画面を見ていても、あまりにも心無いスポーツ記者の発言には、少々腹が立つこともありました。

ある記者は、15歳の高木美帆選手に

 「金メダル期待しても良いんですよね!」

こうです、15歳ですよ、本人はどう答えたら良いんでしょう。プレッシャーがかからない訳ないじゃないですか。

 又ある番組では

 「メダルは、やっぱり、どの色をねらいますか!」

と、こんな具合です。


 

 スポーツの問題だけではありません。前からそうではありますが、特に政治問題などは影響が

大きい訳ですから、マスコミにはもっと本来の役割と責任を考えて欲しいですね。

 

  ここのところの「小沢問題」もそうです。報道各社が同じ調子で、まるで金太郎飴のようですね。

例えば議員の資産公開のときも、「資産公開」を単に小沢追及の道具としてしか扱っておりません。

「資産公開」は、各国会議員が不正をはたらき権力を利用して蓄財をしないよう、毎年年末までの

資産を公開し、昨年と比べて著しく資産額が増えていないかどうかを見極めるためのものです。


 小沢幹事長や鳩山総理の資産の変化がどの程度か、そこを追及するのならばともかく、ただ

現在の資産額がどうの、庶民と比べてどうのというイメージを利用しての追及は、公に発表された

材料をそのまま利用した報道で、足を使っての取材のあとや問題の掘り下げが全くありません。


 朝日系のTVなどは、小沢幹事長の資産だけを根掘り葉掘りまるで、人の懐を覗き見するような

調子の報道番組でした。

 

 又何れの報道も、「検察の関係者によると」という言い回しで、まるでリークが土台の組み立てで

しかない印象で、検察の見方や流れに同調した各社の論調で、来日もくる日も小沢問題を取り上げ

その挙句、「小沢幹事長はやめるべきかどうか」という世論調査をし、何パーセントの人がやめるべきと

言っている。ときめつけるのは”世論誘導”としかいえません。


 私は、小沢幹事長が良いとか悪いとか言っているのでもないし、私にとってはあまり好きになれない

ほうの人ですが、こと政治は「人間が良いとか悪いとか」の問題ではないはずです。

 

 問題はマスコミの姿勢の問題です。今のままでは戦前のプロパガンダと少しも変わりません。

その姿勢がより重要な問題を見逃す事に繋がるからです。

 

 例えば民主党が、予算の箇所付けの資料を、予算が決まる前に地方の支部に配った。という

事を問題にしておりましたが、この資料の事前配分は、かって自民党でも普通に行われていた事

でもあり、問題は民主党の行為は「集権的権益再配分ではないか」という追求をし、このことが

どういう問題をはらんでいるのかを深く追求し、国民に知らせるのが、本来のマスコミの役割だと

私は考えます。


 マスコミは「権力を追求するのがマスコミの使命だ!」と大義名分を振りかざしますが、何のために

権力を追求するのか、そしてそれをどう国民に知らせるのかが大切なはずですが、その目的のための

堀さげを忘れ、追求する事のみが目的、つまり「追求が自己目的化」してしまっております。


 ですから、八ッ場ダムの問題のようになってしまいます。

国交大臣が「八ッ場ダムは中止します」と発言すると、すぐ翌日の新聞では一面のトップ記事で

大々的に報じました。「馬鹿じゃなかろか」と思いました。何故なら、民主党のマニフェストには最初から

はっきり、「八ッ場ダムは中止します」と書いてあるんです。

 あれ程各党のマニフェストを比較して論評していながら、「不要なダムは廃止が世の流れ」という風に

一般的な捕らえ方をしていて今更なんだ、というわけです。


 そして、報道各社は早速現地へ飛んで行き、「住民が反対している」と報じました。

取材し、その事柄を十分に調べた上で報道するのが本職であるはずなのに、この人達は八ッ場ダムの

いきさつを知っているのかしら、と思ってしまいます。


 元々群馬県のこのダムは、中選挙区の時代にダム建設推進派の福田赳夫元総理と反対派の中曽根

康弘元総理派が選挙のたびに争って、政争の具になっていたものです。だから60年も前に計画

したものがいまだに中途半端になっており、必要性そのものが問題になっていたものです。


 テレビの画面では、住民の反対集会などを何度も放映しておりましたが、全部とは言わないまでも

かなりの人は福田派の動員によるもののようです。

 ここでも「正義の味方」を演出するマスコミの意図が見え見えです。


 こうした問題は沢山ありますが、重要な問題ですので「普天間」の問題だけは長くなりますが、取り上げ

たいと思います。

 


 結論から申しますと、これからの日本の針路を決める重要な問題だという事です。

日米関係はこれからも「核の傘」の下で日本の安全を守ってもらい、経済問題を始めとする多くの事を

アメリカの抑圧(要望という名の)を受け続けていくのか、それとも「重武装してでも対米中立」かという

大きな問題をはらんでいる訳です。


 安全保障条約そのものが平成5年の日米安全保障協議委員会(町村外相・大野防衛庁長官とライス

国務長官・ラムズフェルト国防長官)の話し合いで中身が変質してしまっております。

 1.日本を守るだけではなく、周辺地域の有事の際は安保が機能する。

 2.日常から米軍の活動に全国の自衛隊基地や空港を使用する。

 3.日本そのものの防衛は自衛隊のみがあたる。

 4.有事の際は周辺地域を含め自衛隊は米軍の後方支援に当たる。


簡単に言えば(不正確ですが)こういったことです。

又、「何かあった際はアメリカは核攻撃で日本を守ってください、私たちは平和主義ですから」という

アメリカに人を殺戮してください私たちは出来ませんというインチキ平和主義は何時までも通用しなく

なりますし、そこをアメリカは「安保ただ乗り論」として責めてくるわけです。

憲法を変えてまで再軍備するのか、重武装をした上で「対米中立」をめざすのかという重大な決断を

迫られております。


 そこで「東アジア共同体構想」という事が絡んできます。当然中国は成り行きを見守り、抑止力が

手薄になれば「尖閣諸島」を我が物顔で手中に収めるでしょう。


私はけっして再軍備や重武装を推進したいとは思いませんが、普天間問題はこうした非常に重要で

微妙な国益の問題ですから、国民は深い理解の下で今の政府の行動を見つめなければなりません。

 その国民の理解を促すのがマスコミの大変大きな力ですから、今までのような「民衆は常に正義

マスコミは常に正義の味方」などという態度で、ただ意地悪をしているがごとき政府への追及の仕方は

結局国益を損なってしまいます。



 今回政権が交代しました。今はこの政権交代の意味をじっくりと考えるときです。

今までのように「国家からの集権的再配分」を続けるか、それとも自立した地域社会作りをし、それぞれ

独自の新しい再配分の仕方を促すか、そしてもう一つは

 今まで通り市場主義を重要視し、「自己責任」とするか、それとも介護も子育ても教育も弱者の問題も

「社会責任」でやっていくか、大きな政策転換を考える必要に迫られて居ります。



 ですからマスコミの責任は重大です。「庶民感覚が錦の御旗」とばかりに、お笑い芸人やタレントが

キャスターを務めたり、「オチャラケの報道番組」で行政や政治家をこき下ろして笑い転げたりしている

場合ではない、といまの報道のあり方には危機感を感じている次第です。


 -----大変長くなってしまいました。一人くらいこんなブログを発信しても

                                  良いんでは?と思っています。-----


「働けど、働けどなお我が暮らし、らくにならざりじっと手を見る」


 今、日本でも世界でも、おそらく啄木がこの詩を詠んだ時以上の深刻さで、貧困と格差が大問題になっております。

 又、ある本ではこんな話が紹介されています。


     「大恐慌下の母子の会話」

 子:ねえお母さん、こんなに寒いのに何でうちはストーブ焚かないの。

 母:お父さんが首になって、石炭が買えないからよ。

 子:なぜ首になったの、あんなにお父さん会社の為だ・会社の為だって、一生懸

    命頑張っていたじゃないの。

 母:石炭が売れないで炭鉱がつぶれたからよ。


 こんな笑えない話が今現実に別の形で起きているんです。

(余談ですが、実はこの会社、炭鉱はつぶしても会社はつぶれないで、その後石油関連の仕事で大変儲けております。)


 何故、石炭は売れなくなったのでしょう。

石油やガスの方が、燃料の補給は楽だし煙は出ないし汚れないし便利だから事業所も家庭も「生産性が高い」「快適な暮らしが出来る」という事と、会社は多くの人間を雇わなくても、沢山の売上げと利益が確保できるから、石炭には用がなくなったからです。


 生産は上がり、利益分配で給料は上がった分、快適さを求めて生活面の消費は多くなり物価は上がって、「豊かな生活=消費水準が高い」となり安定した暮らしか

らはどんどん遠くなります。そして、政策が転換するたびに取り残される人々もまた多くなります。


 これまでは政府は医療・介護・子育て・障害者や老齢者・その他の弱者に対し、色々な手立てを尽くして来ました。

 労働組合や経済団体などとも話し合いをし、労働分配率の問題・労働時間の問題・その他雇用問題など、そうした調整によって国内経済や国民の暮らしが何とか回っていく(ガバナンス)ように努力はしてまいりました。


 しかし、今は金融の自由化とあいまってグローバル化の波が国民の一人一人を直撃するようになりました。

 安い賃金を求めて企業は海外へ工場を移転、あるいは税金の安い国へ本店を移す。金利の有利さを求めて資本は自由に国境を越えていく。あるいは突然資本を引き上げる、食料・燃料・その他の素材も投機の対象となって値上がりする。

 つまり、最早国家が、国内の経済(国民の生活)をコントロールする能力を失ってしまった、というのが実状です。


 1984年の統計では日本の国民一人当たりのGDPは、1万ドルでした。

この水準は「食うに困らない・病院にいくのに困らない・最低限の利便性はある」という生活を満足するものだと言われていました。

 

 本来ならこの時、生活のあり方や社会のあり方・目指すべき国のあり方を国民的レベルで考え、変革しなければならない時に差し掛かっていたんだろうと思います。

 しかし、あくなき企業の利潤追求と、あくなき国民の快適さ豊かさへの欲求からオイルショックの経験を経ているにも拘らず、その反省も無く更に経済成長を目指

ていきました。その挙句が財政のアンバランスにも拍車がかかって参りました。


 その結果、わずか5年余りで国民一人当たりのGDPは3万ドルにまでなってしま

いました。つまり、2万ドルから3万ドルへの道はただただ経済を膨らませる為だけ

道程でした。経済成長戦略が経済を回す為だけの戦略つまり、経済成長が手

段から目的になってしまい、そしてバブルもはじけてしまったのです。



 こうした経済社会の中で弾き飛ばされはみ出してしまい、職を失い生活基盤を失って、行き場のない人達が私のところの「風鳴館」に身を寄せているのです。

 しかし、この人達は経済が回っていた時代の生活習慣やものの考え方を捨て切れません。


 所持金なしで身を寄せているにもかかわらず。近所の手伝いで手に入ったわずか2~3000円ではあっても貴重な現金で、「トイレクリーナーを買い、トイレ消臭剤を取り付け、せっかく支給した歯ブラシを捨ててしまって、自分の気に入った歯ブラシに買い換えてしまう。ついでに新しい格好の良いグラスまで」といった具合です。


 従って、定時のミーティングの時

  「先ずは食って生きていく為に仕方なしにでも働く、これを『レイバー』というんで

   すよ。

   自己実現のために自発的に働く事、これを『ワーキング』というんですよ。

   同じ働くという事でもこうした違いがあります。これから職を求めて自立してい

   く場合、先ずは食べて生きていくことだけに集中してください。生活が安定し

   てから自己実現を目指して頑張ってください。

    今のように心得違いをしていたら、生活が固まらないうちに又元の木阿弥

   に成ってしまいますよ。」


 こんな説教じみた事を言わなければならなくなってしまいます。でもこの状況は何 

かに似てませんか。そう、実は地方自治体の有様がこの通りなんです。


 その地域が将来に向かって、地域全体がどうおまんまを食べていくかの方途が

固まっていないのに、あれも欲しいこれも欲しいで、最低の社会福祉や教育の事

まで十分には出来ずにっちもさっちも行かなくなっている。そうした自治体が多い

のではないでしょうか。


  -----つい長くなってしまいました。今日はこの辺にしておきます。----


こちらはfumeikan私の記事をアクセスしてください。

日本海次郎

ヒゲのとっつあん

風鳴館

fumeikan

どの言葉で呼び出せばよいかよく解りません。